見出し画像

誰やねんよりハイネケン!

「誰やねんよりハイネケン! 心配するより乾杯する!」
 冗談みたいなセリフだが、私がまだ幼いころに酔っ払った母が言っていたセリフだ。私の両親はお酒を飲むのが大好きで、一週間もあれば発泡酒の空き缶がずらりとキッチンのカウンターを埋めるくらい空になった。私は子供たちが寝たあとにこっそりとトイレで吐いている母を見て、こうはならないぞと思いつつどこか羨ましくも思っていた気がする。
 だからというわけではないが、私は今のところお酒を飲むのが大好きな人間に育った。基本的に毎日晩ご飯のときにビールを飲んで、寝る前の何時間か本を読んだりテレビを見たりしながらウイスキーを飲む。それ以外にもコロナが問題になる前は定期的に友達と飲み会をしていたし、週の半分ほどライブハウスに通っていた時期はそこで知らない人と乾杯をする日々を過ごしていた。お酒を飲んでいるとお金はかかるし、ときどきとんでもない失敗をしてしまうこともあるけど、今のところそういうことの全部が楽しい。それに結構意外だったのが、私はお酒を飲む場所ではまったく人見知りをしないのだ。

 私は別に普段から人見知りというわけではないが、かと言って積極的に知らない人に声を掛けていく方ではなかった。誰かに紹介されたときや、講義中のディスカッションは問題ない。けれどたまたまカウンターで隣になった知らない人に話かけるなんてことは考えたこともなかった。しかし、ほどよく酔っ払った私は相手が男であろうと女であろうと年上だろうと年下だろうと平気で話しかけてしまうのだ。もちろん相手はちゃんと選ぶ。明らかに誰にも話しかけられたくない雰囲気を放っている人もときおりいるので、そういう人は慎重に避けて、この人は大丈夫だと目を付けた人にエイッと力を込めて話しかけるのだ。

 最初に話しかけると大体の人はちょっと驚きながらもとりあえず相槌を打ってくれる。「そうなんですよ仕事帰りに」とか「カツオのたたきです。美味しいですよ、よかったら一切れどうです?」とかそんな調子だ。最初の会話が上手く言ったらあとはもう難しいことはない。お互い話せる範囲で自己紹介をして、そのわずかな情報から相手との共通点を探す。出身地、好きなスポーツ、この辺りにある美味しいお店。この三つの話題は特に年上の人には有効で、どれか一つは話しが弾む話題が見つかる。それでダメなら「今就活が大変で……」と相談すれば何かしらの話しを勝手にしてくれるので、適度に相槌を打ちながら他の共通点が見つかるまでじっと待てばいい。

 少し前にもそんな風にして知らない人と話す機会があった。場所は北浦和にあるクラフトビールをメインで扱っているタップバーで、小さなビルの二階にあるお店だった。階段をのぼって中に入るとL字型のカウンター席が九席ほどあり、店の奥の方にはテーブル席もいくつかある。カウンターから見えるタップ(ビールの注ぎ口のこと)には定番のものから聞いたことのない珍しいものまで様々なクラフトビールが取り揃えてあってそれだけで気分が上がるお店だった。
 私がその日お店に入ったときはまだ早い時間だったが、すでに常連客で一杯になっていた。この手のお店は少し隙を見せるというか、話しかけてほしい雰囲気を出していればすぐに誰かから話しかけられる。
 私はおすすめのビールをカウンター越しに店員に尋ね、ちょっと悩んでいる風な素振りを見せると、案の定隣に座っていた女性二人組が話しかけてきた。年齢は自分の母親に近いくらいだろうか。いかにも人の好さそうな雰囲気の人たちで「クラフトビールあんまり飲まないの?」と尋ねられた。私は「そうなんですよ」とかなんとかふんわりした返事をするとあとは流れるように会話は進んだ。「苦いのが好き? フルーティーなのが好き?」「じゃあちょっとフルーティーなもので」「それならこのアップルホップを飲んどけば間違いないよ」「じゃあそれでお願いします!」「若いのにクラフトビールなんていい趣味してるわね」「そんなことないですよ。偶然お店の前を通りかかっただけなので」「クラフトビールは単価が高いから若いお客さん珍しいのよね」「そうだったんですね。確かに友達でもクラフトビール飲んでる人そんなにいないです」「そういえばあなた名前はなんて言うの?」
 ここまでテンポよく会話が進めばもう何も難しいことはない。どうやら話しかけてきた女性は週に何度かこのお店に通っている常連らしく、カウンターに座っている人たちにどんどん私のことを紹介していって大変な騒ぎになってしまった。「若いうちからクラフトビールなんて羨ましいね」「次はこれを飲むといいよ」「一杯出してあげるよ」なんて調子でその日は結構飲んだはずなのにお会計はなぜか二百円だった。

「誰やねんよりハイネケン! 心配するより乾杯する!」
 とずっとそんな調子でいると永遠に二日酔いから抜け出せないのは辛いのだが、結局私はそういうのがまるっと全部好きなんだと思う。早く何の気兼ねもなく「誰やねんよりハイネケン!」の精神で飲み歩きができるようになればいいのにと心の底から願う今日この頃だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?