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塀のない刑務所(大井造船作業場)③

 面接から二週間ほど過ぎた頃、また作業中に呼ばれた。今度はコーヒーとタバコの匂いが充満している建物ではなくて、私達が昼食をとる食堂で、金線が待っていた。「もう一度確認するが、大井に行きたいか?」と聞いてくるので、もちろん「行きたいです。」と答えると、また「厳しいぞ」という言葉を何度も口にした。
 普通の刑務所の職業訓練と違い、募集は一切していないが、これまでの私の受刑生活を見て推薦はできると言ってくれた。そしてなぜ、そんなに行きたいのか、と聞くので、私は正直に、これまでの一年の受刑生活で考えた事を話した。刑務所の中では何も出来ない事、妻や子供にお金も送れない事、塀に守られて生きている事、資格を取りたい事、この際だからと思い、
本音で金線に話した。
 推薦はするが、推薦しても行けるとは限らないので、期待しないで、これまで通りの生活をおくるようにと言ってその日の面接は終った。

 大井造船作業場とは、どんな所だ?何がそんなに厳しいのだろう?
 外の世界だと書籍や、スマホにパソコン、調べる方法はいくらでもあるだろうが、塀の中では、何ひとつとして情報を得る術がなかった。
 面接の時に金線が体力をつける様にと言っていたので、運動時間は走るようになった。
 運動全般が苦手な私にとって自ら走る事は、これまでの人生の中で皆無に等しい。

 今の刑務所だと良くて6ピン、大井だと3ピンもありえる。単純に計算しても私の場合、一年以上も早く仮釈で出られるのだ。
 刑務所での一年という時間はとんでもなく長い。過ぎてみれば「あっ」という間なんて言葉は絶対に当てはまらない。そんな事を言う元受刑者がいたなら、それは単なる強がりだろう。
 確かに塀の中でも一般社会と同じ様に時は流れている。朝がきて、夜になり、寒い冬から春が来て夏へと季節は移ろう。もちろん体も老いていく。それでも塀の中での時間は、止まっている。
 携帯やネットが普及している現代で、長い間連絡が取れない人が、どれだけいるだろうか。
「見上げた空は、どこまでも続いている」
「あの空を、あの人も見ているだろうか」などと、歌の歌詞にあるが、
舎房から見える空は、塀の中だけの空に感じていた。
 刑務所では全てが遮断されている。風も空も全てが遮断されている。
刑務所という場所は世界で一番遠い場所のように思えてならなかった。
 だからこそ一日でも早く、一般社会に戻り、仕事に就き、被害者の方や家族に謝りたい、妻や子供達に少しでもお金を送りたい。それだけを考えていた。そこからが本当の償いだと思っていた。

 食堂での面接から二ヶ月近く過ぎた九月の終り頃、待ちに待った面接の呼び出しがあった。
 その二ヶ月近くの間は、何の音沙汰も無いので、やはりダメなのかという落胆とイライラで毎日を過ごしていた。
 同じ舎房の同居人達には、大井に行けるかもしれない事は話していなかった。金線からその話はしないようにと言われていたからである。
理由はわからない。とかく刑務所という所は理由がわからない抑圧が日常に溢れている。
 たばことコーヒーの匂いが充満している、最初の面接と同じ建物の同じ部屋に入ると、金線が待っていてくれた。
 金線は結果から話してくれた。大井に行ける事と、移送日はまだ決まっていない事を。
 私は心の中で「ヨシッ」とガッツポーズをしていた。
 金線は金線なりに調べてくれたのだろう、大井の事を話してくれた。
 大井に行くにはその前に、松山刑務所で大井に行く為の訓練を二ヶ月受けて、それからやっと大井に行けるのだが、その訓練もかなり厳しいとの事だ。
 大井での受刑者は、自治会という組織の中で、受刑者同士が注意しあって生活をし、仕事も一般の人と同じ様にするので、かなりの忍耐力と体力が必要で本当に厳しいらしいぞと説明してくれた。
 あまりの厳しさに耐えられず自ら申し出て松山刑務所に戻る人も多くいるとの事、過去にこの刑務所からも行った人がいるが、大井から出所する事はなかった事。金線は「厳しい」という言葉を何度口にした事だろう。
 そして「行きたいか?少し考えるか?」「今断っても今後の受刑生活に支障をきたす事はない」とまで言われた。それでも私は「行かせて下さい」と
返事をした。
 私は一日でも早く出所できるのであれば、どんな事でも我慢しよう、頑張ろうと決めていた。
 私は罪を犯し、他人を傷つけ、家族を傷つけた。厳しくて当然じゃないかと自分に言い聞かせて、今のままの受刑生活ではダメだと思っていた。
 金線は最後に、移送日が決まるまでは、これまで通り過ごす様にと念をおした。しかし刑務所の「移送」や「引き込み」等は、ひどい時には前日、早くても一週間前ぐらいにしか教えてはくれない。

 大井への「内定」を頂いた面接の日から、まるでそういう話が無かったかの様に、またまた二ヶ月が過ぎて、師走になっていた。
 刑務官というのは、黙って待たされる側の気持ちが分からないのだろうか、などと思ってもここは塀の中だと諦めるしかなかった。
 十二月に入り最初の免業日が過ぎた月曜日の朝、「転房」と言い渡された。
 同居人達が工場に出役する際「頑張れよ」「じゃあな」などと声を掛けてくれた。おそらく二度と会わないであろう人達だが、何とも言えない妙な気持ちが一瞬胸にあった。私語は禁止だがその時だけは刑務官も見て見ぬふりをしてくれた。
 システムエンジニアの横領犯も、私の肩を叩き、ニコっと笑って、鉄の扉から出て行った。
 一人舎房に残り、転房のための荷物をまとめながら、不安な気持ちがどんどん湧いてきた。
 独居房に移り、移送は明日と告げられた。舎房担当の刑務官に「手紙を出したいのですが」とお願いすると「今日はもう無理だ」とあっさり断られた。そういう所が刑務所である。
 姉に移送の事を知らせたかったのだが、刑務所という所は諦めてばかりである。しかし自分が悪いのだから仕方なかった。

 するとその日の午後、驚いた事にその姉が面会に来てくれたのだ。もちろん移送日の事など知るはずもなく、明日愛媛に行く事になったと言うと、姉も驚き、昨日の夜、急に面会に行く事を思いたって、来たのだという。
 私のせいで、嫌な思いもしただろうに、そんなことは一言も口にせず
「頑張って、大丈夫だから」そんな姉の言葉に涙が溢れていた。
 姉の面会は、何かの知らせだったのだろうか、不思議でならなかった。


 拙い文章を読んでいただきありがとうございました。
 この文章は十年以上前の私の受刑生活を書いていますが、
 私以外の受刑者の事や、季節や月等々は少しだけ変えています。
 すいません。
 
 

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。