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2010年7月7日に"OriHime"というロボットが生まれて10年。10分で振り返る10年の軌跡

2010年6月22日、当時22歳の私は一人ひそかに作っていたロボットに名前を付けて世の中に出す事にした。
オリィという私の名前を少し入れ、遠く離れて会いたい人に会えない織姫と彦星の伝説から。

カテゴリ名は何にしようか。
テレプレゼンスにするか、アバターロボットにするか、アルターエゴ、コピーロボット、ゴースト、リモートetc… 色々悩んだが、横文字だらけの優しくない世の中、年齢関係なくわかりやすい名前にしようと。

2010年7月7日、命名
分身ロボット
「OriHime」

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あれから10年が経った。
映画や小説、SF作品なんかではロボットの寿命は人間より遥かに長いのだが、実際のところこうした生き物の形をしたロボットで10歳まで現役でいられるロボットは稀だ。ロボットに比べれば人間の方がよっぽど不老不死なのだ。
いつのまにかロボット界では長寿の部類になっていたOriHimeだが、誕生&命名から10年で何をしていたか、何が起こったのか、10年の節目である2020年7月現在にまとめておきたいと思ったのでnoteを書こうと思う。
かなり端折るつもりでも少し長くなってしまうかもしれないが私とOriHimeの10年を10分ほどにまとめる。お付き合いいただければ幸いだ。
 

2009年2月(大学3年時)、”分身”というコンセプトを発表。
 私自身の幼少期、3年半の不登校時代に感じた「外に行きたいのに行けない、できる事がない、居場所がない」という"孤独問題"を解消する事。これが17歳の時に人生をかけると決めた私の研究テーマで、その後高専ではそれを解消するための人工知能の会話ロボットを作ったりなどしていたが人工知能では人の孤独は解消できないと気付いて退学し、当時ロボットでは国内有力の早稲田大学へ進み、入院していても遠隔操作して学校に参加できる”分身”のコンセプトを発表した。
「自分の居場所を維持するための、存在伝達の為のロボット」
存在とは自分がここに居ると思うだけでは足りず、周りからの認識があり、それを一致させる事で「居る」は実現できる。

 この研究をさせてもらうべくいくつかの研究室の戸を叩いたが教授や先輩の理解が得られず、入りたい研究室が見つからなかったので早稲田大学非公認研究室「オリィ研究室」を勝手に立ち上げ、完全自己資金で開発をスタートする事にした。

半年くらいで作るつもりが、1年と3ヵ月かかってしまった2010.6.22にOriHime初号機が完成。7月7日に「分身ロボット OriHime」と名付けた。


身長60㎝、モータは24個、メインボードは臀部、バッテリーは胸部に内蔵、膝を曲げない歩き方ができるようつま先に関節を仕込み、電源を切っても構造的に片足立ちを維持できる、椅子に座ったり立ったりする事ができるなど、初号機のくせに無駄にこだわった。

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首が完成するまではしばらくマフラー(100均で買ったネクタイ)を巻いていた。この後に考えた首の機構は後のOriHimeに引き継がれ、今でも同じ機構を採用している。
当時は3Dプリンタがなく、バキュームフォーム(ヒートプレス)法で外装を作っていた。ボディの作り方はぜんぜんわからず、東急ハンズに通って店員さんに聞いたり、書店でフィギュアの本を片っ端から読んだり、SNSのmixiコミュニティで職人さんに連絡をとって教えてもらった。

スピーカーとカメラを内蔵し、遠隔操作は可能だったがネットに接続するためのPCは当時まだ大きくて内蔵できずUSBでPCと繋ぐスタイルだった。オキュラスなどのVRもまだなく、Vuzixから出ていたwrap920というスマートグラス(HMD)にジャイロセンサと方位センサを外付けし、私の首の動きをトレースして一人称操作をした。

とりあえず大学近くの飲み会に遠隔で参加したりし、雰囲気を確かめた。

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なかなか面白い実験で、周りからのリアクションもあり、そこに自分がいる気がしたし、思い出になる事も確認した。

