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塀のない刑務所(大井造船作業場)⑯

「最終回 出所」

 私は大井に来てから、二人の自治会長の出所を見送った。三人目になるのが、今の自治会長のSさんとなる。

 大井での二度目の年も明けた一月の終り頃に、自治会長Sさんの仮面接があった。
 
 出所するまでには、仮面接、本面接という面接を経て出所となる。
 自治会長は、仮面接からおおよそ二ヶ月後ぐらいに本面接があり、
そこからさらに二ヶ月後後ぐらいに出所となる。

 自治会長の出所が見えてくると、次の会長は?という話もチラホラ出てくる。一班、二班、経理班の各班リーダーから職員さんが決める。自治委員から会長に飛び級で選ばれる事はない。

 その頃、私より先に大井に来た人が二人と、同期が一人いた。
私はいつの間にか、序列もそうだが、友愛寮の古株になっていた。
 先に入寮した二人のうちの一人は、私が衛生委員になった時のNさんで、私が一班リーダーになると同時に衛生委員に復活していた。
 もう一人は二班リーダーのKさんである、私より三か月か四か月早く大井に来ていた。おそらく出所も私より遅いと本人が言っていた。
 一番の次期会長候補である、自治会長のSさんもKさん本人もそう思っていたと思う。今までの流れではそうなるだろうと思っていた。
 同期で残っているのは本所の訓練で私を嫌っていたHさんだ、他の二人は無事に出所した。一人も本所に戻らず、優秀な期生だったと思う。
 Hさんは、自治委員になっていた、私が一班リーダーになってしばらくしてから、教養委員に推した。古株が一級生のままだと他の人がやりづらいのではと思ったのと、やはり同期という理由は大きかった。

 そんな頃のある日の夜に、一班担当の職員さんに呼ばれ、場長室に入った。
 話は身元引受人の姉の事だった。
 場長さんの話では、姉が保護司さんを通して、引受人になる事が難しくなった、という話だった。
 私は頭の中で話の整理がつかず、何を言っているのか分からなかった。頭がパニックになっていた。
 今までの姉からの手紙では、そういう話は一切書いていなかったのと、保護司さんがすでに決まっている事も、手紙には書いていなかった。
 
 経済的な問題らしい、確かに姉の家が裕福だとは思っていない。
「今世の中は、かなりの不況で、お前が仕事を見つけるまでの間、お前を経済的に支える事が難しいとの理由らしい。」
 場長さんは話を続けた。
 「お前、すぐにお姉さんに手紙を書け、今の状況をちゃんと伝えろ。
 普通の人は、刑務所の事なんか知らなくて当たり前なんだぞ、お前のお姉さんは引受人を降りるという事がどういう事か、具体的にお前がどうなるか、分からないと思うから、それを具体的に書け、いいか、お姉さんを悪く思うなよ、普通の人は知らなくて当たり前なんだから、それを忘れるなよ」

 普通の人は、刑務所のことは知らなくて当たり前という事を忘れるなよ、何度もその言葉を言ってくれた。
 妻の電話の時と同じだった。

 私は今までの姉への手紙に、刑務所での事を書いた事は無かった。大井の事も「もしかしたら、前の刑務所より、少し早く出る事が出来るかもしれない」と最初に書いただけで、地獄の様な二ヶ月の訓練の事も、異様な生活状況も一切書いた事は無かった。姉や妻にとっては関係の無い事だと思っていたのと、刑務所の事を書く事で余計に嫌な思いをさせてしなう様な気がしていたからだ。

 場長さんの言うように、すぐに姉に手紙を書こうと思ったが、何日か悩んでいた。
 もしかしたら、このまま姉が引受人を降りて、私は本所に戻されて出所は延びる。
 それは神様が、まだまだお前を外に出すわけにはいかないぞ、と言ってるのかもしれない、それが自分の犯した罪なんだと考えたりした。
 仮釈放で出所するのではなく、満期で出所して、誰も知らない所で生きていく方が、いいのかもしれないとも思っていた。

 しかし、結局は自分の欲に負けた、早く出たいという、自分の欲に負けて、姉に手紙を書いた。
 身元引受人がいない場合の、今後の自分の処遇がどうなっていくのか分かりやすく、そしてこれ以上姉を苦しめない様に気を付けながら、手紙を書いて出した。
 場長さんは、保護会に引受人になってもらう方法もあるから、とりあえず保護会に申請だけはしておこうと、言ってくれた。

 それから十日ほど過ぎて姉から手紙が届いた。
「ごめんね、引受人の事、あまりの不景気で収入が減って、気持ちも落ち込んでいて、引受人の事無理かなぁと思ってしまってごめんね。
でもそれじゃダメだと思い直して、保護司の人にも大丈夫だからって言ったから、安心してね。今年中には出られそうって書いてあったけど、迎えにいくからね」(原文抜粋)との内容だった。
 涙がポタポタ便箋に落ちていた。
 自分があんな事をしなければ、こんな余計な事で、姉を苦しめる事もなかったのに。
 悔いても悔いても、自分を責めても責めても、足りない、全然足りない、改めて自分の罪の大きさと、自分は刑務所に守られ、家族に罪を背負わせている事を感じていた。

