塀のない刑務所(大井造船作業場)⑰
「最終回part2… その後」
姉と松山刑務所を出て、甥の待つ駐車場で、姉の携帯を借りて妻の携帯に電話をかけた。仕事中だったと思うが、電話に出た妻は、「頑張って」と一言だけの短い会話だったが、出所の報告が出来た事、声が聞けたことが嬉しかった。
携帯の番号がそのまま変わっていない事も、私にとっては大きな事だった。
その後は、私から電話する事も、メールをする事もしなかった。
電話はしないで欲しいと言った、あの時の妻の気持ちを無視して電話をするという事は、自分の我儘の様な気がしていた事と、もう一つの理由は、妻が携帯の番号を変えてしまう事が怖かった。
年に一、二回だが、妻と姉はメールをする事もあったからだ。
私とは連絡を取りたくなくても、せめて姉との数少ないやり取りを、途絶えさせてはいけないと思った。
そしてそれは、私にとっても唯一の細い細い糸だった。
私と姉は九つ離れている、姉は若い時に故郷を離れ他県に就職し、そのままその土地で結婚しそこで暮らしている。
私にとっては、初めての土地だった。
知らない土地での再スタート、マイナスからのスタートだった。
私にとっては、その方が良かった、事件を起こした故郷で、やり直す自信は、正直な所無かった。
新築で建てた家は、妻が競売で処分した、故郷に帰る場所はなかった。
事件の事を知っている友人達にも会わせる顔は無かった。友人達の信頼も全て私は裏切ってしまったのである。
小、中、高から大人になっても変わらず、ずっと友達でいてくれた友達、彼らの想い出に、私がいる事で嫌な思いをする事もあるかもしれない、そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
仕事の事でも、姉の所の方が都会なので、故郷よりも仕事はある様に思えた。
出所したその日のうちに、保護司の人にも会い、仮釈放期間が終わるまで、つまりは刑の終了まで、保護司宅を月二回、訪問する事の説明を受けた。
保護司さんも、刑がまだ二年残っている事に驚いていた。今までの人は皆一年未満だったらしい。保護司さんは大井の事は、全く知らないようだった。
翌日から仕事探しだ、その前に住民票を移動し、携帯電話を購入した。
大井は作業報償金も、他の刑務所より高待遇だった。他の刑務所だと最初の月等は、千円も貰えないが、大井は入寮した月に一万円超えていた。毎月少しだが上がっていくので、ある程度の金額を持って出所することが出来た。
どんなに遅くても、この手持ちのお金が無くなる前に、仕事を見つける事を目標とした。姉からお金を貰う事だけは、避けなければと思っていた。
事件を起こすまでは、内装関係の仕事をしていた私だが、これといった技術や資格は無かった。
最初から大井で取得した、溶接やクレーンの職種に的を絞って仕事探しを始めた。
ハローワークで何社か紹介してもらったが、正社員としては、四十半ばの私には厳しかった。若い人でも仕事探しに苦労している不況である。
前科は隠した、保護司さんもその方がいいと言ってくれたのと、隠さずに仕事が見つかるとは思えなかった。
正社員で探していたのを、契約社員、派遣社員に切り替えて探すと、以外にも早く決まった。
大手空調メーカーの、下請けの部品工場で、契約社員として夜勤専属の溶接工として採用が決まった。
私自身かなり嬉しかったが、姉が喜んでくれたのが何よりだった。
溶接の資格を持っているとはいえ、経験値はゼロである、それは初日ですぐに見抜かれた。
夜勤の正社員のAさんは、私より十は年下だったが、すぐに気が合い、溶接も仕事も親切に教えてくれた、四年も一般社会から離れていた私にとっては、救世主の様な出会いだった。
私は、金運は無いが、人との出会い運だけは、ずっといい運だと思っていた。それを罪を犯し自分で全て壊してしまった。と思っていた。
刑務所の中でもいろんな出会いがあったが、刑務所の中での事は刑務所の中で終わりと決めていた。大井でも私より先に出所した何人かの人が、出たら連絡してと、連絡先を教えてくれたが、私はその人が出た後で、そういうメモはそのたびに処分した。連絡を取りたいと思う人もいたが全て捨てた。違う出会い方をしていればと思った。刑務所は刑務所、普通の人は入って来ない場所なのだ。
Aさんと出会った時に、その出会い運はまだ残っているかもしれないと思い、大事にしようと本気でそんな事を思った。
