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映画語り『トム・アット・ザ・ファーム』 嘘と真実、生と死、支配と被支配の共謀関係に燃える。

 私の好きな映画の一つ『トム・アット・ザ・ファーム』について語りたい。本作は、2013年に公開、日本では2014年に公開されたフランス映画である。監督は、グザヴィエ・ドラン。自らを主演としてトムを演じている。

 人間は、どのようにして、他者に惹かれ、関係していくのだろうか。
 『トム・アット・ザ・ファーム』は、このシンプルなタイトルが表す通り、トムが牧場に滞在する物語である。
 トムは、広告代理店の企画職を勤める都会に住む青年で、事故死した同性の恋人であるギョームの葬儀のために、田舎で畜産業を営む彼の実家を訪れる。事故死については、最後まで敢えて詳細が語られないため、ギョームがなぜ死んだのかは不明である。物語の登場人物は全員、何かしらの秘密を抱えているように描かれており、死んだギョームから視聴者と彼の母親のアガットに提示される秘密がこれである。
 秘密は人間に奥行きと、苦悩をもたらす。動物には秘密がなく、人間には秘密がある。動物は常に真実の中を、本能のまま生きるが、人間は常に偽りの中を、自分をも他人をも偽って生きている。本作の舞台が、畜牛を行う牧場であるのもポイントである。牛の生と死だけが、トム達の存在する世界の中で唯一はっきりとした真実として示されており、生々しさが逆に安心感を与える。トムが牛の出産に立ち会った後、血まみれの手を洗う場面は、恐ろしく官能的で嘘ばかりの世界の中で真実めいて輝いてみえる。