しかし、作ったはいいが実はこの時、大きな問題があった。
使ってくれる人がいなかったのだ。

本来使ってもらいたいのは「孤独」を感じている外出困難な人達だった。
当時、私もOriHimeも当然無名で、病院や老人ホーム、患者会にもコネがなかった。大学の正規の研究室にも所属していないので相談できる教授もいない。
「自分が欲しかったものをつくる」をコンセプトに、それまでの貯金全財産に加え親に借金し、1年強をかけて作ってみたまではよかった。自分が最大のユーザーだ。しかし、ここで壁にぶち当たった。

色んな先生にOriHimeを見せて回ったが、「SKypeでいいじゃないか」「いまはAIの時代だよ」「ものづくりとしてはA++だが、AIも搭載していない遠隔ロボットは今時新規性もない。研究としてはFだ」など言われて評価されなかった。
ついでに親にも理解してもらえず、「いいかげん卒業を考えろ」と言われ、余裕がなくなった私はアパートの近くの八百屋や、文房具屋の店主に「ロボットを使ってくれる老人ホームを紹介してくれませんか」と言ってみたが怪しまれて相手にされなかった。(まあそりゃそうだ)

とりあえずなんでもいいから箔が必要だ。そう考えた私は2010年12月、私も立ち上げにかかわった「早稲田ものづくり工房」が主宰する「早稲田×ローム社ものづくりプログラム」に応募する事にした。
これがそのとき(2010年12月)のポスター

ものづくりコンテストver7

今見るとだいぶハイセンスだがコンセプトは変わっていない。
今後の展望に「来年3月には実際にこまっているお年寄りや子どもに使ってもらう予定である」的な事が書いてあるが、そんな予定はなかった。この大会で優勝し、これから協力者を手に入れるのだ。

奈良の友人に遠隔操作してもらい、ダントツで優勝する事ができ、賞金20万円の研究資金を獲得し、評価してくれた審査員の教授の応援も取り付けた。

この時、このサイズのOriHimeは大きすぎるという事でミニサイズを作った。

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この他にもいろんなパターンを作ったが、最終的にこのデザインがベースとなる。自宅にシリコンの真空注型機を自作して、ある程度の量産を可能にした。

この前後、友人であり後にオリィ研究所の共同設立者になる結城(彼女も結核の後遺症の持病もちで、当時OriHimeのコンセプトに唯一理解を示してくれたメンバーだった)から、「吉藤が死んだあとも研究が続けられるように”産業”にしないと駄目だよ。ビジネスにしよう」と言われ、ビジネスの勉強を始めた。

2011年6月、早稲田大学の起業家養成基礎講座のビジコンで優勝した。優勝した事で早稲田インキュベーションセンターに場所を借り、オリィ研究室の表札を付け、いろんなVCや事業化の先輩に会った。

「福祉は儲からないよ」
「これからはITの時代だからハードウェアは応援できない」
「そんな事よりうちに来てスマホアプリ作ろうぜ」

と、ここでも全然理解されない中、偶然にも知人の紹介で会う予定だったリバネスという会社の丸幸弘社長が、ケガで入院して社員旅行に行けないという情報を得てすぐに会いに行き、OriHimeを使ってもらう事にした。

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その時の最新モデル「犬Hime」を使ってもらった。しっぽを振って喜びを表現できる最先端機能付きだ。
このタイプのOriHimeで入院しながら社員旅行にいけた事や、テレワークができた事に満足された丸社長だがひとつ問題があり、社員から犬扱いされたとクレームが入った。

しかしなんにせよ手ごたえは得られた。
その後、ものづくりプログラムに審査員として参加していた教授の口利きで入院している子どもがOriHimeを使ってくれる事になった。2011年の12月の事だ。2009年2月に作り始めてから2年弱かかってのようやくの実験だった。
1週間だけの利用が3回延長をお願いされ、退院するまで使ってくれた。利用した少年もOriHimeの置いた家族側も安心感が得られたと回答してくれていた。人生で一番嬉しかった瞬間だ。

当時のFacebook投稿


それまで自分と結城以外、だれも理解してくれなかった事から不安になっていた分身のコンセプトだが、この時ようやく私もOriHimeに孤独解消の道があると確信でき、晴れて大学を休学する事に決めた。

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色々作った。
その人っぽさ”を追求し、大学のレーザースキャナを借りて私の顔をスキャンしてシリコンでマスクをかぶせた”Kentaroid”も作ってみたが、友人は持って町へ行くことを拒否し、子どもは泣き出し、めちゃくちゃ不評だった。(当時、このセンスは10年後は多くの人が理解すると説明したが、やっぱりあと5年くらいはかかるかもしれない)