しかしこの工場は残念ながら、三年以上の契約延長はしない決まりと言われ、辞める事になった。Aさんは、力になれなくてごめんと言ってくれた。
Aさんは、辞めた後もたびたび連絡をくれて、有難い事にそれは、十年過ぎた今でも続いている。彼に言わせると一人暮らしの私の安否確認らしい。
出所から二年が過ぎて保護観察期間が終了した。刑が終了したのである。
嬉しいとか、そんな感情は全く無く、大井に行かなければ、今頃出たのかと思うと、改めて大井に行って良かったと思えた。
保護観察が終了したのを機に、姉の家から電車で二十分ぐらいの場所に、アパートを借りて姉の家を出た。
本当は、もっと早く出たかったのだが、ぬるま湯の様な姉の家族に甘えてしまっていた。
次の仕事も、そんなに間をあける事無く見つかった。
大手農機具メーカーの工場で、派遣社員で溶接工として働く事が出来た。
その工場では、二年を派遣社員として、その後会社規定の試験を受けて合格し、直接雇用の契約社員として働く事が出来た。さすがに正社員としての道は無かったが私には充分だった。
その工場でも、一回り以上年下の正社員の二人が、プライベートでも誘ってくれたり、相変わらずの出会い運の、強運ぶりを発揮していた。
出所して七年か八年過ぎた頃、突然テレビから大井のニュースが流れた。逃走事件だった。ニュースを見ながら、その時友愛寮で生活していた人達の仮釈放に影響がなければいいなと思いながら、ニュースを見ていた。
ニュースやネットで流れる友愛寮の事は、間違っている事もあったが、そんな事より、早い仮釈放を貰うために真面目に耐えている人達の、仮釈放に影響がない事を祈った。
その後の友愛寮の事をネットで見ると、センサーが取り付けられ、自治会は廃止となったらしい。
友愛寮の生活がどのように変化しても、「少しは早く出られる」「資格が取れる」という出所後の希望が持てる刑務所であって欲しいと思った。
出所後の私は、上手くいっていたと思う。決して収入がいい訳ではないが、仕事にも出会う人にも恵まれ、上手くいき過ぎなぐらいに思っていた。
しかしコロナウイルスで、一変してしまった。仕事量の激減で、派遣、契約社員の大半が退職を余儀なくされた。
私は長く勤めていた方で、現場の課長さんも、人事総務部にかけあってくれたり、いろいろ手を尽くしてくれていたが、決定事項は変わらず、私は私の年齢を思い知らされた。
しかし腹が立つとか、そんな感情は一切無かった。こんな私の為に手を尽くしてくれた人がいる事が、とても嬉しく思えた。
誰も悪くは無く、誰が悪いかと言えば、私はやはり私が一番悪いと思っていた。
今までが上手くいき過ぎなんだと思う様にした。
私には「ポジティブな諦め」が四年の拘禁生活で身についていた。刑務所の中で思い通りになる事は一つもない、諦めの連続である。素直に諦める事が出所への近道とも言えた。
コロナ禍の中の仕事探しは、若い人でも厳しいが、地道に探していれば何とかなると、根拠はないがそう思っている。
妻には、出所してから送金だけは絶やさなかった、それが私の生きていくモチベーションになっていたからだ。
一度だけ妻から手紙が届いた、まだ姉の家にいる時の事だ。
「お金はとても助かっています。でも無理はしないで下さい。出来ない時はそれでいいです。無理をするとろくな事になりません、それはあなたが一番わかっている事でしょう」という内容の手紙だった。
妻は私に一度もお金を要求した事は無い。だからといって送金をやめようと思った事は無く。長男は既に社会人として働き、下の子も二十歳を過ぎたが、送金はやめないと決めていた、私は彼女の人生に、しなくてもいい苦労、私の罪を背負わせてしまったと思っている、子供達の年齢に関係なく、出来なくなるその時まで、送金は続けよう、それは刑務所の中で生活している時からそう決めていた。
逮捕されて留置場に面会に来た時に妻が言った
「子供達の顔が浮かばなかったの?」そのセリフだけは忘れてはいけない
「子供達の顔が浮かばなかった」それだけで私の罪は重罪なのである、
その償いはまだまだ続くし、終わりは無いと思っている。
拙い文章を読んで頂きありがとうございます。
これは十年以上前の私の受刑生活を基に書いていますが
多少変更しています。ご了承のほどお願いいたします。
こんな下手な文章を最後まで読んで頂き、
本当にありがとうございました。
拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。