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◆読書日記.《貫成人『ニーチェすべてを思い切るために:力のへの意志』――シリーズ"ニーチェ入門"3冊目》

※本稿は某SNSに2021年3月26日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 貫成人『ニーチェすべてを思い切るために:力のへの意志』読了。

3貫成人『ニーチェすべてを思い切るために:力のへの意志』

 こりゃダメだ。
 青灯社の「入門・哲学者」シリーズの一冊で「中学生にも分かる、はじめての哲学者全体像」との帯文があるだけに具体例を挙げて分かりやすく解説されているのだが、誤謬、異論だらけでこれを「入門」扱いにしてはいけない。

 この人の専門はどうも現象学らしい。哲学全般に関して解説した本も出しているようだが(『図解雑学』シリーズまで手掛けてる…)こういう雑な人にそういう本を担当してもらいたくはないなと思う。

 とにかく一般的に言われているニーチェの解釈とはだいぶニュアンスが違っており、ニーチェの思考傾向も理解している風ではない。

 というのも、本書のだいたいのニュアンスというのが「ニーチェは伝統的価値を転覆した人」というポストモダニズムに繋がる部分のみを強調し、そのためにニーチェ思想の全てが「ネガティブ」としか言いようのない毒気に塗れた装いに変わってしまっているのだ。

 これではニーチェはなぜ「価値を転覆」しようとしたのか、読者は理解できないだろう。

 ニーチェ思想を理解するうえで肝心なのは、その「伝統的価値を転覆」するための「理由」のほうだというが、どうもこの人にはわかっていないようなのだ。

 ニーチェの著作にある言葉はどれも、弱者を強く励まし、背中を押そうという力強いポジティブさがある。そういったニーチェのポジティブさ、力強さが、本書では抹殺されてしまっている。

 例えば「永劫回帰」思想は、人生を肯定するための「運命愛」に繋がる思想としてあった(という風に普通の入門書などでは説明されている)。

 それがこの作者にかかってしまえば、これはカミュの『シーシュポスの神話』に出てきた寓話、――シーシュポスが神から罰として巨大な岩石を山頂まで押し上げていくと、岩石は天辺から下まで転がり落ちてしまい、シーシュポスはまた山麓から岩石を押し上げなおさねばならない――という例の寓話と同じように、人生は何度も繰り返しさねばらなない永劫地獄の苦しみのようなものだと説明するのである。

 それ(※永劫回帰)は、どこかに終着点や目的地があるわけでもなく、日々の暮らしに充実をおぼえるでもなく、ひとびととの交わりや芸術作品に悦びをえるわけでもなく、ただひたすら日々をおくる生である。それでも「これが生きるということであったのか。わかったよしもう一度」(第三部一三)と心から言ったとき、すべてを受け入れることができる(本文より抜粋)

 ――と、永劫の苦しみを「受け入れろ」というのである。

 永遠回帰を呑み込むとは、もはやなにも「望ましい」もの、「望むべき」ものもなく、ただ同じことが繰り返され、その終わりを望むことができない、という状況を受け入れることである(本文より抜粋)

 まるで修行僧のようである。そんな事はニーチェは言っていない。
 「芸術作品に悦びを得る」事をニーチェは「望ましい」ものとして褒めたたえたし、永劫回帰は「日々の暮らしに充実をおぼえるでもなく」生きる事でもない。

 ニーチェ思想もこの人にかかると斯様に、まるで修行僧の禁欲主義的な解釈になってしまう。

 つまり――ニーチェが激烈に批判したキリスト教的な「禁欲主義」的な意味合いにさえ受け取れるニュアンスなのである。

 人生に目標も目的も終着地点もない。
 キリスト教が与えた道徳や倫理の基準も絶対のものではなくなってしまった。
 世の中に絶対的な価値はもうどこにも存在していない。
 これがニヒリズムなのだ。

 ニーチェは、こういった「神」の絶対的な価値や福音、約束された救済を望めなくなった「ニヒリズム」に陥った人々を、別の価値観を与えて再び生きる気力を持たせ、人生を肯定するために自分の思想を練り上げていった。

 本書のテーゼは前半のいわゆる受動的ニヒリズムの説明のニュアンスが強すぎて、ニーチェが押し出したかった「能動的ニヒリズム」によって神無き時代の人々に、また別価値の救済を試みるポジティブなニュアンスが殺されてしまっているのである。

 なるほど、これではニーチェの思想を「"神は死んだ"と言った虚無主義(ニヒリズム)の反‐哲学者」というネガティブな捉え方が出てくるわけだ。

 彼だったら、こう言うだろう。「道徳や倫理、道義に絶対的根拠も理由もない。政治家の賄賂や、それで利益をえる大企業を非難するのは、持たざる者の<ひがみ>にすぎない。殺人だっていっこうに構わない。わたしは自分が殺されたっていいと思っている。なぜなら、神は死んだのだから」と(本書より抜粋)

 上記の引用は、本書の冒頭に書かれた文章である。
 ここからも、この作者がニーチェを「ネガティブな哲学者」として捉えている事が伺えるだろう。
 これではまるで、政治家の汚職や大企業の不正を擁護しているかのようだ。
 道徳や倫理はキリスト教的価値観の偏見であるから「問題ない」とでも言うようだ。

 こういった「ニーチェ思想の誤読」は、ナチスが自分たちの価値観を擁護するためにニーチェを利用したのと同じような誤謬に陥っているのである。
 例えば、同じ論調で行けば「ユダヤ人を大虐殺したナチスを非難するのは、国民の圧倒的支持を受けて強権をふるったナチスに対する<ひがみ>だ」とでも言えるのではないか?

 政治家が私腹を肥やす事に対して「倫理的」に非難する事を<ひがみ>だ、というのはニーチェ思想とは大きく隔たっている考え方だ。
 ニーチェの理屈は「政治家を擁護する」ためにあるのではないし、「持たざる者」を諫めるためにあるのでもない。
 ニーチェだったら、むしろ逆に「そんな政治家を引きずり落とすために、まずお前(持たざる者)が強くなって堕落した政治家どもを追放しろ!」とでも言うだろう。

 つまり、自ら進んで不幸になる事などニーチェは推奨していないし、強者が弱者をいたぶる事を推奨しているわけでもない。

 そんな理不尽な世の中にに対して「ニヒル(虚無的)」に諦めたり、無気力に陥ってしまったり、「"どうせ"倫理なんてキリスト教的な誤魔化しなんだし」と言って無法を行う行為を批判したのがニーチェだったではないか。

 世の中に神が与えてくれる価値がないならば、自分で作れ!
 そんな辛い人生を肯定して、自分を成長させろ!大丈夫だ!
 ……と励ましてくれる力強い思想こそがニーチェの思想傾向であって、本書の著者の表現している「否定の人」という"だけ"の思想家ではなかったのである。

 久しぶりに、読んでいて頭を抱えたくなった本だった。読み終わるのに2時間もかからなかったのがせめてもの幸いであった。
 これで長々と5~6時間も付き合わなければならない分量だったら、それこそ「シーシュポス」の寓話のように苦しみ喘いで絶望していたかもしれない。


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