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◆読書日記.《原田敬一『国民軍の神話 兵士になるということ』》

※本稿は某SNSに2020年11月11日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 原田敬一『国民軍の神話 兵士になるということ』読了。

原田敬一『国民軍の神話 兵士になるということ』

「近代」になってから発見されて世界中に多大な影響力を及ぼしたイデオロギーの一つはなんといっても「国民」という発明だろう。

 国家組織にとってこれほど便利なものはないかもしれない。その「国民」をどうやって作るのか? その方法を探る一冊が本書である。

 というのも「近代」以前に「国家」はあったとしても「国民」なんてものはなかった。

 これは政治史や戦争史を紐解けば分かる事実だ。

 近代以前の一般庶民にとって「守るべき国土」や「国を愛する心」等というものはなかった。
 何故か?
「国」や「国土」というものは、一般人にとって「自分のもの」ではなかったからである。

 この辺の事情はロジェ・カイヨワの名著『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』に詳しい。
 ざっと説明すると、近代以前の中世、特に封建社会での「国」は誰のものかと言えば、支配者や支配階級のものだったのである。
 つまり、土地を耕す農民や畜産農家といった人々の土地は基本的には領主のもので、自分達のものではなかった。

 農民や商人や職人といった一般人にとって、元々自分のものでもない土地を守ろうなどという考えはないし、実質的に土地を守る力もない。
 つまり、領土というのは支配者の財産であるから、支配者(=貴族)が戦士として奪い合いを行っていた訳である。

「国民軍」が作られるのは、フランス革命によって一般庶民が国から貴族を追い出し、貴族らに変わって自分たちが自分達の土地を守らねばならなくなってからだった。

 そういった要請に従って、土地を共有するグループとしての「国民」という意識が作られてきた。
 明治政府は急速な「近代化」を勧めるために、明治に入ってからこの「国民」イデオロギーを西洋から国内に移植してきたのである。

◆◆◆

 本書では、明治政府がどのようにしてこの「国民軍」を作ってきたのか、その方法を「兵士に成る」「健康と衛生」「死ぬということ」の三章に分けて詳しい資料を提示する。

 この「国民軍」を作り上げる過程で、日本にも段々と近代的なイデオロギーである「国民」という意識が芽生えていったのである。

 本書の特徴は、著者の思想的な部分は極力抑え、具体的な資料を提示する事で「思想的価値」というよりも「資料的価値」の高い書籍となっている所であろう。

 本書で提示されるデータは思想的に言えばミシェル・フーコーの「規律権力論」そのものであり、ぼくは本書の客観的データをフーコー的に読ませてもらった。

 本書の著者も言っている事だが、「兵士になる」イコール徴兵され、軍に入隊してから内務班にて多くの人間と寝食を共にしながら兵士としての訓練を受けるという事はある種の「教育」だという事は間違いない事だろう。

 軍隊は学校や病院と同じく、まさしくフーコーが説明している規律権力の内のひとつであった。

 学校でも軍隊でも、多くの人間が同じ時間に起床し、同じ時間に同じ食事を共にし、同じ訓練を受け、同じ時間に就寝するという固定されたライフサイクルを共有するという事は、人々にある種の「同質性」を与える事になるのである。

 まず、人々は決まった時間に起床しなければ、それを「寝坊」と捉えるようになる。

 徴兵された多くの一般兵は農民だったが、彼らは自分の畑の都合や気候によって起床時間を変えればよかった。
 だが著者は「兵営生活でこうした青年が学んだのは、時間だった」と説明している。
「兵営に在りし其日を思ひ起しバッと跳ね起き野良に出にけり 尾張在郷 浅井蓮城」等という短歌も紹介している。

 村に戻った青年たちの脳裏には就寝時間に関する意識も働き始めている。

「今頃は消灯喇叭鳴る頃と洋灯を消して床に入るかも 在郷 US生」等という短歌もあるそうだ。
 軍隊では規律正しい行動を求められるために、このように行動が管理される。軍隊での訓練というものは斯様に軍隊の規則を身体化し、同質化させる事でもある。

 大西巨人の長編小説『神聖悲劇』では、陸軍の内務班での生活ぶりを詳細に描写しているが、その中で兵士たちは口頭報告で「あります言葉」を身につけさせられるシーンがある。
 軍隊では下士官に命じられれば「〇〇二等兵、〇〇しました!報告終わり!」等といった口頭報告をしなければならないのだが、それらを、それぞれの郷のそれぞれの土着の訛りの強い言葉で報告する事は許されていない。
 ここでテレビもラジオも普及していなかった時代の農村や漁村の青年たちは初めて「標準語」を教えられ、それを身につけるように訓練される。