 その姉からの手紙で、引受人の事は落ち着き、日々いつもと変わらず、忙しく過ごしていた。

 自治会長Sさんは、本面接も終わり、出所の日が決まるのを待っていた。
 出所は友愛寮からではなく、出所日の一週間前に本所に移送となり、一週間本所の釈前房で過ごし本所から出所となる。

 ゴールデンウィークが過ぎた頃、自治会長の出所日が決まった。五月の最終週に本所に移送となるとの事だった。
 そんなある日自治会長が私に、次はお前かもなと言うので、それは無いでしょ、Kさんでしょ、とその時の会話は終った。
 それから二日後の夜、会長のSさんと私二人一緒に場長室に呼ばれた。場長さんと一班担当の職員さんが待っていた。

 場長さんが「次の自治会長は、おろかし、お前でいくからな」「いいな」と私とSさんに向かって言った。
 会長のSさんはすかさず、そして以外にも「その方がいいと思います」と返事をしたので私は驚き、場長さんに「いや、自分には無理です」と自分でも驚くぐらいはっきりと断っていた。「Kさんがいいと思います」と続けてて言った。
 場長さんは「なぜそう思う?」と言うと
私は「自分より先に大井に来ているからです」と正直に答えた。
「でもこれは、職員全員一致の意見だから、承諾しろ、お前なら大丈夫だから」と言って、その後は反論する事は許されず、そのまま押し切られた。

 私は人の上に立つとか、リーダーとか本当に苦手だった。
 まだ会社務めをしていた若い頃、主任になる話を断った事もあったぐらいだ。理由は、私よりも先輩が数人いた事だった。
 今回も二班リーダーのKさんがなるものだと思っていたので、まさかの展開に、嫌だなぁと言う気持ちが強かったが、ここは刑務所なんだと、いつもの様に自分に言い聞かせた。

 予定通り五月の最終週に自治会長のSさんは、本所へと移送された、一週間後は、外の世界の人になる。羨ましかった。出所者を見送るたびに、羨ましい、その言葉しかなかった。
 
 そして私が自治会長になった。なってしまった。
 本所での訓練を思うと、嘘みたいな展開である。
 これが、刑務所での出来事では無く、一般社会の会社での出世話なら、姉にも手紙を書いて、喜んでもらうのだが、残念ながらここは刑務所で、外で忙しく必死に生活している、姉や妻にとっては、どうでもいい事なのである。
 
 海水浴がおまけに付いてくる、大井浜清掃が終わった頃に、私にも仮面接がついに来た。いよいよ出所が現実味を帯びてきた。七月に仮面接という事は、年内の出所は間違いないと思った。
 出所の事を考える時には、嬉しさと、出てからの仕事や生活の不安が、必ずセットになって頭の中を駆け巡る。

 九月に入り、運動会の練習や文化祭の準備をいつから始めるか等を、各班リーダーと相談し始めた頃に、本面接が来た。
 本面接からおおよそ、二ヶ月で出所である。文化祭の準備も下期生と一緒に動き回り、運動会の練習も昨年と同じ様にこなし、最後の運動会と文化祭が終わった後に、出所日も決まり本所に移送となった。

 大井に来て約二年、懲役六年を四年弱で出る事になる。三ピンだった。
場長さんも、二年残して出る人は稀だろうと言っていた。
 やはり大井を志願して良かったと思った。

 しかし本当の償いはここから始まる。今までは塀に守られてきたが、これからは守ってくれるものは無い。

 仮釈放の日、姉が迎えにきてくれていた。
自分で飛行機か電車で行くから来なくてもいいと、手紙には書いたのだが、姉の長男の運転する車で迎えに来てくれた。
 
 正面玄関から外に出た時から、大井の事、二ヶ月の訓練の事、前の刑務所の事、全て頭から消えていた。

 姉も義理の兄も甥も事件の事は何も聞かなかった、何も無かったように、受け入れてくれた。
 仕事も大井で取得した、溶接とクレーンの資格が生きて、工場で契約社員としての仕事が、出所して一ヶ月で決まった。思ったより早く決まった事に姉が喜んでくれた事が嬉しかった。
 資格が無かったらどうなっていたか分からない、改めて大井に行って良かったと思えた。

 妻にも送金出来るようになり、ここからが償いの始まりと言い聞かせ、
何にも遮断されていない、繋がっている空の下で頑張ろうと思った。



 拙い文章を読んで頂きありがとうございました。
これは十年以上前の、私の受刑生活を基に書いていますが、
多少変えて書いています。ご了承のほどお願いいたします。

 私が、原稿用紙二枚以上書いたのは、高校生の時以来だと思います(笑)
文法もわからず、言葉も知らず、皆さま読みづらかったと思います、
申し訳ございませんでした。
 そんな私がこんなに書けたのは、皆さんがスキをくださったり、
Twitterにいいねを頂いたり、返信を頂いたり、それがとても励みになったと同時に、書く事が楽しくさえ感じていました。
感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
  

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。