◆レビュー.《田中征爾監督『メランコリック』》
※本稿は某SNSに2022年2月11日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
2022年3月9日までギャオで無料公開されている田中征爾監督の映画『メランコリック』見ましたよ♪(※現在は配信終了)
2019年にアップリンクの配給で公開された映画。アップリンクはこういうマイナーな映像作品を出してくれるところがエライ。
監督の田中征爾は本作が初の長編映画だという。製作費300万円の低予算映画で、しかも撮影期間はたったの10日間という。
しかも、この作品で監督の田中征爾は第31回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ部門」で監督賞を受賞している。
『カメラを止めるな!』を思わせるような、気鋭の映像作家による意欲的な低予算映画である。
<あらすじ>
主人公・鍋岡和彦は東大を卒業していながら就職せずバイトを転々とし、今現在は無職になってしまってうだつの上がらない日々を過ごす若者であった。
まともな職に就いていない事については多少の負い目がありながらも、両親も「仕事は急いで決めなくてもいい」と優しく言ってくれているので、さほど深刻な悩みとは考えていないようである。
ある日、和彦はひょんなきっかけで近所の銭湯に行く事となる。
その銭湯で偶然、高校時代の同級生・副島百合と再会する。
嬉しそうに和彦に話しかけてくる百合といろいろと話すうちに、彼は百合から同窓会に参加するように誘いを受けた。
和彦はあまり乗り気ではなかったが、あまりに百合が積極的に勧めてくるので行く気になる。
しかし、陰キャの和彦は、同窓会に参加してはいいものの、その華やかな雰囲気には溶け込めず、一人会場の隅っこで肩身の狭い思いをしていた。そうこうしていると、会場で百合が和彦を見つけ、話しかけてきた。
「あの銭湯、バイト募集してるから働いてみたら?そしたら私ともちょくちょく会えるから」
――和彦は、銭湯のバイト面接を受ける事に決める。
果たして、銭湯のバイトにはあっさりと採用される事となり、和彦はその銭湯で働き始める事となる。
しかし、彼はある夜、目撃する事になる。
営業時間も終了した後、この銭湯に近所では見た事もない怪しげなライトバンが入っていった。
気になった和彦が銭湯の裏口から中に忍び込んで何が行われているか見てみると、そこには驚愕の光景が展開されていて――
……というお話。
<総論>
先に全体的な結論を書いておこう。後でネタバレも書くと思うので。
一言で言えば「荒唐無稽」である。
マンガのような設定。マンガのようなキャラクターの薄っぺらさ。マンガのように無責任なテーマ性。全体的に俗っぽいファーストフード感があふれ出ている。
しかし、その分ウェットではない。
人間の関係性が日本文学的な湿っぽさを感じさせない。主人公は非常にネクラで典型的なコミュ障ではあるものの、それがジトーっとした作品の暗さにはつながっていない。
何故か? その理由の一つとして考えられるのは、この主人公には、色々と世間的な執着や人間的な葛藤など、とにかく「強い感情」「強い執着」「強い動機」がないという特徴があるからかもしれない。
何となく生きて、何となく流されるまま流される。
で、その弱さを「それでいい」とするのが本作の結論でもあるかのように、この主人公のこの生き方は、作品の中では決してマイナス評価とはなっていないかのように働いている。
これは、なかなかない面白い「味」となっているのかもしれない。
ヤクザがらみの殺人を取り扱っていて、それでいて湿っぽい暗さ、重さを感じさせず、テンポも雰囲気も軽快でさえあり、2時間を感じさせない「軽み」が良いとも言える。
上に書いた通り、良くも悪くも「ファーストフード感」なのだ。
このような雰囲気を支えているのは、ひとえに本作の演出のセンスの良さと役者の演技の巧さという所にあるのかもしれない。
これは本当に、300万円の低予算映画としては褒めるべきクオリティで作られた作品だと言えるだろう。
……という所までが、本作で褒めるべき点である。
が、ぼくはこの映画を見ていて、その頭の悪さ、人を人とも思わない倫理観の欠如に胸糞が悪くなるような思いがしたのである。
「低予算の長編映像作品」としての「品質」は優れているものの、「脚本」は壊滅的に悪い。