ロボットの外装の作り方も解らなかったが、1年ほど試行錯誤していると技術も身に付き、シリコンの型を使って自宅で綺麗なレジンキャストを行う事ができるようになった。

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顔が見えた方がいいかもしれないと、iPhone4に足を付けて歩くSkypeも作ってみた。ぬいぐるみタイプや四角いタイプなど、全て紹介すると長くなりすぎるくらいとにかく色んなバージョンを作って試しまくった。

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相変わらずお金はなかった。
三鷹ビジコン、学生起業家選手権、キャンパスベンチャーグランプリなど、いわゆるコンテスト荒らしを行い賞金を開発費にあて、理工学部キャンパスのごみ捨て場に捨てられているロボットから使えそうなパーツを拾ういわゆるゴミ箱荒らしを行い進めた。(上の二足歩行iPhoneはほぼ拾いもので作った)
色んなタイプを作り、ビジコンに出たり協力してくれそうな教授を訪ねたりスタンフォード大学へ行ったりシリコンバレーを見学したり人間力大賞という名誉ある賞を貰ったり、福島県のボランティア関係などで色んな人とのご縁もあり、のちにオリィ研究所創業創設者となる椎葉たちとも出会い、2012年9月に会社登記。
オリィ研究室は、「株式会社オリィ研究所」となった。

全財産の200万円を創業資金につっこんだ。
学生にしては頑張った方だと思うが、やはりものづくりはお金がかかる。半年以内にはほぼ無くなった。
当時は企業といえばSNSやアプリブームで、ハードウェアスタートアップなどほぼ無く、支援者は全然見つからなかった。

流石に「あーやっぱり無理か・・・」などと思っていた矢先、リバネスの丸社長の紹介で、墨田区の浜野製作所という町工場の浜野社長と会う事になった。(のちに浜野製作所は天皇陛下も訪問され、墨田で最も有名な工場となる。)
浜野社長は私のOriHimeのプレゼンを聞くなり、私に「俺の空き家をやるから自由に使え」と言ってくれ、更に「工場の職人達も相談にのる。工場も自由に使っていい」と言ってくれ、更には個人として出資もしてくれた

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なぜ一学生にそこまでしてくださるのかと聞いたところ、浜野社長は「一人目の娘を病気で亡くし、ずっと病院で「孤独」にしてしまった経験がある。ここでオリィくんの研究を応援しなかったら僕は何のために生きてるのか解らない。」と。そして「僕も多くの人に助けてもらった。僕に恩返しとか考えなくてもいいから、君も次の世代を助けてあげれるようになってこのバトンを繋いでいってほしい」と言ってくれた。
登記も墨田区に移し、浜野社長の家での居候は1年間お世話になり、夜は浜野社長や職人さんらと墨田区の居酒屋やラーメンを食べによく行った。墨田区はオリィ研究所の故郷といっても過言ではない。

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私が不登校だった時代の数少ない友人で折紙仲間だった本田も、私がベンチャーを始めると地元奈良から駆けつけてくれて設立から2年間、東京で暮らし、浜野製作所でアルバイトして技術を身に付けながらOriHimeの量産を手助けしてくれた。

OriHime利用の事例も増え、病院の子ども達に使ってもらえる機会も少しずつ増えた。
2013年、ALSという病気の患者さんと出会い、視線入力で動かせるOriHimeの自由研究を始めた。本業は赤字でそんな自由研究をしている余裕は全然なかったが、浜野社長や丸社長など、株主達はそんな自由研究を「吉藤が思うようにやれ」と応援してくれた。
その自由研究は2016年に「OriHime eye+switch」という形で製品化される事になり、全国の患者さんが使ってくれる事になった。


 2013年にALS協会に初めて行ったとき、私は「将来は分身ロボットを使って、自分の身体を自分で介護できる時代がきます。分身とはそういう意味で、OriHimeとはそういうロボットなのです。」と説明した。が、あまり信じてもらえず当事者の人達も苦笑していた。それでも私のような変わりものを受け入れてくれて、患者会に出入りできるようになったのはありがたかった。