 この映画では、秘密が急に明らかにされたり、匂わされたり、一切明かされなかったりする。特定の一人の人物が、ではなく、登場人物全員が少しずつ謎に満ちている。
 トムは最初、無人の牧場の中を彷徨うことになる。牧場はギョームの母アガットと兄フランシスによって運営されていることがわかる。兄は暴力的で、問題がある男として描かれている。体格も大きく野性的で、顔はどちらかといえば繊細な造りであるトムとは違った武骨な形で整っている。薬に酔いしれながら自らイケメン兄弟と名乗るくらいのヤバイ男であり、何やら友人も一切いないようだ。後半になると、兄の異常性がどんどんと暴かれ、何故友人が一切いないのか、わかってくる。フランシスのトムに対するコミュニケーションの方法は、暴力に始まり、暴力に終わると言ってい良い。徹底して自分で自分をうまくコントロールできない感じ。だからこそ、相手にも暴力といった手段を使う。理解できない動物ような雰囲気も醸し出している大男だ。
 トムは葬儀の後、この家族の中に組み込まれるようにして、死んだ恋人の兄フランシスとの支配的で官能的な関係が始まっていく。家族の中で、トムはギョームとして、ギョームの恋人として、息子として、弟として、と様々な役割を背負わされることになる。互いに互いを、誰のかの代用品として見て、満足できない欲求を埋めている。
 本当に必要な人間が存在しないため、相互に、余計にさみしさが膨れ上がり、感情が爆発してく場面が描かれている。母も兄も隠された恋人も少しずつくるっていく。舞台が静かな農場であることもあり、静かな狂気を感じて、美しい。静かに狂っているというのは美しい。騒々しい現実社会の中で、狂っていると思われないよう自分を偽って生きる人間達から、遠く離れていく感じがする。
 それぞれが演じている感覚を持ちながら、急にどす黒い感情が現われる場面があり、この場面がかなり笑いを誘う。コントの雰囲気さえあるのは、異常な違和感のせいだろう。また、母と兄は、見たいものだけ見ようとして、見たくないものは見ないか、否定する。特にフランシスは暴力に訴えかけるのである。母アガットが兄フランシスを殴りつける場面もあり、この点で母アガットと兄フランシスはよく似ている。
 トムだけが、見たくないものを直視し続けて、客観的に見れば狂っていくわけだが、狂っていくことでギョームの死について直視せず、自分自身がギョームになりかわって、幸せさえ感じるようになっているようだった。
 ギョームは生前、トムの存在を母に知らせていなかったことが、母親と話して発覚する。つまり、同性愛者であるというカミングアウトをしていなかったのだ。このことにより、トムは恋人の葬儀ではなく、友人の葬儀に来たという立ち場で振舞わざる得なくなる。
 また、ギョームは、兄の命令で、偽りの”女”の恋人サラをつくりあげ、兄を経由して母親に報告していたこともわかり、トムは、サラの台詞として自分の気持ちを語る場面が何度か登場する。これは最初、兄フランシスの命令で『贖罪』として、強制的にやらされる。フランシスからトムに対して度々贖罪や償いが要求されるが、それは弟をたぶらかした罪であったり存在そのものの罪であったりする。トムは最初こそ抵抗するのだが、圧倒的な暴力の前に敗北していき、面白がり認めるようになるのだった。
 言葉の節々に、トムのギョームに対する血が通った思い、後半では、ギョームやフランシスに恨みや復讐といった要素が入った来て、嘘であるのに真実を言っており、その状況をトムとフランシスだけがこの世界で明確に言語を理解しているという状況を作り出す。
 トムは、フランシスの支配と暴力の中で、フランシスの言う通りに偽りの自分を作り上げる中で、人に見せたことがない、自分でも知らなかった、自分の生のような部分を、出していくようになるのである。トムは、この点について自覚的であり、後ほどトムが自ら呼び寄せる、偽りのギョームの彼女であるサラの前で、この家とフランシスには自分が必要であり、ここに居る必要があると語るまでになる。
 それから、ギョームは兄の存在をトムに知らせていなかった。この理由については一切語られていないのだが、感情のコントロールができず支配的な異常な兄の存在を隠したかったことや、兄だけがギョームが同性愛者であることを嫌悪しながらも知っている点から、何かしらの関係性を推測することができる。
 兄のフランシスは、訪れたトムに対して初日から「きっとお前が来るだろうと思っていた」と執拗に迫ってベッドやトイレに追い込んだり、暴力的な意味で手を出すことに一切躊躇いがない。後半では離れていたはずのベッドが密接していたりと、兄と弟の間にあったであろう何かしらがトムの身体で再現されていることが察せられる。
 フランシスは、最初から敵意を理由に強くトムと関係する。フランシス自身、トムに関する感情を最初は敵意だけと思っていたが、感情のコントロールできない、動物のような人間であり、敵意の奥に異常な寂寥感がある。また、同性愛者を嫌悪しながらも、自らも弟に異常な執着があったりトムにせまったりなど、矛盾した感情によって狂わされてしまったのだろうなという悲壮感もある。フランシスは度々大きな声を出して、自分の正しさをトムに称するのだが、それはまるで自分に無理やり言い聞かせているようで、哀しく同時に笑える。
 トムも最初こそ恐怖でフランシスを見ているのだが、じょじょにそのようなフランシスの寂しい一面を察してしまい、自分がいてやらなければいけないんだ、という典型的なストックホルム症候群のような状態に陥っていく。ドラン監督も、ストックホルム症候群のようなものを描いていると語る。
 トム自身、フランシスを嫌悪しながらも、そこにギョームの面影を見てしまうのと、容赦なく侵略してくる態度に、完全な拒絶ができず、被支配の中に屈服していく。情けなく自嘲する場面も多々出てくるようになるが、そういった場面のトムの表情が官能的である。また贖罪させられているという表情もなんとも官能を感じる。
 隔離された空間で、互いに偽りあい、暴力と被暴力の中で関係しながら、動物の生死の世話をすることで、二人にしか見えない真実のようなものがあらわれ、連帯していく。語りあいながら、互いに嘘を言っているとわかっていてその裏にある真実を読んで、慰め合っていくようになり、関係性が変容していく。

 コミュニケーション方法に問題があり感情の制御ができない孤独な大男と秘密を持つ都会的青年が、共通して失われた物をめぐり、対立しながらも暴力被暴力の中に真実のような物を見て、互いに囚われていくところまで行ってしまう。寂しさと秘密の共有は、感情爆発の火種になると思われる。自分でもよくわかっていない、言語化できないもやもやとした部分が共鳴して、この人がいないと駄目だと思ってしまう。描かれる暴力は、殴打が多く、治療の場面も多々あるのだが、これが通常の性行為より官能的に見える。映像として奇麗であり、牛の生死の映像とも絡みあり、トム自身も牧場で管理されている牛の一頭のように見えてきて、官能的である。
 
