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◆読書日記.《ジャック・ブノア=メシャン『庭園の世界史 地上の楽園の三千年』》

※本稿は某SNSに2019年9月24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ジャック・ブノア=メシャン『庭園の世界史 地上の楽園の三千年』読了。

ジャック・ブノア=メシャン『庭園の世界史 地上の楽園の三千年』

 フランス人ジャーナリストが庭園芸術について語る。グラナダのアルハンブラの庭を見た著者は、再び庭園芸術が持っている深い意義を書き留めておかなければならないという情熱に掻き立てられた。今こそ「庭の神話学」を纏めるべき時だと。

 うーん、ぼく的にはちょっと期待外れだったかな。
 ぼくとしてはもっと学術的な内容か哲学的な内容を期待していたのだが、本書は著者が興味を持っている世界の庭について語る「知的エッセイ」くらいの度合いの内容だった。

 だって「庭園の世界史」ってタイトルなら、そんな感じを思い浮かべるじゃない?
 だが、これを学術的な「庭園の世界史」と言うには、その取り上げている作品の歴史的な経緯の選び方がMECEではないし、語り方も偏りが感じられる。古代の庭や中国の庭についてはあまり熱心ではないし(笑)。

 それに対してフランスの庭については本書の約半分を費やしている。
 これで「世界史」という触れ込みだというのは、ちょっと頂けない。
 パリ生まれのフランス人である著者の贔屓目がちょっと強すぎるのでは?と思ってしまった。

 だがそもそも本書の原題は『人間とその庭、あるいは地上の楽園の変容』だったので、これは「世界史」なんてアカデミックなタイトルを付けた編集者のミスだったのかもしれない。
 これじゃ、学術的な本だと思っちゃうでしょ。

 本書では庭園における著者なりの芸術観である「庭の神話学」を提示している。
 それは庭というものは「ひとが心に思い描く至福のすがたを表現せんがため」に作られるものだ、というテーゼにある。

 この「至福のすがた」には、それぞれの民族の持っている宗教観の中の「天国/浄土/天上」の考え方が入り込んでくる。

 著者の主張としては、庭というのは「現生で失われてしまった天上の園を追い求めるものとしての人工楽園の構築」を目的とするものだという。
 庭はその民族の持っている「天国」観の表れであり、その民族が「天国」的な場所というものをどう考えているのか、という思想が込められているものだというのである。

 著者はこの野心を持ったのは「ただ六つの民族」のみと考えていて、それは「中国人、日本人、ペルシア人、アラブ人、トスカーナ人、フランス人」だとして、その他の庭を認めていない。
 特に英国式庭園は全否定していて、イギリス的な風景式庭園を「反庭園」「偽庭園」だとまでこき下ろしている(笑)。

 訳者の解説を見てみても、日本の庭園に関する記述にいくつか勘違いなんかもあるそうで、そういう面でこれを「学術的」と言うにはムリがある。
 もうちょっと読感をライトにして、本書の写真も担当していた横山正の写真を前面に、そこにブノア=メシャンの文章を添えるエッセイ/写真集にしたほうが良かったと思う。

◆◆◆

 西洋はなぜああも自然に対して敵意のようなものを抱きやすいのだろうか?

 地震や台風や洪水などによって絶えず自然の脅威に晒されている日本ほど自然災害に見舞われているわけでもないのに、西洋の科学や芸術や哲学を見ると、時折なぜか自然への敵意のようなものが垣間見えるのだ。

 例えば西洋の建築観は「家は自然の脅威から身を守るためのシェルターである」という考え方があるし、農業や庭など自然との関わり方についても「自然を完全に支配下におく」という強い意志が感じられる。
 科学も、自然界の法則を学んで利用する術とする発想は「自然の中の力を制御する」という思想が見え隠れする。

 西洋の作庭思想に「自然を完全に支配下におく」という考え方が見え隠れするのには理由がある。

 例えばその作庭方法として「幾何学」を導入した点である。

「フランスの庭にはもうひとつ、他の国々が見習ってよい「スマート」さがある。それは「方形」と「矩形」の組み合わせによって示されるところの洗練である」

 ――と『庭園の世界史』の著者ジャック・ブノア=メシャンは語る。

 無論「方形」や「矩形」などの幾何学的な形態は自然界には存在しない「人工」的な形だ。

 自然を人工的な形に成形することにスマートさを覚えるというのはまさに西洋人的な考え方ではないか。

ヴィランドリ城の庭

 上の画像はフランス一の名城と言われているヴィランドリ城の庭で、この庭の持ち主だったカルヴァルホ博士の言葉が、一部本書に引用されている。

「――よく自然は人間のためにこそ存在するといわれます。それは聖なるものに属する人間の知を魅惑し、人間や獣の生きる糧を保証するものです。しかし庭と言えるのは、人間の尺度で作り直されたもののみです。この素晴らしい幾何学的な庭は、イギリスの友人たちの目にはひどく不自然に映るかもしれません。しかしそれがもっとも『人間的』なのです。私は尺度の点ではこれはヨーロッパでもっとも人間的な庭であると言いたい。」

 この言葉でも分かる通り、フランス庭園の芸術観は、自然に「人間的な美」を押し付ける事にあると考えられるだろう。
 つまり、気まぐれでカオティックな自然を、人間的な秩序の型枠にはめて整然と「人間的な美」に従属させる事を目的としているのである。

 もう一つ、『庭園の世界史』の著者の言葉を引用しよう。

「――定められた軸線をもとにした構成が庭にもたらした美については、いくら誉めても誉めすぎるということはない。(略)それはたんに空地が森に対して決定的な勝利をおさめ、森が従属的なものとなったというだけのことではなかった。それは人間の意志が自然の気まぐれに打ち克ったことを意味するのである」

――つまりは、フランス庭園の整然と幾何学的に作られたあのスタイルは、「自然に対する人間の勝利」を意味していたのである。

 著者の挙げている本書のテーゼにもある通り、庭が「ひとが心に思い描く至福のすがたを表現せんがため」という目的のためにあるのならば、フランス式庭園というものには「人間的な美」こそが「ひとが心に思い描く至福のすがた」であるという意識が反映されているものなのだと言う事なのだろう。
 それがフランス式の美意識なのだ、というのが著者の考え方なのだ。

 自然の中にも「黄金分割」という法則を見出し、建築でも庭でもシンメトリ構造に「美」を見出すという、古代から見られる西洋的な美の表現の仕方を考えても、確かに「自然に対する人間の優位性の主張する意識」というものが、西洋にはあるように感じられる。

 このようにフランス式の美意識には、庭に対しても芸術に対しても自然へのリスペクトを失わない日本的な美意識とはまるで正反対にある「自然に対する人間の勝利」に基づいた考え方が存在しているのかもしれない。


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