見出し画像

塀のない刑務所(大井造船作業場)⑥

 「大井訓練生」

 二月、四工場に配役されてからわずか一か月で、大井訓練生としての生活が始まった。
 真冬の暖房器具など何ひとつ無い、凍える塀の中の冬なのに、なぜか寒さを感じなかった。

 広い四工場の奥の片隅に、大井訓練のスペースがある。
 訓練リーダーの元で、溶接やガス切断等の練習をするのだが、そんな技術的な事などどうでもよく、何よりも大井で耐えられる体力と忍耐力を身に付ける事に、重きを置いた訓練だった。

 舎房も移り、私を含めた六名と訓練リーダーを合わせた七名である。
まさに二十四時間、訓練漬けの生活が始まった。
 布団の畳み方、掃除、机の拭き方等々、上げたらキリがない程、細かい所まで決まり事があった。
 リーダーの言う事は絶対である。その絶対は将軍様並みの絶対である。
それも大井の自治会での生活の為の訓練らしかった。
 リーダーのスリッパを片付ける係、リーダーの布団を敷く係なども六人が交代でやる。布団を敷く時などはリーダーに対して決まった『口上』を述べなければならない。間違えたり、噛んだりすると、怒られ、出来るまで終わらない。

 訓練リーダーというのは、刑務官ではない、同じ受刑者である。
そして大井要員でもない。
 しかし誰にでも出来る役割ではないと思えた。おそらくは、数百人が収容されている受刑者の中から選ばれて、その役割に就いたと思われた。

 大井訓練生も前期生と後期生がいる。二ヶ月目の人達が後期生となる。
後期生になると、舎房もリーダーとは離れ訓練生だけの舎房に移る。
そのせいか少しだけ、余裕があるように見えた。
 後期生は四名と少なかった。私達と合わせて十名での訓練である。
後期生と前期生の間でも上下関係は厳しい。
 リーダーへの服従と上下関係の徹底が、大井での生活の為に一番重要な事らしかった。

 松山刑務所にはメインの広いグラウンドと、一周二百メートルから三百メートル程の第二グラウンドがある。その第二グラウンドで訓練のメニューのひとつである、行動訓練が行われる。と言っても走るのがメインだった。
 二列縦隊のまま、リーダーが「ヤメ!」と言うまで、グラウンドを何周も走らされた。それもかなりのスピードと、全員の足を揃えなければいけない,
加えて「チーニーサンシー」「チーニーサンシー」と全開全力の大声を出しながらである。
 前の刑務所で運動時間に、体力作りのつもりで走っていたが、レベルが違いすぎて、何の役にもたたなかった。
 足が揃わなかったり、遅れて列を崩したりすると、リーダーの罵声が飛んでくる。
「ヤル気あんのかぁ!」「いつまでも終われないぞぉ!」
学生時代、運動部の経験もなく運動全般が苦手な私は、常に皆から遅れていた。
「お前に大井はムリムリ!ヤメロヤメロ!」
リーダーの罵声に恐怖さえ感じていた。
 訓練リーダーが、どんなに汚い言葉で私達を罵ろうが、刑務官は何も言わず、ただ見ているだけである。
 3000メートル走、1500、短距離ダッシュ、他にも腹筋、背筋、皆で手をつないでのスクワット。
雨の日だからといって、休みにはならない、体育館を使ったり、舎房の階段をダッシュでの昇り降りが続く。
 後期生と合わせた十人の中でも一番運動能力のない私は、常にリーダーの標的だった。

 そんなある日、グラウンドを走っている時、足がもつれて転んだ事があった。そんな時でも、リーダーや刑務官から「大丈夫か?」などの声は無く、皆はそのまま走り続け、リーダーからは「早く立てぇ!立って追いつけ、追いつけぇ!」「お前が追いつくまで全員走らさせるぞ!いいのかぁ!」と怒鳴られ続けた。
 私は情けなさと、怒りと、皆に申し訳ない気持ちで走り続け、なんとか列の最後尾に追いついた。皆もヘトヘトになりながら、少しペースを落とし、私が追いつくのを待っていてくれた様な気がした。それを確認する体力も、皆の事を想う気持ちの余裕もなかった。

