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塀のない刑務所(大井造船作業場)⑪

「電話」

 本所に戻りたいと思った事もなく、本所に戻される様な、誘惑やトラブル等に巻き込まれる事も無く、三か月が過ぎ、私は一級生になっていた。

 大井では一級生になると、家族に電話が出来る。
 訓練の時に、その事を知ってから、一度は妻に電話をかけようと決めていた。
 何月何日何時誰に、という申請書を職員さんに提出し、他の人と重なっていなければ、許される。

 しかし、いざ電話が出来る環境に身を置くと、悩んだ。
「電話などしても、いいのだろうか」「なんて言えばいい」
後で思うと、私の悩んだ事や、考えている事は全て、身勝手なものだと気づいた。
 私は職員さんに申請書を提出し、同時に妻に手紙を書いた。何月何日何時に電話しますと。前もって知らせておくべきだと思った。

 電話は面会室も兼ねた、小さな応接室にある公衆電話を使用する。事前にテレフォンカードを購入しておく必要がある。
 テレフォンカードを購入してから、すでに一ヶ月以上過ぎていた。

 その日、職員さんが電話をかけて、電話口に申請書の相手、妻が出てから私に代わった。受話器を私に渡すと職員さんはすぐに部屋から出ていった。部屋には私一人である。
 私はその時の内容を覚えていない、ようで、覚えているようで、自分でもよく分かっていない。
 妻の元気そうな、最初の「もしもし」の声だけで涙が溢れた。
私は謝る言葉と、子供達は元気か、を繰り返していたような気がする。
 妻は最後に「もう電話はしないで」と言った。
ショックな気持ちと、当然だという気持ちが、胸の中で入り混じっていた。
 私は「わかった」と返事をして、終わりの時間がきた。

 私は妻の元気そうな、変わらぬ声に安堵していた。電話が出来た。声が聞けた。それだけでも、大井に来た価値が私にはあった。

 私は、職員さんに「電話、終わりました」と報告し、トイレで涙を拭いて居室に戻った。
 涙顔をしていても、誰も涙の事には触れない、誰もが電話の後は同じ様に、目を赤くしていたからだ。
 どんなに威張り散らした奴でも、普段は反目で、憎たらしい奴でも、電話から戻ってきた時には、目を赤くしていた。
 だからしばらくは、誰も話かけてこない。

 居室に戻って十分ぐらいすると、職員さんが居室まで来て、場長さんが呼んでいると言った。普通居室まで来る事はなく、放送で呼び出すのだが、この時は居室まで来た。

 場長さんに呼ばれるのは初めてだった。
 場長室は二階事務所の奥にある。場長室の掃除は二班の担当なので、私は初めてだった。職員さんに促され、ノックして入った。かなり広い。
 大きな応接セットが置かれていて、ソファーに座る様に言われた。
居室から場長室に来るまで、なんの話だろうかと考えていたが、思い当たる事は何も無かった。

 場長さんは開口一番「俺は、お前の奥さんは、いい奥さんだと思うよ」と言った。
 その瞬間、電話の内容は聞かれてるんだと分かった。刑務所なんだから当然だし、仕方なかった。
 場長さんは続けた「電話しないで、というのは子供の事を守ってるんだと思うぞ」「それとお前の事を思っての事だろう」「それが普通だと思う、いい奥さんだと思う」と。私は言われるまでもなく、そんな事は分かっていた、が、自然と目頭が熱くなり、涙が溢れていた。

 場長さんは「電話しないで」と言われた私の事を、心配してくれていた。
 私が自棄になったりしないか、はっきりそう言われた訳ではないが、場長さんの口調や、言葉から読み取れた。だから私は「大丈夫です」と答えた。
 気のせいか、次の日から二、三日、私の作業現場の見回りも増えた様な気がした。

 大井の職員さんは、制服はほとんど着ない、建築現場の現場監督の様な作業着を着ている事が多い。話し方も普通の刑務所とは違い、威圧的に話す人もいない。いい意味で刑務官らしくなく、人間臭い。
 数百人が収容されている刑務所とは違い、三十人足らずの大井では、職員さん一人一人が、私達受刑者と向き合ってくれている様に思えた。

 どの職員さんも、電話の事を言ってはこないが、気にかけてくれている事は感じとれた。
 私としては、有難く感謝していたが、「自棄になるわけないだろ」と
思っていた。

 私は、妻に言われた通り電話はしなかった。
手紙は刑務所に入ってから、月に一度毎月書いていた。返事は来ないが毎月書いていた。
 手紙を受け取ってくれるだけでよかった。



 この文章は十年以上前の私の受刑生活を基に書いていますが、
 他の受刑者の事など、多少変えて書いています。 

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。