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塀のない刑務所(大井造船作業場)⑧

「友愛寮」

 友愛寮は鉄筋コンクリート五階建ての建物である
学校の校舎の様に横に長い。四階と五階が私達の居住スペースとなっていた。
 四人部屋に二段ベッドが二つと、かなり古い木製のタンスが各自に一つあり、学校の机と同じ様な机が四つ窓側に、外に向かって並んでいる。
 どの窓にも鉄格子は無い。
 机の前のアルミサッシのガラス窓を開けると、広い造船所の屋根がすぐ目の前にある。奥の方は遠くて見えない、造船所はかなり広い。
 廊下のアルミサッシにも鉄格子は無い、各部屋のドアにも鍵は無い。鍵は建物の出入り口だけである。刑務所としての建物ではなく、普通の社員寮や学生寮と思える建物だった。

 二階三階には、小学校の教室を一回り大きくした教室や、大型画面のテレビが置かれているだけの、二十畳から三十畳はありそうな広い畳間の娯楽室、置いてある本は古いが、冊数はかなりある図書室など、刑務所とは思えない施設である。
 前の刑務所で受刑者が寮で生活していると聞いて、信じられなかったが、現実に存在していた。

 寮内を自由に歩けそうだが、そうはいかない、新入生と二級生は、一人で歩いてはいけないのである。どこに行くにも一級生にお願いをして、連れていってもらわなければいけない。
 自治委員や各班リーダー、自治会長は下期生を連れて歩く事はしない。重役や社長が、新入社員を連れて営業には出ない様なものと思えば、わかりやすい。
 新入生の間は、常に預かりと一緒にいる。
 一人で歩けることを『独歩(どっぽ)』という。それは、入寮間もない下期生は、信用がないという事らしい。だから新入生、二級生が一人で廊下など歩くことはない。部屋からさえも出られないのである。
 もしもそんな事をしたら、ガチられるだけでは済まないらしい、職員さんにも報告され、最悪、逃亡の恐れあり、とレッテルを張られるらしい。らしいというのは、私が在籍している間、そういう人はいなかったのと、実際逃走事件はなかったので、確かな事はわからなかった。

 一班二班は、全員工場に出る、序列が上だから出ないという事はなく、経理班の四人以外は全員が工場にでる、働く部所は皆バラバラである。
 新入生の間の三週間は工場には出ない、三週間後に工場のどの部所に配属されるか決まる。その間は新入訓練班リーダーの指導で寮内外の掃除や洗濯物を畳んだり、覚え事の練習をしたり、書き物をしたり、造船所の社員の方が来て、工場での安全教育の講習を受けたりと、何かと忙しく、緊張感も半端ではなかった。
 洗濯物の畳み方も決まっている。パンツも肌着も全て決まっている。
特に序列が自治委員以上の人達の洗濯物を畳む時は、かなり気を付けなければいけない。間違った畳み方をしたままタンスにしまうと、
「畳んだのは誰だぁ!」と預かりがガチられる。タンスの中も全て置き方が決まっている。特に新入生のタンスの中は理路整然としていて美しい。

 夜寝る時も異様である。就寝は十時に就寝点検がある。資格試験が近づくと、勉強会等の為十時三十分になる事もある。
 普通の刑務所では、九時就寝で九時以降私語は一切禁止だが、大井は全く違う、就寝時間後も緊張は続く、特に新入生は夜も気が抜けない。
 
 二段ベッドは序列が上の人が下、下期生は上と決まっている。
ベッドを昇り降りする際に、鉄製のハシゴが少しでも「ギィ」と音を立てると、その場で止まり、つまりハシゴの途中で止まり、「すいませんでした」と謝らなければいけない。だから新入生はゆっくり、忍び足で昇り降りしなければいけない。謝るのを忘れたり、普通に昇り降りしようとすると、すぐさま「オイコラァ」と怒鳴られ、へたをすると、木にしがみついたセミの様に、ハシゴにしがみついたままの姿勢で、謝り続けなければいけない。
そういう事を楽しむ、根っから人を虐める事が好きな奴もいた。
そういう人と同部屋になると最悪である。幸い私は一度もそういう事は無かった。
 しかしそういう奴は、いつかトラブルを起こし、最終的には本所に返される人が多かった。

