ぼやぼや、まじない、瞬間凍結
断続的に約10年くらい考え続けていることがある。それは、名付けられていない動作にはどんなものがあるだろうかということ。名付けられていない動作とは、歩く、座る、振り返るなど、その動作を表す言葉がない動作のこと。なんでこんなことを考えてるのかはひとまずここでは書かない(また別の機会に書くかもしれない)。ともかくそういうことをたびたび考えている。
たとえば、歯を磨くことは名付けられている動作だけど、もし同じ動作を歯ブラシを持たずにやったとしたら?歯を磨くような動作とは言えるけれど、この動作そのものを表す固有の言葉はおそらくない。
あるいは、反復横跳び。あれを横方向(体側方向)に跳ぶのではなく、前後方向(正面と背面の方向)に跳ぶ動きはどうだろう。名付けようと思えば、反復縦跳びと呼べるのかもしれないが、これもおそらくは名前がついていない。
上の2つは似た動き、近い動きをもとに考えているけれど、〇〇のようなと形容できないタイプの動作もあるはずだ。
そんなふうに名付けられていない動作についてこの前も考えていると、思考が動作についてじゃなく名付けることについて傾いた日があった。
ふと、自分の名前は自分では決められないのだということにハッとしたのだ。これは本名だけでなくあだ名にも当てはまる気がする。あだ名を自分からつけることはほとんどない。誰かがいつからかそう呼び出して、それが定着する。ハンドルネームやペンネーム、ラジオネームなどはまた別だが、当たり前のようでこれは不思議なことだ。
名前は名付けられている対象自身が決めていない(決められないと言うと言い過ぎだろうか)。名前をつけた誰かがいて、その名前を名乗っている。名付けるとき人は何かしらの祈りや願い、イメージなどをもって名前をつける。それは一種のまじないかもしれない(余談だが、まじないものろいも「呪い」と書くのは面白い)。僕らは生まれてまもなく他者によってまじないをかけられている。
名付けることはまた対象の輪郭を明確にするような効果もある。なんだか分からないけど熱があって調子が悪いときに「風邪ですね」と言われると少し安心するのは、なんだか分からないぼやぼやとした状態に「風邪」という輪郭が与えられるからだ。
あるいは妖怪。昔の人はさまざまなよく分からない現象に名前をつけて、それを妖怪として理解したのかもしれない(もちろんそうでない妖怪もあるかもしれない)。
なんだか分からないぼやぼやとしたものに名前を与えることで輪郭を明確にしてイメージを固定する。名付けとは、いわば瞬間凍結の技法でもある。
人はいろんなものを名付ける。世界は名付けられたもので溢れている。けれど同時に名付けられていないものでもこの世界は満たされているはず。どうしても名付けられているものが強いから(これは人間が言語を使うことと関係しているのだろう)意識はそちらに傾いてしまうのだけど。
冒頭の名付けられていない動作を僕が考えているのは、先に別の機会に譲ると書いた理由とは別に、まじないをかけられていない、瞬間凍結されていない世界のレイヤー=ぼやぼやのレイヤーに触れようとしているのかもしれない。
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