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映画『ランガスタラム』感想

日本語字幕えっぐ。解像度爆上がりえっぐい、当然ながら鑑賞後のダメージも桁違い。

「チャランさんのことは好きだけど英語字幕の映画とか観たことないから不安だな〜」と言いつつ川口のスキップシティまで訪れたのは3月のことだっけ。あの時はただただチッティが可愛すぎて可愛すぎて目の中に入れても痛くない、初孫か???みたいな気持ちでいっぱいだったし、英語字幕がいかんせん読み取りづらいうえに切り替わりが速いので、ほとんど筋を追うことを諦めていた。そのためどうしてもひとつだけ、わからないことがあってずっと、モヤモヤと疑問を抱えていた。

なんでお兄ちゃんは殺されたのか?

その肝心の部分が謎だったので、私は川口から生きて帰ってくることができたのだろう。まあ、チッティの愛らしさにだいぶ頭がやられてはいたが。

それが今日は、切望していた日本語字幕で観れたのだ。いや〜〜3月の頃は、「いつか日本語字幕で観れたらいいな」なんて口では言いつつ、当分無理やろな、、と思っていたのにまさか4ヶ月後に実現するなんて誰が思いますか?!願えば叶う界隈ってマジなんですね!?

いざ映画が始まってみて真っ先に、「マズイ」と思った。

字幕を追わねば、物語の筋がわからない。
字幕を追えば、チッティを見つめられない。

どうしたらいいんだ?!これRRRのときもおんなじこと言ってたね?!(最近は、だいたい字幕の内容を覚えてきたので顔を見ることに全力を注いでいる)

そんなアホらしい葛藤を抱えつつも堪能した日本語字幕。
クマールが殺されなければならなかった本当の理由を知った時、社会に蔓延る差別の根深さと残酷さに、胸が潰れる思いがした。

「ランガスタラム」は、娯楽作品のフォーマットを借りながら、示唆に富んだセリフと舞台設定によって人の世の愚かさ、差別を描いた社会派映画である。

以下、思いつくまま簡単に感想を記す。


・「エンジンにカーストも宗教も関係ない」

本作は、名誉殺人を扱った映画である。低カーストのクマールが、上位カーストの女性と恋に落ちた。娘に穢れが及ぶことを嫌ったプラカーシュが、クマールを殺したのだ。彼のやり方は狡猾だった。これまでランガスタラム村には、自分の所属する新インド党が入り込む余地がなかった。だからわざわざ、内心虫ケラ同然と見下しているクマールを担ぎ上げてプレジデントと争わせ、勢力図を彼にひっくり返させた。その上で、いかにもプレジデントとのいざこざに巻き込まれたように見せかけて、彼を殺したのである。自分は手を汚さず、殺人の嫌疑をかけられることすらない。しかも、クマールが村に新インド党の地盤を築いたおかけで、彼は功績が認められて出世する。
ランガスタラム村の悪を倒しても、より大きく深い闇が存在した。チッティはそうした、プレジデント以上の巨悪に対して復讐を行ったのである。
彼の怒りは、兄を理不尽に殺された怒りだ。だがその怒りには、被差別者である村民全員の怒りをも重ねられよう。
いわば彼は物語の主人公として、過酷な差別を受けるものの苦しみを表現し、上位カースト者を殺害することによって(殺人はいかなる理由においても許されるものではなく、また差別の本質的な解決策ではないものの)これまで抑圧されていた怒りを表現し、ある種その壁をぶち壊そうとしたかのようにも見える。
そんなチッティの職業は、ポンプで畑に放水すること。彼はその仕事について、「エンジンにカーストも宗教も関係ない」と語っているのは示唆的である。
雨は自然現象であるから、降ったり降らなかったり気まぐれで、それに農民達は抗う術を持たず、生殺与奪の権を握られている。それはまるで、上位カーストであるプレジデントに支配されている村の姿そのものだ。
だがエンジンに代表される「文明」というものは、古いしがらみや階層社会を打ち壊す力を秘めている。『インド残酷物語』(池亀綾・著)にはウーバーの情報革命がもたらした労働革命について書かれており非常に印象に残ったのだが、つまり私は、エンジンを動かして誰にでも等しく放水するチッティに、カーストによる抑圧を乗り越えようと生きる者の逞しさや希望を、見出してしまうのである。