 新入生はベッドに入ってからも布団の中で『気を付け』の姿勢である。
預かりは必ず同部屋なので、覚え事の確認を小声でやるのである。それも毎晩。預かりがテストの様に質問するので、それに答えなければいけない。
その間、見えなくても布団の中では、腕を伸ばして太ももの横につけて
『気を付け』の姿勢を保たなければいけない。
 その覚え事の確認も預かりによってかなり違う。酷い人だと夜中十二時を過ぎるのは当たり前で、一時二時までやる預かりもいた。
 私の預かりのMさんはそんな事はなく、十二時を過ぎる事はなかった。しかし、ある程度はやらないと、Mさんが怒られてしまうので、十二時近くまではやるのだが、それも形式的な様に思えた。しかし、覚えなければいけない事を、覚えていないと、昼間新入訓練班リーダーに怒られる。「ヤル気ないんだったら、自分で職員さんに言って帰れ!」と怒鳴られる。が、二ヶ月の訓練の時とは違い、私はそういう事を言われた事が無かった。

 Mさんは、私達が入寮する前に「訓練でダメだった奴を、お前が預かりをやれ」とそんな風に言われていたらしい、私の事である。預かりの決定も、
自治会長と各班リーダーで決める。
 ある日Mさんは、私の事を全然ダメじゃないと言ってくれた。走るのが遅くても大丈夫、横着しないのと、気遣いが出来ればなんとかなるよ、と言ってくれた。『気遣い』『横着』これもまた一般社会と同じじゃないか、そう考えると、大丈夫そうな気がしていた。

 大井の生活のスタートをスムーズに切れたのはMさんのおかげだった。
私はかなり運が良かったと言える。
 同期の一人などは、ある日四人で洗濯物を畳んでいると、「あいつ絶対に許せない」と自分の預かりに対して、かなり本気でイラついていた事もあった。その預かりは、私達の翌月に来た新入生が、我慢出来ずに掴みかかり、二人とも本所に戻された、当たり前だが、暴力はご法度である。そして必ず喧嘩両成敗で二人とも戻される。
 本所に戻されると、間違いなく出所は遠くなる。
 同期の三人とも、私はすぐに本所に戻ると思っていたらしく。それが蓋を開けてみると、私が一番伸び伸びしている様に見えていたらしい。
 伸び伸びなんてとんでもなく、私は毎日が必死だった。
 
 前の刑務所では毎日、二、三行でも日記を書いていたが、訓練の二ヶ月も、大井に来てからも、一行も書く事が出来なかった。時間がないのと、
気持ちにも、全く余裕がなかったからだ。

 大井の生活は、とにかく忙しい、特に下期生は分刻みのスケジュールである。
 前の刑務所でのダラダラした生活が、心底嫌だった私にとって、忙しい事は望む所だった。
 同期の三人が、私の事を伸び伸びして見える、と言ったのは、もしかしたら、そういう私の気持ちが行動に出ていたのかもしれなかった。
 そしてそれは、預かりのMさんから、リーダーや会長、そして職員さんにも伝わった。
 なんせ訓練で一番ダメだった奴という、レッテルを張られて大井に来た私だったので、いい意味で目立っていたらしい。

 工場の配属は大きく分けて、組立と内業に分かれる。内業は友愛寮の目の前にある建屋が現場で、五十メートルも走らないが、組立は、千メートルから千五百メートル程の距離を走って行く。二列縦隊のまま足を揃え、列を乱してはいけない、それも結構なスピードで走る。
 あたり前の様に、私は内業だった。
 班は一班、現場は内業と決まり、本格的に大井での生活が始まった。



拙い文章を読んで頂きありがとうございました。
この文章は十年以上前の私の受刑生活を基に書いていますが
私以外の受刑者の事や、季節、月その他諸々、多少変更して書いています。  

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。