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20240224日記_場違いな場面で半笑いになることについて、人の心が壊れる時

 毎日、わ、きしょいな~と思うことが1つ以上あるけれども、口に出さずに、きしょいな~と思ってしまってから、おや、どこがかな?と考えて、自分の価値観を再認識する。これは作業であり、慣れである。1日の内、10000回くらい、うわ、きしょいな~と思う日があれば、明らか調子が悪いので、病院に行った方が良い。
 わ、きしょいな~と思う時、大体私は、半笑いである。それが顔に出ているか出ていないかは置いておいて。
 何故半笑いか。それは、引いている、かつ、面白い、からである。え?どうしてそんなことできるの?書けるの?言えるの?どういう人生生きてきたら、そうできるの?不思議~と思う。「人を傷つけない笑い」という言葉を最近よく目にするが、日常生活に置いて、わ、きしょいな~と思う時、爆笑までとは言わないが、笑えるのは事実だ。というか、さっき書いたように、現に自分が、半笑いであるという自覚がある。結局自分では表現できない、想定もしない、価値観のあまりにもかけ離れたところに、きしょい、と思っている。笑いも非常識ゆえに起こることであるから、原理は同じである。
 お笑いはファンタジーであるから、お笑いという土俵の上で展開されるから、価値観がかけ離れた事象が展開されても、面白いだけで済む。
 小学校の時、理科の授業でマウスの実験動画を見せられた。それが具体的にどういう映像だったかは忘れたが、動物実験の動画であり、子ども達に衝撃に与えたのは確かである。例のごとく、わ、きしょいな~とおそらく思っていたんだろう、動画も半ばというとことで、事件は起きる。
 ○○ちゃん、さっきから、何で笑ってんの?と前の席の女に指摘され、クラス全員から注目されたのである。あっ、やばいなと思い、余計に取り繕う笑いをするという最悪すぎるムーブ。しにたくなった。未だにトラウマである。
 じゃあ、聞くけども、逆に、お前らは何平然と動物実験の映像を見てんねん、引くだろ、苦笑いもしたくなるだろ、と今なら強く返せるかもしれない。しかし、当時の私はまだ子ども。自分の感情や表情に自覚的になるまで発達していなかったため、ただただ他の人と同じような可哀想~と哀れな顔をする、と、いうような正常な反応ができない自分が、壊れているのか?と悲しくなった。
 別にそれでいじめに発展するようなことも無かったが、人と違うと指摘されて、恥ずかしく、嫌だと思った。今なら自分の感情を整理して説明できるが、子どもには無理だろう。可哀そう~という表情が自然と出てこないことが不自然だったかと言えば、今思い返して、不自然ではない。もしも、目の前で、映像と同じことが繰り広げられることがあれば、可哀そうの表情か無の表情を出していたかもしれない。
 映像は既に事後のことで、実験動物は死んでいる。可哀そうも何も、資料映像として、すべては終わったものであり、我々はどうあがいてもそこには介入できないのである。この絶望感。そして晒し者にされている絶望感、唐突に何十人もの子どもに見られている状況、というか、この状況、何?この資料を見せて、先生は一体、何を考えているのか?こっち見ろよ。さっきから机に向かって一体何を書いてるんだ。授業態度か?カリキュラムだとしたら、どうかしていないか?というか、皆この状況を当たり前に受け入れすぎでは無いか?いや、きゃぁ!とかなるのはわかるけど、映像よりこの状況そのものにきゃぁ!とはならないか?いくらここで私が可哀想と思っても全てはどうにもならない、結局学校制度の犠牲者なんだぜ、ネズミも我々も、きしょいな~!!!なんですか、この状況、全部きしょいよ。
 以上が、おそらく小学生の私が感情レベルで考えていたことを言語化したすべてになる。これが言語化できないまま、気持ちが悪い、趣味の悪い面白さ、そして半笑い、に続くのである。
 価値観とかけ離れた事象に遭遇すると、人は、確実にすり減っていく。だからその前に笑って自分の心が壊れるのを、防衛している可能性もある。半笑いで済んでいる内は、いい。何故半笑いになっているのかも、追って冷静に、わかるから。ただ、それが積み重なったり、笑いにしての受け流しや分析ができず、直撃が続くようになると、人は自分が狂っていると自分で認識して壊れるのだ。いや、自分から自分を壊していってしまうのではないかと思う。無意識の内に。

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