 最終盤、トムはある日、家に誰もいないことに気が付き、急に我に返り、自分が何者かを思い出し、ギョームの思い出の写真と武器としての大きなスコップを片手に霧に囲まれた牧場から逃げ出すことになる。逃げ出した先で、非常にダサい服装をして異常独身男性の異常さを醸し出すフランシスに追いつかれかけながらも、何とか逃げおおすわけだが、その途中で、見てはいけないものを、とある人物を見かけ、必死で見ないようにする場面がある。この場面が非常に怖い。その人物は、フランシスの感情の爆発の一番の被害者であり、もしかしたらギョームでもあり、トムでもあったかもしれない存在で、トムに逃げることを強く決心させる人物でもある。
 急に真実を目の前に着きつけられ、我に返ることがある。異常な状況の中に微睡んでいると、事のヤバさに気が付かないというか、見たくないので見なくなるものだ。
 トムがなんとか都会にかえっていく場面では、安心感と同時に強い寂寥感を覚える。彼の存在。暴力の結果、残り粕のような存在である彼が生き続けていることも、またどこか官能的である。トムはそこに、拒絶と惹かれる物と両方を見そうになったため、彼から目をそむけたのではないかと思われた。フランシスの存在を強く感じさせるものは、恐怖を感じる物なのであるが、恐怖、それ自体もとても魅力的なものなのだ。恐怖は真実であり、感情を芯から揺さぶるものでもあるからである。

 フランシスとトムの関係は、対立、支配被支配、共謀、寂しさの埋め合い、依存へと進んでいく。この中に好意はあるだろうか。
 トムはフランシスに蹂躙される中で自己陶酔して、彼の物に進んでなっていくのだが、フランシスをギョームの代替、自分を罰してくれる存在として好ましく思っているのであり、これを好意と呼ぶのだろう。フランシス自身の弱さに触れ合い、自分がいてやらなければと思って共にいるのだが、これも自己陶酔の一つではないだろうか。
 フランシスは自分の中で正当化できない感情を、トムにぶつけ彼を思うままにすることで、満足しており、好意など感じていないと強く振舞うのだが、これは好意の裏返しなのではないだろうか。しかし、好意があるなどと自覚的に考えると、弟のギョームを弟以上の存在として見ていてことを認めることにもなるので、好意を素直に好意とすることはできず、認められない。だから余計に暴力が加速し、孤独に陥り余計にトムを求めるという悪循環である。また、トムの前で敢えて女の話をして見せる、女を抱いて見せる、トムをビッチ呼ばわりするなどして、自分はお前など嫌いだし気持ち悪いと思っていると主張するのだが、主張すればするほどトムに憐れまれる結果となる。しかし憐れまれると理解されるには近い部分もあり、ずぶずぶと関係になっていくのである。フランシスはトムを暴力で支配しようとしながらも、自分の感情は制御できないで余計に狂わされてしまうのだ。好意はあるかもしれないが安定せず、誰も幸せにならない好意である。

 フランシスが、もっと素直に弱さを見せればマシなのかもしれないが、そうするとおそらくトムの目が覚めて行ってしまい、自分がいなくても大丈夫だろうと、それから自分はギョームでもなく、フランシスの物でもない、と、我に返りやすくなり、関係が終わるだろう。暴力関係は一時的に互いを燃え上がらせ、不都合な部分を消し去って、高みに上っていく。炎と言うものは安定しない。安定しないからこそ気持ちがよく、よけいに燃える。しかし永久に燃え続ける火などないのであるし、最終的に互いに消し炭にならなければいけないのだ。炎は消えても、痛みの思い出は消えない。
 男性の男性に対する暴力は、そこにやましいものがあったとしても、男性の女性に対するものより徹底的で、支配的に見える。それは歴史が、そうだからだろうか。暴力で国が国を陥落させるのに似ている。

 全編を通して痛々しく、痛々しい部分が官能的だ。トムは病んだ記憶として時々フランシスとのことを思い出すだろうし、永遠に忘れられないだろう。再び真実や快楽を求め、フランシスのようなものを探してしまうかもしれない。それから、偽りの世界の中で、自分がそういった者に陥りやすいということを知る結果となった。同性愛者は、常に他人を時に自分を偽って生きる癖がついている。だからこそ、脆いのだ。
 トムは、フランシスから逃げることでまた、一人になったが、同じような孤独を感じるものが、自分一人ではなく、もう一人この世界に居るとわかっただけでも、恐怖とは別の癒されるものを得たのではないだろうか。哀愁漂う表情からは、後悔と安息と両方を見て取ることができた。

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