しかし、研究にはなんにしても資金がかかる。
結城と椎葉も私も、創業から1年半の間受け取っていたお金は平均月6万円で、とても生きてはいけなかった。頼みにしていた助成金も落ちた。結城と椎葉はさすがにOriHimeだけで食っていくのは辛いと堅実に受託開発をする用意を始めた。

そんな時、「みんなの夢アワード」という大会を見つけた。ファイナリスト7人に残ると日本武道館で8000人の前でプレゼンし、優勝すると2000万円の融資が得られるという。
結城と椎葉に内緒で申し込み、第3審査まで通過し、日本武道館行きを決めた。ここで「2足歩行OriHimeを新たに作り、それをALS患者さんが遠隔地から操作して8000人の前で歩き回って挨拶をする」というデモを考えた。それができれば何か時代が変わる気がした。
・・・が、当然だが会社にそんなお金はなかったし、それを言ったら結城と椎葉に叱られた。しかたないので私個人の全財産60万円をつっこんで、登場したばかりの3Dプリンタを酷使し、インターンの2人にも協力してもらいながら2か月で新型2足歩行OriHimeを作った。
基本的に、理解が得られないものは誰にも文句言われない自分の貯金でやる。「自分の貯金=自由に使える研究費」は今でも変わっていない。

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途中で動かなくてもプレゼンフォローできるよう、22パターンの8分の台本を記憶して猛特訓し、知り合いのデザイナー、役者にプレゼンのブラッシュアップを協力してもらい、黒い白衣もデザインを新調し、死に物狂いになりながら尽くせる限りを尽くして挑んだ結果、ALS協会副会長(当時)の岡部さんが自宅から視線で遠隔操作する新型OriHimeは、リハーサルでは失敗したが本番では奇跡的に(本当に奇跡的に)動作し、会場に手をふり、見事優勝する事ができた。

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2014年、これにより三鷹にオフィスを引っ越す事ができるようになり、新卒程度の給料を得る事ができるようになった。(この時借りた融資は2019年に返済した)
この夢アワードは我々にオフィスや資金をもたらしたが、とても重要な仲間も得る事になった。
のちに親友となる番田雄太という頸髄損傷の寝たきりの男だ。

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夢アワードのあとに会いに行き、意気投合した。
番田は4歳で交通事故にあって寝たきりになったが、顎を使ってPCを操作し続け、諦める事なく6000人にメールを送っては無視されたり嫌われたりしていた。
その番田が「OriHimeには足りないものが沢山あると思う。私を仲間にいれて働かせて、見つけさせてほしい」と言ってきた。
私は彼を”秘書”として雇う事にした。ただ、またこんな私の自由研究に会社のお金は使えず、いつも通りポケットマネーで給料を支払う事にし、一緒に講演に行ったりするようになった。
その中で、番田が求めたのは「腕」だった。OriHimeに腕をつけるかどうかは私の中でも相当悩んでいたのだが、「腕がないと人間じゃなくなっちゃうんだ」と、20年間身体を動かした事がない番田が力説するので腕をつけたところ、番田は見事に腕を操り、それまで難しかった周囲の人の中に入っていく事例を見せつけた。
腕にはアイスブレーキングや周囲を和ませる力があった。
重大な”できない”があるからこそ、”できる”に変わる重要な事もあるのだ。

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私の講演パートナー兼秘書として、番田OriHimeは様々な場所に同席するようになった。私と番田の講演は話題になり、全国を飛び回った。講演料の中から番田にも謝金を払い、研究開発にもそれまで以上に割けるようになった。番田はスピーチも上達し、ビジネスメールも褒められるようになり、コミュニケーションスキルも上がり、講演依頼やスケジューリングは番田が窓口をこなすようになり、会議では議事録をとるようになった。

パリにOriHimeで旅行にいき、エッフェル塔をみたり、エジプトでラクダに乗ってピラミッド周辺を散策したりもした。
飛行機に乗る事はできない身体だが、友人らと世界を旅した記憶が確かにできるのがOriHimeだ。

1年後、2015年にはオリィ研究所の他のメンバー達にも実力が認められ、正式に秘書として契約社員になり、給料を得るようになった。

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初任給で、私に結構高い寿司を予約し、ご馳走してくれた。「おまえせっかくの初給料、大事に使えよ」といったところ、「これ以上の使い方があると思うかい?」とにやりと笑っていた。