コメディとしては笑えないし、ブラックジョークとしても倫理的に問題がありすぎて趣味が悪い。サスペンスとしては迫力がないし、アクションもヘタ。クライム・ドラマとしては子供が想像力だけで書いたようなデタラメさで決定的にリアリティに欠ける。青春映画として見ても、頭がお花畑すぎて学生が書いた作文のようだ。
「ヘンな映画」というのは、間違いないだろう。
"何も考えなければ"エンタテイメントとして楽しめるのも間違いないだろう。
だが、通常のレベルで頭が働く大人がこれを見て絶賛する、というのはありえないのではないだろうか。
――実はぼくは、この映画を見る前にあらかじめネット上の多くのレビューが概ね高評価だったのをチェックして、それでいて期待して見たのである。
だが、見終わった今、そういった多くの人たちのレビューを読み返してみて、ぼくの感じ方とのあまりのギャップに愕然としているほどなのである。
ハッキリ言って、この作品を見ていてかなり辛辣な事を言わざるを得ないほど、ぼくはこの作品の脚本の作りに胸糞の悪い思いをしたのだ。
そう思った根拠は何か? それについては以下、ネタバレレビューにて詳説していく事とする。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆注意!以下ネタバレあり!◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆注意!以下ネタバレあり!◆◆◆◆◆◆◆◆◆
<ネタバレありのレビュー>
まず主人公の「東大出」という設定が生きてない。
これは、単なる「プライドの高い若者」であっても大して変わらない。
無職なのに、いろんな人から「東大出たんだよね?」と尋ねられる憂鬱さが多少、主人公の鬱屈とした感情を引き立てているくらいなものである。
しかしこの主人公、状況判断が甘すぎるのである。
「死体処理」なんて危険な事やって、多少のお金貰えたからって上機嫌になる? その血塗られたお金で大好きなカノジョさんを初めての高級料理店に誘う? 気軽に人が殺せる人たちと仲良くなっていく事に何の疑問もわかないの? そんな犯罪に加担していく事に「安住の地を得た」かのような満足感を得てその先は何も考えなかったの? そういう人たちとの仲を深めていく事でこの先にどんな事が起こるか想像もできないの? ヤクザ絡みの最上級にヤバイ仕事を請け負っているのに、この後もずっとカタギのままで生活していけるとでも思ってたの?……と。
こんな事は「いっぱしの大人」でなくたって、少々の世間的常識があれば分かる事だ。
もっと言えば「世間的な常識」がなくったって、多少の頭が働けば分かる。
この映画を見ていると、そんな程度の事さえ分からない主人公の事が「本当に東大出の頭のいい青年なのか?」と疑問に思えてきてしまうのだ。
まあ、実際は「頭の悪い東大生」なんてのはザラにいるであろうが、この場合はフィクションとして主人公の「東大出」という設定が足を引っ張っているのである。
◆◆◆
この主人公の設定については、上に見たようにかなりの欠陥があるように思われる。
ぼくは<総論>で、この主人公は「色々と世間的な執着や人間的な葛藤など」がない人間だという事を書いた。
この主人公の性格設定は「ヘン」なのだ。
整合性が取れていない、ともいえるかもしれない。
まず、初めての人間の惨殺死体を見ても、怖がりも騒ぎもせず呆然とするばかり。
人の死体を焼いていても特に感慨もない様子である。
初めて知人の松本が人の首を絞めて殺している所を見ても、じっと見つめているだけ。
他人の「死」に関して、多くの映画で扱われる「死」よりも、この主人公の反応は、薄いのである。
こういう所が、本作の「マンガ的」な所だろうと思う。
殺人処理……という陰惨な犯罪を描いているというのに「殺人を扱っているのにグロさを感じさせないところがいい」と無邪気に褒めるレビュアーがいるのも、こういう「マンガ的」な所があるからなのだろう。
人殺しによる「惨殺死体」というのは、病死した人の死体とはわけが違う。
ご遺体を釜に入れて焼く仕事も葬儀屋とはわけが違っている。
人体が原形をとどめないくらいにまで徹底的に焼かないと「証拠隠滅」にはならないのである。
人の脂とタンパク質と髪の毛の焼けるイヤな匂いも出てくるだろう。
そんな異臭の中で、どの程度人体が焼けたか、何度か状態を見なければならなかっただろう(良く焼けるようにひっくり返したり、効率よく人体を焼くには人体を細かく切断する必要もあったかもしれない)。
このプロセスも、やっている当人は相当にグロい処理をしている、というのは見ていて想像つかないのだろうか?
