「これは、経験のため」って言われたことありませんか? ただ、この『経験』とか『体験』の違いってなんなのでしょー。 意外と大人たちは説明ができない。 でも、子どもには言っていたり…。 この言葉は意味がわかっていないと、効力が弱くなる気がしているのです。 なぜかって? 言語理解→ロジックがわかる→ゴールが逆算できる→行動の連続性がつくれる となるはずだからです。 さて、体験と経験のお話。 映画って観たことありますか?アニメでもパラパラマンガでもいいんですが。 これら
生きていると他人と話しますね。 いろんな言葉が気になる当方としましては、大した言葉でないはずでも結構気になって考えることもあるんですね。 良い言葉、悪い言葉、よくわからん分類できない言葉等々…。 じゃあ、どうしてるかというと。 嫌な人から言われた言葉、興味のない言葉に関しては脳内で反芻させないようにしています。(とはいえ、気にはなるんだけどねー) 上記に関しては考えるだけムダだと今は思ってますし、そこまで器用ではないので労力をそこに割きたくないのです。 気になる言葉、
久しぶりに上野へ。 昔は芸術を見に行ったり、1人飲みをしたりしていましたが、最近はわりと疎遠な町となってしまいました。 なぜ、上野か。 いろんな師匠がいるのですが、デ・キリコと空海展は見なさいと言われまして。 師曰く、デ・キリコは勘違いされている。 空海展はとにかく見て感じろっ‼️ といった感じでした。 じゃあ行くしかないじゃんと。 まずは、デ・キリコ展。 人はそれなりにいて、人気があるなと。 説明文を読むのはなんだか嫌なので、絵だけ集中して見る。 デ・キリコさん、
なぜ、今羅生門か? 周りで起きていること、世間で起きていることを見て感じて今こそこれだと。 ざっくり内容を説明すると、 『主人公の身分の低い男(下人)が数日前に主から仕事を首になる。 羅生門という門で雨宿りをしていると、そこには飢餓で亡くなった死体だらけ。 その死体から、髪や衣服等を取っていく老婆。 主人公は正義感からその老婆を突き飛ばし、老婆に話を聞く。 老婆は、追い剥ぎをしないと生きていけない。さらに言えばこの死体は生前に悪さをしていると。 主人公は、それならばお前から
考えるdayがたまにあります。 まさに今日がそんな日で、内省による内省。 ディープインパクト。 何か大義を持って生きてきたがします。大義名分というか、言い訳というか。 かなり違う言葉ですが、何かそういうモノに左右されすぎていた気がするのです。 本当はそんなこと気にせず生きていればいいのですが、それができなかった。というか、自然とそうなっていた。 もういいかなと。 もっと目の前のことをしっかりと見ていくことが今は大切なような。 足るを知る。行雲流水。 とにかく流れてみる
身体の痛み、心の痛み、潜在意識の痛み。 生きているということは様々な痛みを日々受けている。 無痛はたぶん無理で、あーでもないこーでもないと言いながら痛みを和らげたり、癒したりしている。 痛みに気づけているうちはまだいいんですが、気づかない痛みは恐ろしい。 ジワジワと、1回の量は少ないが蓄積はされていく。 対処が上手い人は、毎日治す術を持っている。 下手な人は気づいた頃には何かしらの不調が出ている。 不調が出た時点で少し遅い。 戻すのには時間がかかる。 人は連続するもの
いろいろな群れがあり、ある程度の道筋があって各群れはそこを目指して進んでいきます。 ある群れはオアシスへ。 別の群れは食物の宝庫へと。 途中からふとしたきっかけで群れからはぐれてしまう個体がいます。 その個体は肉食であれ草食であれ、基本的には野垂れ死ぬことでしょう。 ですが、人間はどうでしょう。 群れからはぐれた人はどうなっていくのでしょうか? すぐには死ぬことはないかもしれませんが、いろいろなものに蝕まれ消えていくことがあるかもしれません。 ただ、生き延びた個体
本当にもー。です。 なぜかって言いますと、結構いろいろなことをやってきて、「いったんこれでええじゃろう」と思っていると次の谷やら山やら川やらなんやらが来るわけです。 そんなに向上心とか野心が強いわけではないはずなのに、舞い込んでくるのです。 ある程度自分がコントロールできる範囲の中で生きているつもりなのですが、定期的に意図していない仕事や物事が湧いてくるとですね、元々ダルそうに生きてるワタクシからするとはぁ~んと始めは悶えるわけですね。 もっとやる気に満ち溢れた方々いる
