見出し画像

”おろかもん” ってこんなやつ!

勤続41年!

高校を卒業して、大阪の診療所で41年勤め
上げた。決して好きで入った職場ではない。

貧乏だったので大学進学なんて選択肢は
なかったし機械いじりが好きだったが、
工場勤めは重労働な割に儲かりそうもない
ので志望はしなかった。

遠い親戚のつてでこの職場に勤めることに
なったが好きなことが見つかったら、何時
でも辞めてやる!なんて考えていた。

とにかくどこでも良かったし、とりあえず
田舎から出たかった。

そんな気持ちで入った職場だったが、院長
ご夫婦の人柄や職場環境も良く、あれやこ
れやで41年勤め上げての退職となった。

職場的にはまだまだ働いてもらっても良い
と言ってもらったが院長ご夫婦が亡くなり、
自分の両親も、妻の両親もすでに他界
した今、死という事を身近に感じるよう
になった。

これからの人生、どう生きていくのか?
自分はどう生きていきたいのかを真剣に
考えるようになった。

そして、子供の頃は嫌だった田舎の暮らしが
歳を重ねるごとに懐かしく思われ、いつしか
憧れとなってがどんどん重みを持ってきた。


決断するなら今だと!



何故、田舎暮らし?


私は元々、田舎育ちだ。京丹後市の小さな
村の生まれだ。

少しの田んぼを持つ兼業農家に育った。
藁ぶきの屋根、家の中に牛小屋があった。
鶏も飼っていた。ヤギも飼っていた。

母は乳の出が悪かったので、私はヤギの乳
で育ったとよく聞かされたものだ。

ご飯やお湯はカマドで炊いていたしお風呂

も当然五右衛門風呂だ。
水は井戸水。家の中にも井戸が有ったし、
外にもう一つ井戸を掘るとのことで、それを
手伝ったこともある。

田舎では何もかもが自分たちでやる。
しかし今になって思えば貧乏だったから
自分たちでやらねばならなかったのだ。

野ウサギを飼っていたこともある。
それは食べるために山に仕掛けを作って
とらえたものだし、鶏肉も飼っていた鶏だ。

米以外にもいろんなものを畑でつくていて、
こんにゃくも、味噌も自家製だった。

春は僕たち子供も、野山に出かけてフキや
ゼンマイを採ってきて小遣い稼ぎをした。

小遣い稼ぎと言えば秋は松茸、そして毒蛇
のマムシはマムシ酒の会社が1匹千円ほどで
買い取ってくれて良いお小遣いになった。

夏にはよく海にも行った。そこでは海水浴
と言うより貝を獲るのが目的の漁だった。
子供心にも収穫が多いのは嬉しくもあり楽
しかった。

兼業農家なので春は田植え、秋は稲刈りと
忙しく家族総出で作業した。
母親が作ってくれたおにぎりを田んぼで皆
で食べるのはとても楽しい思い出だ。

しかし、小学4年生ぐらいになると、日曜
のこの時間、友達は遊んでるんだろうなと
思うと、農作業が嫌で嫌でたまらなかった。

早く友達のところへ遊びに行きたくなった
ものだ。

子供と言えばおやつだが、買ったおやつは
まれで、自然の物で食べられるものは
大概食べたんじゃないかな!

花の蜜に木の実や果物、夏はキュウリや
ナス、トマトもおやつ代わりだ。

とにかく子供の頃の生活は周りの
自然との関わりだった。


   

親の遺産


貧乏な家庭だったから金銭的な遺産はほ
とんど無い。

ただ一つ父親から受け継いだかなと思う
ものは器用さだろうか。

父親は大工になりたかったらしいが、
長男だったので農家を継いだ。

農家と言っても小作だったので農業
だけでは食べて行けず暇な時期は大工
の手伝いや、土方の仕事にでていた。

その経験をいかして家の改築はほぼ
父親が手掛けた。

藁屋根はトタンで覆われたし、牛小屋
は農作業の器械小屋なった。
カマドが無くなってシステムキッチン
が設置され、子供部屋も増設された。
全て父親が一人でやっていたと思う。

