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『大怪獣のあとしまつ』雑感

 話題の『大怪獣のあとしまつ』を観てきたので、雑感を書く。
 私は批評家ではないから、あくまでも一個人の感想である。
 記事の性格上、ネタバレになる部分もあろうが、ご寛恕願いたい。




 以下、ネタバレも含む、雑感。
 


 鑑賞する前に実写版『デビルマン』と比較するつぶやきを目にしていたので、戦々恐々としながら見に行った。映画館で映画を鑑賞するというのは、喧騒に溢れた現実社会の時空連続体から切り離され、自分の人生が一度しかないことに対する反抗として、他の人生に自由に想像を羽ばたかせる特別な体験であるから、可能であるならば、今の自分に合ったものが観たいという欲求がある。

 さて、感想である。
 結果から言えば、実写版『デビルマン』と比較するのは誤りである。

 下の図を見て頂きたい。

 全ての創作物は、作り手の意図した完成度と観客の反応によって、四つの象限に分けることができる。

A)やりたいことが実現している  & 観客にウケる
B)やりたいことが実現している  & 観客にウケない
C)やりたいことが実現していない & 観客にウケる
D)やりたいことが実現していない & 観客にウケない

 これらはどれが上でどれが下ということはなく、経過と結果に過ぎない。
A)は例えば『鬼滅の刃』であろうし、C)は製作者の本来目指しているクオリティに達していないにも拘わらず妙な評価を受けているサメ映画と理解するのが適当であろう。

『大怪獣のあとしまつ』はこの区分ではB)であり、実写版『デビルマン』は、D)である。これらを混同することは、様々な面で正しい評価を阻害することになると私は思う。


『大怪獣のあとしまつ』の三木聡監督は元放送作家でであり、劇作家であり、映画監督である。シティボーイズの脚本を務め、『時効警察』を監督した人物であり、決してレベルの低い監督ではない。

 この『大怪獣のあとしまつ』について考えるときに、この映画が「松竹と東映の共同制作である」ことは、常に念頭に置くべきだと思う。
「どちらのいいところも活かしたい」と企画段階で想定されたのは、想像に難くない。

 この映画は、鑑賞者の感情をジェットコースターのように揺さぶる。
 温度差が激しいと言ってもいい。どの人物に視点を委ねても、没入しにくい。
 怪獣の死骸処理に奔走する特務隊の面々にも、ドタバタ喜劇の閣僚会議の面々にも、鑑賞の軸足を置くことができなかった。

 
 鑑賞後ひと晩考えて分かったのだが、これを一個の映画として観ることが誤りだったのだ。

 東映の『大怪獣のあとしまつ』は帯刀アラタが上層部に振り回されながら”希望の死体”を処理するコメディタッチのヒーローもの。
 松竹の『大怪獣のあとしまつ』は西田敏行率いる曲者ぞろいの閣僚たちが未曾有の国難である大怪獣の死体処理を前に右往左往しながら責任を擦り付け合うコメディ演劇。

 この二作をアウフウーベン(止揚)したのが、(松竹&東映)『大怪獣のあとしまつ』であると考えると、非常にスッキリする。
 リアリティラインが上下左右過去未来に激しく揺れ動き行方不明になるのも、閣僚会議の滑りがちなギャグの間合いが劇場演劇の”間合い”であることも、すべて納得がいく。

 企画会議の冒頭で、こういうやり取りがあったのかもしれない。
「『シン・ゴジラ』の向こうを張って、2時間ものの怪獣映画を撮りたい」
「松竹と東映の合同だから、両社のいいところは活かしてもらわないと」
「ここで失敗するわけにはいかないから、どうだろう、両社の良さを混ぜるのではなく、並列させるというのは」
「それは難しいよ。どちらも撮れる監督なんてアテがあるかね?」
「三木聡監督ならどうだろうか」
「それはいい」

 奇しくも三木聡監督は庵野監督と一歳違い。
 ちょうどいい抜擢となったのではなかろうか。

 私には合わない映画だったし、尺も90分にまとめることができたのではないかと思うが、それぞれのパートでは演者も、音楽も、特撮も頑張っていた。

 邦画の撮り方も、もう少し変わればいいなぁと思う冬の日であった。





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