ましてや主人公は、小寺さんという風呂屋の先輩社員の殺人者を炭にするまで焼いているのである。
生きて、自分と喋っていた人間が、自らの手で物言わぬ炭にするという事がどういう事か、この映画はその「重さ」をわざと感じさせないように「軽く」見せているのである。
この主人公にはもともと「グロ耐性」があったのだろうか?
いや、この青年がそういうものに興味を持つような情報というのは、一切この作品内には描かれていない(自分の本棚に『ハリーポッター』全巻を入れているような朴訥とした趣味である)。
他人が目の前で殺される時(松本がホースで対象者の首を絞めている時)も、全く何の感慨もわいている様子ではなく、ただ単にじっと見つめているだけ。
……とはいえ、この青年がそんな薄情な人間であるというわけでもなさそうだ。
単純に「他人の命なんてどうでもいい」というタイプではない。
「殺し屋」の松本に対しては、義理堅く命を救おうとする場面さえ出てくるからだ。
この主人公の青年は、ただ単に「自分に関わりのない人間の命」に、全くこだわりがないタイプなのだろう。
例えば本編のラスト、ヤクザものの「田中」の殺害については、むしろ最終的には積極的に協力しようとするほどである。
これは「田中」が、それまで「自分に関わりのない人間」だったから、初対面で初の殺しであってもトリガーを引く事ができたのだろう。
――これでは、最近のマンガ文化にもよくみられる「モブの命は紙よりも薄い」的な感覚そのままではないか。
犯罪に対するハードルが、異様に低い。
「人殺し」に対するタブー感が、異常に薄い。
通常、人間というのはそんなに割り切れるものだろうか? それとも、最近の若い世代というのは、その程度の倫理観しかはぐくんでこなかったのだろうか?
――少なくとも、本作の主人公における「他人の命に対する想像力の低さ」というのは、確実に本作の監督・脚本を務めた田中征爾自身の「他人の命に対する想像力の低さ」を物語っているという事は間違いないだろう。
◆◆◆
本作の特徴のひとつは、こういった主人公の「倫理観の"壊れ方"」が、さも問題ないかのようにサラっと書かれている所にもあると言えるだろう。
本作を称賛している人というのは、例えば「人殺しを扱ったサスペンスを、グロくなく、テーマ性の重々しさもなく、カラッと気軽に楽しめるエンタテイメントにして、説教臭くない人情噺にしてくれた」……といった「短絡的な楽しさ」を思考停止的に楽しんでいるのではないだろうか。
「難しい事は考えず、目の前の快楽にだけ集中し、享受せよ」
ある意味、これが本作のエンタテイメント的なスタンスのように思えるのである。
この「思考停止を要請するスタンス」を象徴するシーンが、本作にも出てくる。
主人公の和彦が、殺し屋の松本と風呂屋で初めて共同で死体処理を行うシーンである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
和彦「何でこの人は殺されなきゃならなかったんだろうな……って」
松本「そんなこと考えてたんすか」
和彦「そりゃ考えるだろ普通……」
松本「いや……そりゃやめたほうがいいですよ。そんなんじゃ身がもたんっす。ただ何も考えず、こつこつと処理しないと……こういうのは」
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この後、和彦は風呂屋の主人の東にも「なぜこの人は殺されなきゃならなかったのか」と尋ねる事になるが、東のほうからも気にしないように言われる。そして「世の中にはいろんな犯罪をする人がいるからねぇ」と、何となくそれらの死人が何らかの犯罪に関わっていた人間だという事が仄めかされる。
――おそらく和彦は、これによってこの犯罪に加担する事に関するわだかまりが吹っ切れたのではないだろうか? 「どうせ死んだのは自業自得な人たちばかりのだろう」とでも考えて。
アカの他人の事情なんてあんまし考えないほうがいいっすよ?
ものごと深く考えて何の得があるんっすか?
深く考えないで何も考えずに仕事すれば、ちゃんとお金が貰えて彼女とも楽しいデートができますよ?