 四工場は金属加工工場である。金属を成型していく過程で、かなりの切粉が出る。放っておくと綿菓子の様にどんどん膨らんでしまい、作業にも支障をきたす。それを片付けて工場をキレイにするのも訓練生の仕事で、
『切粉回収』という訓練のメニューのひとつである。
 いかにも手作りといった、バッカンと呼ばれる鉄の台車を、後ろから押す人、引きながらハンドルを取る人、他はホウキとチリ取りを持って、バッカンの後ろをついて行き、各機械の周辺をキレイにするのだが、全開の大声で「キリコカイシュウ、シマース」「キリコカイシュウ、シマース」と
叫び続けながら工場の中を回るのである。
 工場の中は、基本的に走ってはいけない。その為走ってる様に見えない、
早歩きで動く。特に手に何も持っていない時などは、腕は真っすぐ伸ばさなければいけない。肘が曲がっていると、走っているとみなされ、怒られる。
正に異様な動きである。
 切粉を回収する機械の順番も決まっているため、機械の配置図、道順も覚えなければいけない。少しでも間違えると、後でリーダーに怒鳴られ、詰められる。
 私は、行動訓練、切粉回収、その他のメニュー言わば全てなのだが、リーダーに常に怒鳴られ、標的だった。舎房でも一緒なので、息つく間は無く、体力的にも精神的にも追い込まれていた。

 ある日も、リーダーに怒鳴られ
「お前に大井はムリムリ、ヤメロ、ヤメロ」
「皆に迷惑だから訓練から外れてろ!」と怒鳴った。
私は決して口には出さなかったが、思っていた。
「訓練から外れる?」これは大井に行く為の訓練ではなかったのか。
いくら走るのが遅いからとはいえ、口上を噛んだり、忘れたりしたからとはいえ、訓練から外れるという事が理解出来なかった。
訓練リーダーとはいえ、同じ受刑者である、そんな事が許されるのかと思いながら、訓練の異常な、イヤ、異様な厳しさに弱気になっていた。
 訓練から外された私は、見上げる程の担当台の下で、指先まで力を入れた
『気を付け』の姿勢で立たされ、切粉回収の時は、工場の端で
「キリコカイシュウ、シマース、キリコカイシュウ、シマース」と叫び、行動訓練はしっかり走らされたが、他は何もさせてもらえなかった。
 「大井に行くのは諦めます」と私から言わせようとしてるのだろうか、などと考えたり、私はどうしていいのか分からずにいた。
 訓練を外されて三日目の朝に、後期生の四人の中の一人が、「リーダーと担当刑務官に謝って、ヤル気がある所を見せて、訓練に戻して下さいと、お願いしてこい」とアドバイスをくれた。
 私はリーダーに「お願いします、訓練に戻して頂けないでしょうか」
「頑張りますので、お願いします」と何度も直立不動からの機敏なお辞儀で、お願いしますを繰り返した。
 担当刑務官にも、同じ様にお願いし、やっと訓練に戻る事が出来た。
 後で分かった事だが、訓練から外された人には、後期生からアドバイスするのも、後期生の役割だった。

 訓練中『もう無理だ』『大井に行くには諦めよう』と思った事が、一度や二度ではなかった。
そんな時はいつも、妻と子供の事を想って耐えた。妻と子供達の方がもっと嫌な思いや辛い思いをしているはずだと思い耐えた。

 そんな地獄の様な二ヶ月の訓練も終わりに近づいた頃に、リーダーと話す機会があった。
 リーダーは、自分はこんな嫌な役割でも、大井に行く事はない、大井に行くお前達みたいに、仮釈が多く貰える訳でもない、だから嫉妬が無いと言えば嘘になる、そして絶対戻って来るなよ、と。それと私は前の刑務所から、かなり強い推薦があったらしいと教えてくれた。『かなり強い推薦』、すぐに大井訓練生になれたのも、その
『かなり強い推薦』のおかげなのかもしれない、そう思ったが、真実を確かめる術はなく、お礼を述べる事も叶わない。諦めないで良かったと、心底思った。私はあの金線とオヤジの顔を思い出していた。

 そしていよいよ大井に行く事が決まった。
 同期は四名である、二人は耐えられず辞退した。


 拙い文章を読んでいただきありがとうございました。
 この文章は十年以上前の私の受刑生活を基に書いていますが
 私以外の受刑者の事や、季節、月その他等々は多少変えて書いています。

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。