「共通の言葉を身につけさせる」というのも一般人に「国民」というイデオロギーを生まれさせる強力な要因となる。

 また一般兵は入営してから軍人勅諭や戦陣訓、その他様々な内務規定等を暗記し、時おり下士官の前で覚えたかどうか抜き打ちで暗唱させられる事もあったと言われている。
 これによって徴兵された者だったら誰でも知っている共通した「思想」が植え付けられるようになる。

 特に軍人勅諭なんかは将兵全員が全文を暗唱する事が当然とされてきたもので、それは例えば忠節・礼儀・武勇・信義・質素などを説いた「武士道精神」が書かれているものであった。
 これによって農民であろうと商人であろうと「一億総武士化」が進められ、庶民や農民までもが忠君愛国などと言う様になった。

 つい先日、山村基毅『戦争拒否 11人の日本人』にて徴兵についてあれこれ呟いたが、この徴兵制度も一般庶民を「国民」に作り替えるための仕組みが備わっていたのだという事が本書のデータで読み取れる。

 徴兵についても明治~大正期あたりはまだ兵役忌避者などは多く、徴兵検査で詐病を見分ける方法を軍医があれこれ試行錯誤していたのだそうだ。

 また、徴兵検査で合格になった者の中でも実際に入営して兵役訓練を行う者も、平時には合格者のうち20%程度しかいなかったとも言われている。
 平時の場合は甲種合格者(トップ合格者)のみが入営していたというそうで、これによって一般庶民は「選別」されていた。

 徴兵検査では上から甲・乙・丙・丁とランクが決まっていたので、これは今で言うならば例えば「優・良・可」の成績が発表されて「優」合格者のみが国から「心身ともに健康優良」という評価を与えられたという事となる。
 クラスでも成績優良者が表彰されるようなもので、国の隅々まで全員が「優劣の評価」を決定されるという事態であった。

 入営すれば身の回りのものや食事は国から支給され、その上で給与も与えられる。
 下士官に気に入られた者は兵卒の最高位である上等兵に取り上げてもらえる事もある。
 このように徴兵検査で合格し入営した者の中には、その給与を元手にして自分の夢をかなえたり、新たな事業を行う者も出て来るようにもなった。

 例えば本書で出て来るのはプロレタリア作家・徳永直の回想記風小説『最初の記憶』にて、二三反歩程度の小作農家が戦争出征を機に自営業へ転身するエピソードが出てくる。
「私の家に馬が来たのは、父が日露戦争に出征して貰った一時賜金の百五十円を資本にして荷車業を始めたからであった」とある。

 また和田伝『村の次男』にも以下のような描写があるという。

「三男の叔父は、甲種合格で兵隊になると上等兵になり、深い考えもなく序でに再役志願をして軍曹になった。そして三百円の恩給取りになってから彼は村へ帰ったが、帰ると軍隊で覚えた電気の知識で、村の外れた電力の精米製粉場をたて、粉屋になった」

 土地を相続できない貧しい農家の次男や三男坊にとっては、兵役はある種自分の道を切り開く一つの手段になっていたのかもしれない。

 そういった事情もあってか、入営してからの初年兵の訓練という過酷なものがあったというにも拘らず、徴兵されるという事は庶民の間では「めでたい事」という風になっていったようだ。

 このように兵役というものは身分の差に関わらず人々を平等に同じ規律の下に同様のイデオロギーを植え付け、繰り返し訓練する事によってそれを内面化させていくシステムとして機能しているのである。
 つまりは大日本帝国の領土内にいる一般庶民を「同質化」させ「国民」というものを形作る装置として機能していた。

 それがつまりは、単に「教える」のではなく、繰り返し訓練させて習慣化させる事によって、その組織の性質を構成員に「内面化」させる、というタイプの権力――「規律権力」というものなのである。

 本書は大日本帝国がどのようにして一般人を「国民化」させたのか、というのを細かい資料を提示する事によって「国民軍」のなりたちから考えさせてくれる、非常に興味深い一冊となっている。
 しかも、本書は上述したように「思想」的な部分についてはあまり触れずにサッと流す程度にしか書いていない、クールな視点で資料にあたっているスタンスも良い。

 吉本隆明も言っているように「国」というものは「共同幻想」でしかない。
 それと同じように「国民」というものも、日本の政府機関が明治から作り上げてきた「幻想」にすぎないのである。

 本書はそういった「国」の幻想性、イデオロギーの性質を示唆して優れた資料として貴重なものではないかと思うのである。


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