はっきり言ってこれは単なる思考停止だ。
おそらくこの主人公は、例えいま現実で問題になっている「振り込め詐欺の売り子」のバイトで犯罪に加担する事になったとしても、大して先の事まで考えずに、大金が手に入ったと喜んでカノジョをデートに誘うだろうし、「振り込め詐欺の電話役」でお年寄りからお金をかすめ取っても、詐欺グループの中に自分の居場所を見つけて仲間たちとの絆を深めていくのだろう。
和彦は、そういったタイプの「バカ」なのである。
なるほど、金さえ貰えば振り込め詐欺に加担する事にあまり抵抗感がないのも、最近の若い世代の特徴なんだと思うのならば、この和彦の行動も「今の若者を巧く表している」と言えるのかもしれない。
例え自分が犯罪にかかわっていたとしても、お給料と自分の居場所とやりがいさえ得られれば、バカなお年寄りからお金を巻き上げていたとしても、深く考えなければ、――本作のラストのモノローグのように「小さな喜びこそが幸せなんじゃないか」って思えるってわけだ。
ご立派な倫理観じゃないか。涙が出そうなほど、立派な倫理観だ。
本作は、そういった主人公の倫理的な「壊れ方」を相対化できていない。
主人公がこれだけの重大犯罪に関わっておいて、ラストはまるで一見「ハッピーエンド」にしか見えないような演出になっているからである。
まるで本作の監督は「犯罪に手を貸す? でも、それで自分が些細な幸せを感じられるなら、それも幸福のひとつじゃない♪」と言っているかのように。
斯様に本作の主人公は明らかに倫理観が「壊れている」し、善人でさえもない。
これだけの大量殺人に手を貸してきた犯罪者だという自覚さえも、主人公はないだろうし、あまつさえそれを映画の視聴者らにも感じさせないような演出がされているのである。
和彦は具体的に死体遺棄・損壊罪の「主体的な犯罪者」で、三年以下の懲役となる。だがこの場合、件数が多いのでどれほどの罪状が加わるか分からない。場合によっては殺人幇助が付く。
ヤクザ者の「田中」を射殺した殺人罪もある。
拳銃の所持・使用をした銃刀法違反にも問われる。
これだけの罪状が付けば、もう立派にニュースの一面に名前が出てもおかしくない重犯罪者だ。
これだけの事に積極的に加担しておいて「小さな喜びこそが幸せ」? まったく、趣味が悪すぎて胸やけしそうである。
◆◆◆
しかし、この手の若者の「小さな幸せ論」が最終的に破滅に繋がるという事を、本作を絶賛してレビューで「鑑賞後感は爽快な感じでした」とか「人生に何度か訪れる『この時間が一生続けば良いのに』と思う瞬間のために生きる。確かにそれで充分だよね」等と無邪気に書いているレビュアー連中は分かっているのだろうか?
まず考えられるのが、ヤクザや犯罪者らからの復讐である。
あの悪辣なヤクザ者の「田中」が、どんな組織とも利害関係のない一匹狼として働いているわけがない。
暴力団と絡んでいるかもしれないし、そういった反社会的組織の一因かもしれない。
ヤクザといった人種らは、自分たちの「シマ」を荒らされて、黙って諦めるような素直な人たちだとでも思うのだろうか?
しかも、松本は組織に所属しない一匹狼だし、和彦は単なる一般人である。
反社会的組織にとってみれば、仲間を殺された腹いせに、この2人を東京湾に沈める事というのは何らリスキーな事ではないだろう。
「誰がわしらのシマ荒らしたんじゃ!」「一緒に死んでた松の湯のオーナーの関係者か?」……くらいの短い展開で、のん気に「"死体処理請け負い場"松の湯」の後釜に居座っている和彦の元にヒットマンを送り込むだろう。
「松の湯」の釜で最後に遺体処理されるのは、和彦自身になるかもしれない。
あるいは、松本と東が危惧した様に、和彦の恋人の百合か和彦の両親がヤクザものに捕まって、和彦の目の前で拷問を受けるかもしれない。――この場合、ヤクザは和彦に「今まで通りこの銭湯を使って死体処理を請け負う仕事をするなら許してやってもいいぞ」という条件を出すかもしれない。それでも最終的に待っているのはこき使い倒されて捨てられるラストでしかないのだが。
警察の追求からも逃れられるとは思えない。
そもそも、松の湯の親父がヤクザ者と一緒に射殺されていれば、誰が殺しの犯人かその周辺が徹底的に洗われる、というのは警察捜査の常識だ。
ガイシャの関係人物には大抵捜査員が飛んで行って色々と事情を聴いてくるだろう。
