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小野寺系のSHIROBAKO批判から見る「押しつけられる多様性」

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押し付けられる多様性

最近とあるツイートを見ました。

これは印象的なツイートでしたね。

ミクロ目線で見ると、1つ1つの表現には多様性がないのは当然ですが、マクロ目線で見ると「多様性」が生じているのが明確です。

しかし、下の「押し付けられる多様性」は、個々の表現全てに多様性を求めてしまって、マクロ目線から見ると「均一化」しているのが分かります。

多様性を押し付ける小野寺系

これで思い出すことは、去年末に劇場版「SHIROBAKO」のキャラデザインに対して「描き方に多様性がない」と批判した映画評論家の小野寺系さんです。

残念なことに私はブロックされてしまいましたが、「SHIROBAKO」を制作しているピーエーワークスが、他の作品では様々な女性を描いていることを考慮すると、決してクリエーターは「描き方に多様性がない」わけではないことは明確です。あくまでもアニメーション制作会社が舞台でその周りの人々が主体となって動いている「SHIROBAKO」では、描く必要性がなかったと考えるのが適切でしょう。

つまり、小野寺系さんの「SHIROBAKO」に対する批判は、上の図で言う「望ましい多様性」ではなく、「押し付けられる多様性」を主張しているも同然と言えます。

押し付けらた多様性は均一化する

昨年に放送されていた「白い砂のアクアトープ」では、沖縄県南城市にある架空の水族館を舞台として繰り広げられましたが、主体は少女であるものの、様々な女性を描かれていました。これは「SHIROBAKO」の前の作品である「花咲くいろは」でも同じことを言えます。

ピーエーワークスは、作品のテーマに合わせて、キャラデザインも常に変えているので、ピーエーワークス制作のアニメ作品は「多様である」ことには変わりないでしょう。この下の図が当てはまります。

しかし、映画評論家の小野寺系さんは、キャラデザインの多様性がないことを指摘していました。どうやらすべての作品に多様性がないといけないという考え方なんでしょう。

その考えでは、ピーエーワークスに「ミクロ視点の多様性を押し付けている」も同然でしょう。舞台設定やテーマ性によって、キャラクターのデザインも変わってくるものですが、小野寺系さんの考え方では、そのテーマ性も考慮することもなく、強引にキャラクターに多様性を求めているも同然です。

内容や舞台設定、テーマ性以前に、キャラデザインという表面的な部分だけでも多様性を求めたいのでしょうか?プロの映画評論家としては、物凄い浅薄い考えだなあと素直に思いました。

小野寺系さんの言う「多様性」というのは、上の図にある「押し付けている多様性」そのものでしょう。すべての作品が「多様性があるもの」にすることによって、何を見ても同じにしか見えません。均一化した状態と言えるでしょう。

キャラデザインに多様性を求めている小野寺系さんですが、マクロ視点で見ると「均一化」を求めているようにしか見えなくなるのです。

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