いろいろとありますね。いろいろと。 思い出して、燃えカスになりたいくらい恥ずかしいこと、腹立つこと、悔やむこと…。 みんなあるはず。 皆、スネに傷ある身でしょうから。 師匠に言われました。 過去を呪ってはいけないと。 潜在意識がどんどん傷ついて、できない自分をより作り上げてしまうと。 ならばどうするか。 『あれはあれでよかったのだ』 これを言うのです。 毎日、毎日。 自分を慰めよう。許してあげましょう。 そしたら、ついでに他人も許してあげましょうよ。
自分の幸せをふと考える。 何に幸せを感じているのか。 他者に認められた時、思い通りに仕事が進んだ時などなど。 確かに嬉しくはあるが、幸せとは言い難いのかもしれない。 なぜかって、瞬発的なものだからなのかもしれない。 「どうだーっみたかーっやってやったぜー‼️」ではなくて、温泉にゆっくりとつかっているような感覚が幸せなんだと。 そう考えると日常にその状態をつくり出せていない。 何かに追われ、見られながらこなしていることに力を注いでいるような。 ゆえに何を目指しているの
ふと録画していたバラエティを観たんです。 この中で刺さった言葉がありまして。 伊集院光さんが、 「止まった時計でも、1日に2回は時間が合う」 いやースゴい。 しびれますよ。 仕事や行動、思想に当てはまることですよね。 今は注目されないことでも、コツコツと黙々と繰り返していると再注目、再評価されることがある。 そう思いながら自分のことを練り上げていくこともアリだなって、なんだか後押しされたような気がしましたよ。 注意点は、前後10分常にズレていると正常な時間と合う
もう1月終わろうとしていますが、今年初書きです。 新年からいろいろな方とお話をしているのですが、よく話すことをひとつ。 「苦労されてきたんでしょ?」「野心家でしょ?」みたいなことよく言われるんです。 確かに十代後半から30歳くらいまでは野心家であったかもしれません。 ですが、今は野心的なことってないかもです。 苦労はしていません。 私の周りにいる人は苦労したと思います。 なぜならば、常に私は転がっているからです。 立ち上がろうとすると躓き、そして転がっているから
仕事をしていると、何もかもを合理的に進めていく人がいるんですよ。 確かに、工数とか諸々を考えていくとそれがいいわけで。 感情とか関係性とか全部関係なく進めていけば確かに結果が出るのは速い。 そこで違和感を感じたんです。 こんなに機械的にドライにやっていくのは、果たして合理というのか。 なんだか、グルグルしていたんです。 そこでふと思ったのは、何と何が合わさったら理となるのか。 合理というからには、納得のいく合わさりがあるんじゃないかと。 悶々と考えた結果は、『道
思うことありて。 ただ、思うだけにとどまる。 思っているだけならば、それは夢幻の如くなり。 三千世界の鴉を殺し…。 いやいや、夢想していたのです。 考えに考え。 それでも、なにものにもなっていない過程です。 今日いろいろと話していて、期待はされつつも、まだまだ心の準備ができていません。 というか、踏ん切りがついていないのです。 どうか、どうか、待っていただけるなら待っていただきたい。 もすこしだけ。
物事は巡りめぐっていく。 良いときもあれば、普通の時、あんまり良くないとき。 周期なのか何かのトリガーなのか発動するかのように。 その時何を思っているかでその人の成長がわかるような気がします。 なるべくなら、良くない時がない方がとも思いますが、なきゃないで困るのでしょうね。
人には位というものがあるのでしょうか。 他人から見られる際に急に見られ方が変わったなと感じる時があります。 今までは同等かそれ以下。 なんなら、なめられてるなと感じるくらいの時も。 ですが、ある日を境に変わることがあります。 何をしたわけでもない。心当たりもない。これは自分の中の何かが変化したのかもしれません。 気をつけなれば。 良く見られている。意識的に上に見られていると感じた時こそ危険だと思います。 人間、ちょっとなめられてるくらいがちょうど良いと思います。