同じころ、私が自由研究を続けていたALSの人向けの「OriHime eye-switch」も、ふとしたアイデアからよいシステムを作る事ができ、国際特許をとる事ができた。ALS当事者である元メリルリンチ証券の会長を務めた藤澤さんが、オリィ研究所へ出資し、自らOriHimeで特別顧問にも就任してくださる事になった。

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OriHimeメンバー2人目は80歳の元銀行会長だ。
番田もよくOriHimeで一緒に藤澤さんの家に通った。

番田や藤澤さんというメンバーにより、離れていても「一緒にいられる感覚がある」というテレワークツールとして使えるんじゃないかと、結城と椎葉が「OriHime-biz」としてビジネス向けに展開し、NTT東日本さんが大量に契約してくださる事になり、じわじわと企業にもOriHimeが広まるようになっていった。
私が当事者達と研究し、その中からちゃんと持続できそうなものを副代表の結城が計画を書き、CTOの椎葉がきちんと製品化する。
そういう流れは今も続いている。

番田と私は東京都の特別支援学校の外部アドバイザーに就任した。公的な機関からのOriHimeごしでの就労事例に、番田も私も心から喜んだ。

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しかし、勇んでいった特別支援学校の講演で、生徒のお母さんに「OriHimeで働いてるのは素晴らしいけど、それは番田さんが特別に能力が高くて、オリィ研究所だから雇ってくれるのよ。実際、うちの子や多くの人は難しいわ」と言われてしまった。

また、ALS患者であり、のちの仲間となる高野元さんには「OriHime eyeは購入補助で1割で買えたとしても、無職の僕に払うのは難しいし家族に払わせる事になってしまう。もし、OriHimeを使って以前と同じように働けるなら、僕はいくらでもお金を払う」と言われた。

そこで、私と番田、そして知り合ったWITHALSの武藤将胤の3人(3人は1歳ずつ歳が違う同世代だ。)が中心となり、2016年から「たとえ寝たきりになってもOriHimeで働けるプロジェクト」を開始した。

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いきなり知的労働は難しい。番田も私がマンツーマンで1年間修業をしたし、藤澤さんは元銀行の会長だから会社で顧問ができるというのもある。
身体を動かせない例えば高校生が、社会への第一歩として踏み出せるものはなんだろうと考え、「大きなOriHimeを作って、コーヒーを運んできてもらおう」という肉体労働ができるテレワーク(アバターワークと命名)を考えた。

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2016年夏、接客ができて自走できるタイプ、「OriHime-D」の開発に着手。案の定、売れるとも思っていない自由研究だったので再び全ポケットマネーを投入し、自宅のガレージでの手作りだ。FRPにやすり掛けする私の横でOriHime番田と夜な夜な色々語り合った。「コンビニまで買い物してきてくれよ」「これからはパーティーに生身で行っても自分で料理を選んで自分の口に運べるな」「将来はオリィと同じように会社を作って、いつか合流したい」など。
半年後、2017年2月に身長120cmタイプのOriHimeは形になった。
番田と出会うきっかけとなった夢アワードで、OBとしてお披露目した。

さあ、いよいよこれから番田がこいつを操作し、新しいチャレンジをしていこうと言っていた矢先、番田の体調が急変し、3年間毎日欠かさずやりとりしていたチャットは減り続け、4月についに途切れた。
盛岡の病院に駆けつけたが、番田はICU症候群になり、意識は朦朧としていて何を言っているかわからない状態になっていた。1時間くらい話しかけ続けると「オリィは大丈夫?」「会社の人はどれくらい?」など、会社の心配をはじめる番田がいた。

2017年6月、番田と一緒にOriHimeパイロット2号としてメンバーになっていたALSの藤澤さんが亡くなり、その3か月後の9月、番田はこの世を去った。29歳の誕生日が葬式になり、弔辞を読んでいる間、悔しくて涙が止まらなかった。

最も使わせたかった人達が居なくなり、新型OriHimeの研究はストップした。このままOriHime-Bizだけに集中し、自由研究もやめてしまおうかと思った。
だが番田が亡くなる1年前、私の誕生日会で番田がスピーチをした時に「このままでは無駄に死んでしまう。こんな身体だからこそせめて生きた証を遺したい」と言っていた事を思い出し、WITHALSの武藤やALS協会の仲間らにも励まされながら、開発を再開する事にした。

