中瀬俊介個展「季節の種」を観てきた
少し前の話。
3月7日。横浜は象の鼻テラスで開催されていた中瀬俊介個展「季節の種」(会期は2月28日〜3月12日)を観に行ってきた。自分への覚書きとして少し感想を書いてみる。
作家その人のプロフィールはこんな感じ。
ドラマトゥルクって?
中瀬さんの個展を観てみたいと思ったのは、僕がBaobabのダンス作品を10年以上にわたって観ているから。Baobabの映像を作り、ドラマトゥルクとして関わっている中瀬さんの作品をまとまって観られる機会はいままでなかったし、ご本人からも展示作品について少し話を聴いていて、どんな個展になるのかぜひ観たいと思ったのだった。
個展は、中瀬さんが2014年〜2022年にかけて製作した舞台演出用の映像が数点、それら映像から切り出されたスチールが数点、回文、土と水を混ぜて作られた泥の彫刻とその彫刻を素材としてレンダリングされた新作の映像が展示されていた。
実際の展示の順番としては、舞台演出用の映像→回文→スチール→泥の彫刻+レンダリング映像という流れ。
どの作品も面白かったのだけど、僕自身が特に興味を惹かれたのは、最後に展示されていた泥の彫刻《newclear[figure_yk]》とそのレンダリング映像《newclear[forma_yk]》だった。
この作品は、改良土と精製水を混ぜて作られた泥でできている。改良土とは、掘削した土を脱水や乾燥など特別な処理を行った土のことで建設現場などで使われるのだそう。処理をされているのでこの土から虫が出てくることや、植物が芽吹くことはない。精製水とは、蒸留や濾過などこれも特殊な処理をすることでミネラルや不純物を限りなく取り除いて純度を高めた水のことをいう。
その改良土と精製水を素材として彫刻作品にしているのだ。彫刻といっても、木彫や石彫のようなものではない。フタがないアクリルケースに泥が10cm弱くらい敷き詰められていて、その泥の凹凸や水の溜まり具合などを鑑賞する作品だった。アクリルケースの傍らには、作品に使われたのと同じ土と水が置かれていて、来場者が自由に土をかけたり、水を足したりできるようになっている。
映像のほうはというと、この彫刻を上から撮影した実写映像と泥の輪郭、立体感を抽象化した映像が流れていて、彫刻に来場者が土や水をかけると映像に少し変化が出るような仕掛けになっている。
ひとつの作品として、ずっと観察したり眺めていられるような面白い作品だった。
ただ、僕がそれ以上に面白いなと思ったのは、「季節の種」というタイトルの個展であるにもかかわらず、展示の最後に来るのが何も植物が芽吹くことのない土を使った作品だということだった。これは個展を観に行ったその日にたまたま中瀬さんと話す機会を持てたので、本人にも伝えて、その日は会場をあとにした。
それからもなんとなくこの泥の彫刻《newclear[figure_yk]》のことがかすかに頭の片隅に残り続けていて、気になっていた。あの作品はなんだったんだろう。
個展を観てから2ヶ月と少し経ったころ、ふと、唐突にこの作品のことが(自分なりに)分かった気がした。「あぁ、こういうことかも」と。何も芽吹かないわけではないんじゃないか。本当は芽吹くものがあったんじゃないか。より正確に言えば、何も芽吹かない土であるがゆえに芽吹くものがあったのではないか。順を追って考えてみる。
先にも書いたようにあの展示では、映像、回文、スチール、そして泥の彫刻+レンダリング映像の順番で作品が展示されていた。
映像とスチールはビジュアルなもの=イメージの作品であるといえる。映像やスチールは見に来た人に何かしらのイメージを見せている。
また、映像は、それ自体は質量を持たない。スチールも支持体に質量はあるけれど、映像から切り出したものでもあるし、これも像そのものは質量を持たない。ぴったりとした言葉がいま見つからないけれど、これらは物質ではないものという意味では、仮想的な?虚構的な?イマジナリーな?ものだ。
回文はというと、これもある種のイメージなのではないか。中瀬さんの場合、最初に使いたい言葉があって、そこから逆さ読みできる言葉を探りながら一定の分量まで文が拡張していくのだそう。ある言葉を中心にして上下左右に拡がっていく文を想像する。ある言葉から言葉がぶわーっと広がっていく。まるで苔のように。それはとても視覚的なイメージだ。