・ヘビの王パニーンドラと、ラジオの音

プレジデントの名前が明かされた時、な、なるほどここで冒頭、咬まれた蛇を執拗に追うチッティの場面が生きてくるわけだ!!と大興奮。さらに彼は、蛇を退治するための棒で殴り殺されている。なんという周到な伏線。本当の名前を呼ぶことでその人物の権威が落ちたことを表す演出も良いなと思った。また、プレジデントしか掲げることのできなかった旗を、クマールとチッティが新しく掲げたのだということも、今回鑑賞して初めてわかった。
本作のキーアイテムである、プレジデントの愛用するラジオの意味についても考えてみたい。ラジオを聴いてばかりで村人の苦しみに耳を傾けないプレジデントは「耳が聞こえないようだ」と痛烈に皮肉られる。音を聴こうとしなかった難聴のチッティは、兄の死によって自分のハンディキャップに向かい合うようになるが、プレジデントは村長の場を追われても最後までラジオを手放すことはなかった。ラジオで好きな番組を聞くように、自分にとって都合のいい音しか聴こうとしなかった者の、哀しい末路である。
そういえば本作において、ラジオを聴いていた人間は、プレジデントだけではなかった。ランガンマとチッティが船の上で飲んでいるシーンはラジオなのか鼻歌なのかよくわからなかったので保留とするが、確実にいえるのは、クマールの恋人の住む寮の人間は、いつもラジオを聴いていたということである。ラジオが高カーストの者しか手に入れることのできない高価な品物なのかはわからないが、本作においてはカーストの象徴として使われているように感じた。
なお、物語のラストで復讐を果たすチッティは、プラカーシュを殺す瞬間だけ補聴器を外す。
"殺される者の苦しみなど、聴いてやらない、おまえらが聴こうとしなかったことと同じように"
そんなチッティの想いが強烈に滲み出る、せつないワンシーンだった。

・ランガスタラムという舞台

Ranga〜曲中にて散々皮肉に歌われているように、この作品は、閉鎖された田舎村を牛耳るプレジデントと、彼に隷属させられる村人達を、舞台、という比喩を用いて描いている。
曲中においても、映画のシーンにおいても特にラーマーヤナに登場するキャラクターの仮装をする人たちが度々映し出されるが不思議だったのだが、なるほど、ランガスタラムという作品では、ラーマーヤナの役回りを、本作の登場人物達に当てはめることができたのだ。聡明なクマールはラーマ王子、兄を慕い、いつも隣にいる血気盛んで腕っぷしの強いチッティは、ハヌマーンであり、かつ、ラーマの弟ラクシュマナか。(ラクシュミを揶揄ったカーシの弟分を打ち据えるチッティが持っている棍棒は、ハヌマーンの持つそれであったし、ハヌマーンの仮装をした人々がチッティの周りを取り囲んでいたのは示唆的だった)
そしてラーマーヤナの悪役といえば、10の顔を持つラーヴァナだ。ラーヴァナの役回りを与えられたプレジデントはRanga〜の歌詞通り、悪役としてクマールと選挙を戦うことになる。
それにしても、演じるジャガパティ・バーブの圧倒的オーラも相まって巨悪と思われたプレジデントが、一度勢いに翳りがつくとあっという間に死んでしまったのには、驚かされる。
だが考えてみれば本作は、プレジデントが村人達を駒にして権力者を演じる物語でもあり、同時にスクマール監督が筋書きを描き、ラーマーヤナになぞらえて登場人物達を描く映画だったとも言える。つまり、この映画には二重の「舞台」が仕組まれている。
登場人物達は皆、芝居の役者にすぎず、与えられた役回りが終われば舞台から降ろされる。プレジデントに逆らった村人達はもちろんのこと、ラーヴァナになぞらえられたプレジデントもまた、役割が終わればあっけなく舞台からは退場となったのだ。

