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共犯者になってやるよ、俺が

今日は思い出の曲の話でもしてみる。

世の中には応援ソングみたいなものが溢れているが、どうも私の肌に合わないことが多い。

さらっと調べてみたところ、

ZARD『負けないで』、中島みゆき『ファイト!』、DREAMS COME TRUE『何度でも』あたりが定番らしい。間違いなく名曲であるし、良さが分からないわけではない。しかし、ポピュラーな応援ソングというものは既に頑張っている人のためのものである。

少なくとも私のように頑張り方を忘れてしまい、くすぶっている人間のためのものではない。


しかし、世の中にはそんな人間の背中をも押してくれる曲がある。


ハヌマーンの『リボルバー』だ。


ハヌマーンは9年前の2012年、惜しくも解散してしまった3ピースロックバンドである。

Vo.山田亮一の織り成す叙情的で文学的な歌詞と、ナンバーガールを彷彿とさせる苛烈さと寧静な雰囲気を踏襲するサウンドは、一度聞いた人間を掴んで離さない。

そんな彼らの2nd mini アルバム『RE DISTORTION』の最後に収録されているのが、今日紹介したいリボルバーという曲である。


非常識の肯定

そういちいち怒鳴るなって 誰だって誰かを殺したい

リボルバーはこんな言葉から始まる。

稀代の落語家立川談志曰く、落語とは非常識の肯定であるという。彼の講義録でそう聞いた途端、すべてが腑に落ちたことを覚えている。

「人々はなぜ落語を求めるか、なぜ落語で笑うのか、それは非常識を肯定してくれるからというのが一つの答えなんじゃないでしょうか。」

そんなような事を談志は語っていた。非常識が当たり前となり、何が常識なんだか分からなくなっている現代において、落語は身近なものではなくなってしまった。しかし、談志の考えは落語だけの話ではなく、エンターテインメント全般に言えることなのではないかと思う。

そう、彼らは歌詞の1発目で非常識を肯定してくれる。
頭ん中で人を殺しながら、なんとか優しく生きていこうとしている繊細な人間にとって、これ以上の肯定は無いのではないだろうか。

言う?武闘派に遭遇して 同じように言う?

それに続く歌詞は妙にリアリティがあって、コントラストが際立つところも魅力的である。


言葉遊び

"最近の邦楽は"とか枕詞につけると、老害扱いされそうだけど独り言だしまぁいいか。
最近の歌詞はバカでも分かる明瞭な歌詞か、解説してもらわないと分からない詩的過ぎる歌詞が多いような気がする。

それに比べて山田亮一が綴る歌詞は、少し考えれば分かるいい塩梅の言葉遊びに溢れている。
そこを稚拙ととるか、粋だととるかは好み次第なのだけど。

リボルバーの終わりがけ

足の生えた蛇に乗って 何処へだって


まず初聴で浮かぶのは、龍に乗って何処までも飛んでいくイメージ。
そして何回も聴いていると段々と気付いている"蛇足"という単語。

この歌詞の後にラスサビが続く事によって、蛇足だけど最後に言わしてね?という山田亮一の意図が浮かんでくるのだ。

別に難しい考察でもなんでもなく、誰が聴いても分かるようなこの丁度良い言葉遊びも魅力の一端を担っている。



共犯者になってやるよ

背中を押してあげる、ではなく共犯者になってやる。
上手くいきそうにないことでも、正しいやり方じゃなくても、それでもいいからと言ってくれているような気がする。

物騒な響きだけど、もしかすると1番優しい言葉なのかもしれない。

そんな思い出の曲、リボルバー。

そういちいち怒鳴るなって 誰だって誰かを殺したい
言う? 武闘派に遭遇して 同じ様に言う?

ボロを纏うに従って 頭は冴え切っていく
十幾つのお前が歌う 未来には居ないが

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

もー いちいち言わんだけで 俺だって誰かを殺したい
言う? 不条理に遭遇して 「不条理‼︎」なんて言う?

「嗚呼、いつかは年老いて、骨だけになってしまう」
モラトリアムの中にいて お前がそれ言う?

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

死んでしまうという事はとても恐ろしい
明日を真っ当に生きる事の次に恐ろしい

さぁ いー加減 夢を撃て
錆び付いて孤独なリボルバー
足の生えた蛇に乗って 何処へだって

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

弾倉には一発 共犯者になってやるよ 俺が
ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

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