同時に長い回文はその性格上、即座に文意が読み取れる文にはならないことが多い。小説やその他の散文のようにはいかない。どうしても言葉と言葉のあいだや、行と行のあいだに距離があったり、ズレがあったりする。これは少し現代詩に似ているような気がする。詩人・野村喜和夫はたしか、(日本の)現代詩はある時期からイメージのつながりによって新たなイメージを生み出すものになったと書いていた。回文も近いものがあるのかもしれない。
そして言語も質量を持たない。発せられる言葉も文字もそれ自体は質量を持たないし、言語そのものもやはり虚構だと言える。
犬それ自体は「いぬ」と名付けられなければならない必然性はどこにもない。言語はいつのまにかできあがった約束事と幻想を基盤として成立する。
映像、回文、スチールといったイメージ(ヴィジュアルなもの、虚構的なもの)の連続の最後に泥の彫刻《newclear》が来る。あの作品を見るときのキーワードのひとつもまたイメージなんじゃないかと思った。
ただし、この作品は、映像、回文、スチールとは決定的に違うところがある、それは、土と水から作られた泥は質量があるということ。この作品だけが作品そのものに質量がある。これをどう考えたらいいのか。
本来の(そのへんの)土であれば、虫の死骸や動物の死骸が分解されていたり、植物が腐ったりすることで栄養になり、そこで植物が育つ。けど、ここで使われている土は改良土だった。何も芽生えることがない。これは質量をもつという意味では現実的でありながら、土本来の性質、機能から考えると虚構的な土であると言えるのかもしれない。
だから、泥の彫刻とそのレンダリング映像の組み合わせは意味があるんじゃないか。あの泥の彫刻は、現実と虚構のあわいに存在するものとして、鑑賞者とレンダリング映像を繋ぐことを可能にしている。それをさらに補強しているのが、鑑賞者が土と水を自由に足せる仕掛けなのだろう。土や水を足すことでリアルタイムに映像が変化する。これによって、鑑賞者-泥の彫刻-レンダリング映像の繋がりはより強くなる。
もちろん、泥の彫刻とレンダリング映像の組み合わせは普通の土でもできたかもしれないが、改良土を使うからこそ、イメージや虚構、想像を媒介する作品としての強度が上がったのではないか。
あらためて冒頭に書いた問いを思い出してみる。それは、この作品は何も芽吹くものがないものとしてあるのではなく、芽吹くものがあったのかもという問いだった。確かにあの土からは現実には何も芽吹かない。水を足しても、光を浴びせても。では何が芽吹くのか。
それはあの作品を見たすべての人の行為ではないか。行為が芽吹くってちょっと変な言い方だけど。
泥の彫刻を見て、レンダリング映像を見て、土や水を足してみる。映像がリアルタイムで変化する。もう一度彫刻を見る。上から見たり、横から見たり。そうすると土の凹凸や水の対流や光の反射の変化にも気づく。映像にまた目をやると、肉眼で見るのとは違った変化があることに気づく。この時間、鑑賞者はさまざまに行為する。今書いたのは僕の例だけど、たとえばそれが友達と来た人なら一緒に土をかけてみて何かを話したかもしれない。子ども連れなら、子どもがいっぱい土をかけまくったかもしれない。逆に興味ない子どもをあやしながら親がいろいろ試してみたかもしれない。
あの作品の前で土や水をかけて鑑賞していると、そういうこれまでの鑑賞者とこれからの鑑賞者の行為が想像された。これは虚構(想像された他者の行為)の樹々が芽吹いていると言ってもいいんじゃないか。
泥の彫刻《newclear[figure_yk]》は、現実と虚構のあわいにあるような改良土を使うことで、あの作品を見たすべての人の行為を栄養として、虚構の樹々を見せる作品だったんじゃないか。
ヴィジュアルなもの、言語、物質という3つの異なるものを使って、イメージを作り出せる稀有な存在として中瀬俊介という作家を捉えることができるのではないか。そんなことを思った。
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