「殺し屋」松本の経歴も徹底的に調べられるかもしれない。
裏社会に通じている人からの情報があれば、和彦らがやっていた事にもたどり着くだろう。
銭湯の経営者とヤクザとの関係を探るために、ガイシャの仕事場も捜索の対象になるかもしれない。「松の湯」は、遺体処理をした証拠であふれかえっている。……人間の骨というのは、焼いても焼いても、証拠が残らないほどには灰にはならないのだ。
ほんのわずかな骨片が見つかっただけで「松の湯」で何が行われていたかすぐに判明するだろう。
ヤクザとの情報ネットワークを組んでいるマル暴の刑事もいるので、その線からも「松の湯」に捜査の手が伸びてくる可能性は大いにある。
――警察か、反社会的組織か。
どちらにせよ、いくつもの巨大な組織が、ちっぽけな一般人の和彦の犯罪を追う事になるだろう。
これで早晩、破滅に至らないなどと楽観的に考えているのであれば、そうとうのおばかさんでしかない。
つまり、一見「小さな幸せ」を見出した主人公の「ハッピーエンド」のようにさえ見える本作のラストシーンは、その後和彦は必ず過酷な破滅が待っているという「リアル」を隠蔽した、ホンワカした雰囲気だけで視聴者を騙す「偽ハッピーエンド」なのである。
――「そんな深いこと、考えないほうがいいっすよ」。
以上の様な「社会のイヤな部分」の全てに目をつぶって、すなわち出来る限り思考停止して「この瞬間さえ楽しければいいや」という映画が本作の本質である。
難しい事だとかイヤな事だとか、そんなこと深く考える事なんかしなくてよくて、他人が「楽しいでしょ?」と差し出してくるものを何も考えずに素直に享受すれば、それだけで幸せでしょ?何が悪いの?
――といったように「思考停止」し「瞬間的な楽しさの享受」を視聴者に迫ってくる作品。それが、本作の深層に横たわっている観念なのである。
これは確かに、ある意味一部の若い人たちの倫理観を代弁しているのかもしれない。
今の若者らが、日本の将来を明るいものと考えていて、希望を抱いてワクワクしていると思えるだろうか? ぼくは、思えない。
シビアに考えれば、彼らの将来、日本の将来はネガティブなものでしかない。
現状の日本も、決して表面に見えているものほど、明るいものではない。
経済が悪く給料は低い。仕事もブラックが多い。年金は削られて行って老後は決して明るくない。
だが、それを若者たちが自分たちの力で覆せるのか?
政府の無策を批判すれば様々なメディアの人間がバッシングしてくるし、政府を批判するデモを行ったら、大人からはまるで悪い事をしているかのような言われ方をされる。
先日ニュースにもなっていたが、もはや若者全員が選挙に投票に行ったとしても、高齢者らの票数には及ばないので、政治には若者の声が届かないのだ。
自分たちの力およばない社会がこれだけ悪いのに、それを直視してシビアに考えろ、というのは確かに年若い彼らにとっては酷なものなのかもしれない。
彼らは確かに「目の前の酷い状況」に目をつぶって、ある程度思考停止して短絡的な快楽に身をゆだねなければ、人生を楽しむ事などできない状況になっているのかもしれない。未来ある若者たちの先は、真っ暗なのだから。
だからこそ、本作の主人公の様に、重大な犯罪に関わっておきながらも、そこで被害に遭った人間たちの事など「深く考えずに」、「小さな喜びこそが幸せなんじゃないか」等と短絡的な幸福感を味わえれば良い――そういう「極端な幸福論」にさえも「人生に何度か訪れる『この時間が一生続けば良いのに』と思う瞬間のために生きる。確かにそれで充分だよね」等と共感を示すレビューが付くのではないか。
こういう作品が多くの視聴者の共感を呼んでいるという事は、この映画の表す「壊れた倫理観」にさえも共感を抱いてしまうというのが、現在の多くの若者のメンタリティを象徴しているという事なのではないのか。
つまりは、このような作品が大きな共感を持って受け入れられている社会状況というものこそが、われわれの社会に潜んでいる大きな問題なのではなかろうか――そんな所までも危惧してしまうのである。
こういう風に思ってしまうからこそ、安易に視聴者に思考停止を迫り、「別に社会の現状が変わらなくたっていいじゃない?」といった「偽ハッピーエンド」を主張するような本作には、ぼくは反吐が出そうなほどの嫌悪感を抱くのである。