2017年は精神的に落ち込んだ年だったが、番田と共に作った「OriHime 」や藤澤さんと共に作ったALSの患者さん向け「OriHime eye」は全国で使われるようになり、中にはOriHime eyeを使い、視線入力だけで素晴らしい絵を描くALSの榊さんも登場し、背中を押してくれた。


2018年7月7日、新型OriHime「OriHime-D」を発表。

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日本財団とANAホールディングスがスポンサーとなって支援してくれて、番田と想い描いていた「だれもが分身ロボットで働ける未来」を実現する「分身ロボットカフェ」実験を開始した。

2018年のテープカットには、日本財団会長、ANAホールディングス会長、野田聖子さんが参加してくださり、番田の後任として私の秘書になってくれていた村田望さん(自己貪食空胞性ミオパチー患者)がOriHime-Dを操作し、テープカットを成功させた。

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クラウドファンディングでチケットも販売し、多くのメディアも来てくれた。多くの国会議員も連日見学に来て下さり、日本財団の職員の方いわく、これだけ注目を集めたのは日本財団史上初であったらしい。
海外メディアも多く、連日新聞やネットニュースになった。

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この実験では、全国からOriHimeを操作する協力者を募集し、zoomで面接をし続けて選考した10名のパイロットにウェイター&ウェイトレスになってもらった。
中には「OriHimeで働けるようにしてほしい」といったALSの高野さんも参加し、ALSで目しか動かせなくても、視線入力だけでOriHime-Dを操作し、オーダーをとったりお菓子を配ったり、接客ができる事を証明した。


私達の仮説はほとんどが的中し、実験は大成功だった。
また、社会的にも多くのインパクトを残し、それまで8年間「AIの入ってないロボットはロボットじゃない」「Skypeで良いじゃないか」と散々言われていたコメントがこのタイミングでほぼ無くなった。

2019年、蔦屋で書店員をし、横浜音楽祭で音楽ライターをするなど、OriHimeで働く事例は更に広がった。ゲーム開発をしてコミケでOriHimeで売り子をして完売させた寝たきりのパイロットもいた。
2019年にはALS患者の国会議員である舩後さんが登場し(OriHimeも使われている)、寝たきりになっても大きな可能性があるという風潮が広まる。

パイロットも更に追加募集し、合計約40名で第二回目の分身ロボットカフェの実験を迎えた。

1213DAWN2019協賛社様報告書
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活動に共感してくださる企業、法人も増え、皇居の隣の大手町のビルで盛大に第二回目を実施し、働く人数も大規模に、役割、仕事の種類も大幅に増やした。クラウドファンディングも1000万円を超える調達を行うことができ、第一回目を遥かに上回るメディア注目度を獲得、コンセプトを伝える事ができた。
2020年の1月には渋谷スクランブル交差点のWIREDカフェという実際のカフェで実際の店舗で、実際の店員と協力して働けるか?という実験も実施した。

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この写真で操作しているのは福岡の特別支援学校に通うSMA1型の中島寧音さん。福岡の自宅から分身を操作して渋谷でウェイトレスをして東京の時給を得る。
番田と2016年に特別支援学校のアドバイザをしていた時に言われた、「番田やオリィ研究所だからできるのよ」という声を覆す事に成功した瞬間だった。

さらに、このカフェで働いている姿をみた企業が、「なんだ働けるんじゃないか」と、OriHimeごと、パイロットを雇用してくださるという話に発展した。
障害者の法定雇用率を満たしたいがどうやったら雇用できるか解らない、何をしてもらえればいいか解らない、テレワークでのメンタルケアなどの障害者雇用のノウハウが無いなどの課題を解決できるとして、いくつかの企業から重度障害のあるパイロットを紹介してくれないかという提案が来るようになった。



今回このnoteに書いたものも本当にごくごく一部だ。多くの人達が関わってくれて、毎日が世界初で、世界初の失敗を見つける連続。数百人のユーザー、寝たきりの患者さんがOriHimeを使って挑戦した話など多くの物語があり、それらからフィードバックを貰って少しずつOriHimeはバージョンアップを続けてきた。