・ランガンマのドラマ

英語字幕初見時、いったい何者なのか(チッティの親族?友達?)ちっともわからなかったランガンマの解像度が爆上がりしたことにより、彼女の変化に自然に注意が向いたのだが、ランガンマ、最後、村長になってたんですね!すげー!!
プレジデントの邸宅に殴り込みに行く時も、カメラは多くの村人達が錯綜する中しっかりと、ランガンマを追っている。夫を殺された怒りと憎しみ、それらを通り越したやるせない壮絶な表情が忘れられない。ほかにもパンフレットには彼女の変化を示す演出についていくつか触れられており、とても勉強になった。
船の上での、旦那がイケメンでチランジーヴィみたいという内輪ネタ、わりと劇場内ウケてる雰囲気だったのが嬉しかったし、私もチャランさんにハマりたての頃、『マガディーラ』観て「誰ですかこのおじ様??」って困惑してたことを懐かしく思っていた。いまや、パパの名前まで覚えてしまったよ……

・兄のメガネが意味したものと、サングラス

日本語字幕がついて一番心理的ダメージがデカかったのが、クマール周りかもしれない。
名誉殺人という酷い差別の被害者であったことがわかったことは勿論、クマールの葬式のシーンに流れる、母親の心情を謳った曲の歌詞があまりにも良くて……クマールという人物がいかに親や村民に愛され、その智慧と聡明さとで人々を照らしていたかが痛いほどわかってしまう。両隣に人がいるのに劇場で号泣してしまった。しかも最後に、クマールの胸にペンが挿される。彼が懸命に勉強し、人一倍努力してきたことをあのワンシーンで示す。まともに教育を受けられない低カーストの人々にとって、勉強が出来ることの意味がどれほど大きいか。どれほどの苦難を、乗り越えてきたのか。想像するだけでも本当にシンドイ。
そんな、村人にとってもチッティにとってもスーパースターなクマールだが、チッティは兄の最期に、「兄貴は目が見えない 俺は耳が聞こえない」と表現していたのが非常に心に残った。近眼の人間がマジョリティかつ、メガネやコンタクトで簡単に視力を補える現代社会においては忘れられがちだが、そういえば視力の悪さは、立派なハンディキャップであり、難聴のチッティと対になる兄弟だったのだ。
周りはそうは思っていなかったかもしれないけれど、もしかしたらクマールとチッティだけは、互いが互いを助け合う唯一無二の対等な兄弟であることを意識しながら、生きていたのかもしれない。だから兄が選挙に立てば自分も応援するし、兄がピンチになれば必ず駆けつける。兄のことが大好きだし、同時に兄には自分がいなければダメだ、くらいのことは思っていそうなチッティである。
襲撃されたクマールを救い出したシーン、クマールがチッティに謝ろうとするものの、チッティには言葉がよく聞こえない。だが彼は兄と手を触れ合わせると、聞こえないはずなのに兄の謝罪の気持ちがちゃんと伝わっていた。あの兄弟はそうやってこれまでも、言葉によらないノンバーバルなコミュニケーションを取り続けてきたのだろう。それは、膨大な時間を共に過ごす兄弟だからこそなしえる方法なのだ。
クマールの死後、メガネが遺されたことが印象的に描かれた。メガネとは、クマールのハンディキャップを克服する手段であり、かつ外の世界を克明に見るための手段でもある。ドバイにも行っていた彼の心は外に向かって開かれており賢明で、不都合な真実からは目を背けず不正を追及した。
だが一方、ハンディキャップを恥じ、都合の悪いことは聞かない、と言ったように難聴を良いようにも使うチッティは、いわば閉じられた社会を生きている。兄からもらったサングラスは、兄のかけているメガネと同じ形状をしているものの、外の色が暗く変わってしまってよく見えない。あの時のチッティが、まだ世界をちゃんと見ようとしていないことの示唆だろうか。兄の死後、あのサングラスは二度と現れない。
兄を喪失したチッティは、自ら難聴であることを認めるようになり、補聴器をつけて初対面の人間とも会話をする。クリアになった聴覚は外の世界とダイレクトに繋がる。肉親の庇護のもと、甘えが許されていた彼はこれまで、良くも悪くも幼く純粋だった。だがもう、あの頃の彼には、戻れない。
クマールのバイクの後ろに乗って、よく見えないサングラスをかけてはしゃいでいた、あの頃の彼にはもう、戻れないのだ。

(2023.7.16鑑賞)※7/18加筆修正

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