そんな父親を見てきたせいだろうか、
いつしか自分にも出来るんじゃないか?
やってみたい。と思うようになった。


   こんな子供


子供の頃から工作は好きだった。竹とんぼ
を作ったり、凧も竹ひごからつくってた。

独楽とかの小物から、竹馬は3mぐらいの
高さの物を作って遊んでいた。

けっきょくは貧乏で玩具とか買ってもらえ
ないから自分たちで作って遊ぶしかなかったのだ。

一時期、時計の分解にはまった。
動かなくなったゼンマイ式の目覚まし時計を
分解、改造して振り子時計にしたり。

近所から壊れた柱時計をもらってきて
修理したりもした。

それから手作りスピーカーが流行った時も
まっ先きに飛びついた。

夏は川遊びがメイン! 近所のお兄さんが
持ってた水中銃に憧れて塩ビパイプでそれ
らしき物も作ったこともある。

父親に似てか子供の頃から何でも自分で作っ
てみたくなる性格だ。


バイクと私

高校は田舎の公立校の機械科を卒業した。
バイが好きで高則を破り中型の免許を取得。

裕福でなかったので雨ざらしの中古バイク
を3万で買ってきて、自分で整備して乗り
まわしていた。

内向的だった私をバイクは外向的なほうに
向けてくれた。

バイクで走っていて、知らない道から知っ
てる道に出たとき「あ~、道って繋がってる
んだ!」と、当たり前のことなのに感動した
ものだ。

大阪に就職のために出てきた私は、生活が落
ち着いてくるとやはりバイクが欲しくなり、
近所のバイク店で初めて新車の中型バイクを
買うことになる。

そして、店長のおじさんに勧められツーリン
グクラブにも入った。

そういえば今までバイク仲間はいたが独りで
走ることのほうが多く、大勢で隊列を組んで
走るのは新鮮で気持ち良かった。

大阪に友達は少なかったのがいっきに楽しい
バイクライフへと変わっていった。
その仲間とは、バイクを離れた今でも続いて
いる。


機械好きが何故か看護師に!


大阪での就職は高校3年の春にはもう決め
ていた。
就職先の診療所では働きながら学校にも行
かせてくれると聞いていたので放射線の専門
学校でも行こうかな?と考えた。

しかし頑張ることが嫌いな私は受験勉強に身
が入らず落ちてしまう。

でもそんなに落ち込みもしません。
もともとその資格を取りたかったわけではなく
医療関係の国家資格はなにか?と考えて思い
ついたのがそれだっただけのことだ。

結局1年間は仕事に専念。
そして一年後、さあどおするか? 

結果から言うと、眼鏡士の専門学校と看護
学校を受験し受かった。

しかしここでも乗り気のしない私はどちらも
行きたくないと思っていた。

だが、周囲からの説得で職場にあまり迷惑
かけずに、授業料も安いという理由で看護
学校に2年間行くことに決めたのだ。

いざ看護学校に入学してみると、70人の
クラスに男は私一人だったんです。

男は少ないだろうとは想像はしていたが!
でも、誰もしていないような経験も一度は
いいかな!と開き直って前向きにとらえた。

友達には、めっちゃモテるやろ?と言われま
したが逆に孤立していましたね。

私達は大概、病院などに就職していて、午前
中仕事、お昼に学校に来て授業が終わったら
また仕事に戻る。

こんなライフスタイルなので一般的な学生の
ように授業終わりでデートとかはありません。
全くないわけでは無いですが・・!

クラスメートのなかには中卒の子から30代
のシングルマザーまで幅広くて、どちらかと
いうと年配の方がよく話しかけてくれて助か
りました。

先生方にも余計な気をつかわせてしまったん
じゃないかな?


看護師は女性の天職!


40数年この世界にいて感じたことは
看護師は女性の天職だということです。

私が女性に就職のことで相談されたら
迷わず看護師を勧めます。

その理由は下記です。

* 一生働ける
* 収入が安定している
* 転職が容易


私のクラスメートに茶髪でチャラチャラした
女の子がいました。私の苦手なタイプです。

その彼女と実習が同じ班になりました。
そして私は見たんです。彼女が笑顔で献身的
に下の世話をする姿を!

なのに私の中にはどうしても躊躇してしまう
自分がいたのです。

やはり白衣の天使は女性が似合う!
そう確信したひとコマでした。


老 後 の 夢


私は釣りも好きだ。
若いころはボケーっと何もしないで過ごす釣
りを時間がもったいないと思ってしていなか
ったがバス釣りに誘われてから釣りが好きに
なり、その後、バス釣りから海釣りへと変わ
っていった。

そんなこともあって、将来的には海の近くの
田舎に住みたいと思うようになった。

古家を自分でリノベーションして、井戸や
囲炉裏も設置して、なるべくエコな生活を
心がける。

電気も自家発電が理想。
食料確保はできるだけ自然からが目標。
お米は買います。お米作りの大変さは身に
沁みてます。

どこまで出来るかはやってみないとわかり
ませんが考えていると、いろいろ空想が膨
らんで楽しくなってくる。

ワクワクしてきますヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?