今、法人向けのOriHime-Bizは1月40,000円でレンタル可能、つい最近キャンぺーンをやっている個人向けのOriHime-Liteは1月19,800円からレンタルできるようになっている。(個数限定のキャンペーン)

今のOriHimeは持ち運びもでき、お手軽に使えるようになっているので外出困難な家族や友人がいる時など、利用いただければ幸いだ。


そして2020年7月現在

分身ロボットカフェで働いたメンバー達が企業へ就職し、更に働くフィールドを拡げている。
共和コーポレーションの社員となり、OriHimeで大阪のルクアでチーズケーキを販売したり阪大で講義をしている山﨑さん。

202007資料(JSEC)

高野元さんは神奈川県(黒岩知事)に「共生社会アドバイザー」として雇われ、OriHimeで会議に出席。しゃべる事も移動もできないALS患者でも、県庁で仕事ができる事例を作った。

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在宅・入院している伊藤さん、エミさんの2人がNTTグループに正式に雇用され、NTTホールディングスの受付でOriHime-Dを使って働き、給料を貰うようになった。

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他にもいくつかの会社でOriHimeとパイロット達の就労は進んでいる。

病院の子ども達がOriHimeで学校に通うようになり、飛行機に乗れない人がハワイで行われた娘の結婚式に参加するようになり、遠隔で友達のパーティーやお墓参りに行けるようになり、買い物ができるようになり、水族館や音楽祭にも参加できるようになった。

目だけでPCも操作できるようになり、やがて自分の声を失うALSの人は合成音声で自分の声をずっと使い続ける事ができるシステムも作り、全国の患者さんに提供を続けている。

寝たきりでも働ける職場があり、一緒に楽しめる仲間/同僚ができ、企業へ就職していくというロールモデルを作る事ができた。


分身ロボット「OriHime」は初期こそ私が作ったものだが、私の「作品」ではなく、多くのユーザーという仲間達がそこに可能性を与え、創業創設者の椎葉と結城、今は亡き私の秘書の番田、亡き藤澤顧問、分身ロボットカフェの40名のパイロットをはじめ、数えきれない多くの人達に育てられたロボットになった。

中々理解してもらえず何度もプロジェクトが終わりかけた事もあった。それでも、自分自身の経験があった事や、何度も愛想をつかされそうになりながら8年間ずっと並走してくれている結城と椎葉、番田や多くのパイロット達のおかげで、続ける事ができた。
あれだけ「AIのないロボットはロボットじゃない」と言われ続けたが、いま5G、そして障害者だけではなく多くの人が外出困難の時代になり、遠隔操作のアバターやテレプレゼンスのコンセプトは非常に肯定的に捉えられるようになった。
番田は「こんな身体だからこそ、何か生きた証を遺したい」と言ったが、確実に、私や番田らが生きた何かは残せたのではないかと思っている。

毎年、7月7日は何かしらを発表してきたが、今年も新しいサービスをローンチする。それは更に番田らと語り合っていた夢を前へ進めるもので、いつかの自由研究という種が実ったものだ。

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https://avatarguild.com/
OriHimeや分身ロボットで働きたい人達、働いてもらいたい企業のエントリーページだ。
既に私達は分身ロボットカフェで働いた約40名のうち、10名近くのパイロット達を数社の企業と繋げる事ができ、多くのデータを得てきた。
今後もこの研究を通し、外出困難でも働ける人、ロールモデルとしての事例を増やしていく。

IoTブームやAIブームのように、これから5Gブームやアバターブームが来るかもしれないし、すぐに通り過ぎて古いものにしまうかもしれない。しかしこれからも私は当事者達と共に、本当に自分が良いと思ったものを探求し、たとえ流行に逆行し、理解してくれる人が少人数であったとしても、孤独の解消の為の研究を命ある限り続け、死後の世界があったとして「あれから俺ここまでやれたよ」とあいつらに報告できるよう、頑張ってみたいと思っている。

この10年、OriHimeに出会い、関わってくれた多くの仲間達に心から感謝を。


吉藤オリィ


追伸:
今年から新たな試みとして私の自由研究を公開し、アイデア出しなど参加できる「オリィの自由研究部(β)」を始めた。月額1000円で吉藤の活動を応援するよ、報告を聞きたいよと言ってくださる方はこちら。当事者らとの新たな挑戦を発信し、資金は全て研究開発に全額投資していきます


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