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◆読書日記.《内田樹『待場の文体論』》

※本稿は某SNSに2020年7月28日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 内田樹『待場の文体論』読了。

内田樹『街場の文体論』

 仏文学者の著者が21年勤めた神戸女学院大学にて最後に行った「クリエイティブ・ライティング」の講義録。
 「クリエイティブ・ライティング」と書かれてはいるが、実践で役立つノウハウ的なものではなく、言語論であり、記号論であり、学習論であり、その上での文体論であった。

 元々この講義は受講者から提出してもらったテクストを皆で読んで批評し合うといった形式を考えていたそうだが、さすがに人気講師の採集授業とあってか、希望者が予想以上に集まったために講義形式に変更したのだという。

 確かに、受講人数が多すぎるとそういった双方向的な授業は学習効果が著しく下がってしまうとは言われている。
 ぼくの知っている研修会社の講師は、双方向的な授業は「だいたい教師1名が担当する一クラスの受講者が25人以上になると効果は下がって来る」という風に漏らしていた。
 つまり、30人~40人ほどを1クラス単位としている現在の学校教育は双方向性のある授業に適した受講者をオーバーしていると言えるだろう。
 学校教育の形式の多くが一方通行的な座学の講義形式にならざるを得ないというのも仕方のないことかもしれない。

 で、本書の著者が行った「クリエイティブ・ライティング」の講義のテーマは「生きた言語(生成的な言語)とは何か?」である。
 このテーマについて著者は「建築的」ではなく、多くの知見を上げて多角的に、あるいは並列的に事例を挙げて考察を進めるという形式を取っている。

 こういうスタイルと取っているからこそ、本書の内容は一読「散漫」という印象が残る事となる。これについては著者も自ら認めている事だが、ぼく的には、そう言う風に「散漫」な印象の講義スタイルになったのは半分は確信犯的に行ったものだろうと思っている。

 その理由の一つは、本講義のテーマである「生きた言語とは何か?」というのを著者自身が講義で実践しているというスタイルを取っているからである。

 著者は「話す事」や「書く事」など「言葉をつむぐ事」に対する不思議さを、様々な事例を挙げて説明している。

 改めて考えてみると、我々は話す時にも書く時にも、頭の中に明確な文章を一字一句作ってからそれを話したり書いたりしているわけではない。その場その場で自然に頭に浮かんでくる言葉を出力しているのだ。
 そのようなライヴ感覚で、一瞬のうちに膨大な言葉の選択範囲をスキャンして語彙をピックアップし、それによって瞬時に文章をくみ上げている。我々はそれを普段、意識せずに自然に行っている。

 この一瞬の作業による高度な文章作成能力は一体どこから来るのか?
 例えば著者は、ソシュールのアナグラム研究を例に出す。

 構造言語学者ソシュールがアナグラム研究に没頭した理由は、古代ローマのラテン語詩に膨大な数のアナグラムが存在していたからだという。

 どうやったらそのような高度なアナグラムを詩の中に組み込むことができるのか?古代ローマの多くの人間がラテン語詩にアナグラムを組み込んでいるのに、その秘密が一向に分からない。

 なぜかと言うと、それだけ多数のアナグラムが存在するというのに、その方法論について言及した記録が一切存在していなかったからだった。

 例えばルクレティウスの代表作『物の本質について』にはヴィーナスを讃える詩があるが、その詩の中にはヴィーナスのラテン語「アフロディテ」のアナグラムが13回も出て来るのである。
 このような力技を果たして、本人は何かしらの方法論を持ってして行ったのか、それとも無意識に行っていたのか?

 著者はそれを「無意識的に行っていた」と推測するのである。

 スポーツでは無意識的に高度な技術を発揮する意識状態に入ることを「ゾーンに入る」と言うが、詩作や執筆や講義にも「ゾーン」に入る場合がある、と。

 前述したように、我々は自分が普段行っている会話や執筆作業の際に、言葉の選択や文法のくみ上げを完全に一字一句意識し、完全な制御下の元に作り上げているわけではなく、無意識的に言葉を選択し、表現方法を選択し、文法のあれこれを組み上げている。これこそが言語的な「ゾーン」の領域ではないのだろうか、と著者は主張するのだ。

 アナグラムもそれと同じ事で、例えばルクレティウスの頭の中で自然に行われている言葉の選択の中に、無意識的に「アフロディテ」のアナグラムを構成するような言語選択の意志が働いていたのではないかと言うのである。

 著者が「クリエイティブ・ライティング」の授業である種「散漫」なスタイルを取る理由の一つがこれである。
 つまり、著者がこの授業で自ら「ライヴ感覚で話し言葉が生成されていく現場」に受講生を立ち会わせていたという事でもある。

 著者は本書で何度も、事前に準備した文章を読み上げる講義というのはつまらないといった事を話している。だからこの講義で著者は細かい内容を事前に決めてきていないのだと話している。
 だいたいのテーマは決まっているが、細かい事は決めずに、その場その場で思いついた話をしていく。

 つまりはそれが「散漫」になってしまう理由なのだが、そういうスタイルを取ったのは明らかに著者が「言葉の生まれ出る現場」の不思議さ、その高度な無意識的行為の面白さのほうを優先している証左と言えるのではないか。

◆◆◆

 著者が「構築的」でなく「散漫」ともいえるスタイルを取ったと思われる理由がもう一つある。

 それは著者の願いの一つとして、授業の受講者である若者たちに対して「自分の頭で切実に考える事」を求めているからであろう。

 「日本の中等教育において『書くこと』を教えるときに、何か根本的な間違いがある」と著者は言う。

 例えば、小学生の時に個性的な文章を書くと先生から文章のあちこちを訂正されて「無難な文章」に矯正させられる。
 受験用の文章を書くために、学校で学ばされるのは常に「出題者が何を欲しているのかを"忖度"して、その好みに合うような文章を書く」という事。

 そういう文章を著者は「生成的な文章」とは思わないのだ。

 著者は講義最終日に、仏文学の学会で若手の研究者の研究発表を聞いた時にがっかりして「オレもう学会辞めるよ」と言ったという話をする。
 著者は「若い人たちがたぶん重箱の隅をつつくような、細かい研究をしていたからでしょう。小役人的と言うか、なんだか「せこい」んです」とその心内を語っている。

 その若手の研究員は、なぜそんな「せこい」研究発表をしていたのか。
 それは、彼らの発表というのが純粋な探求心のためにあったのではなく、「大学のテニュアのポストがほしい、それをアピールしているんだと思います。「こんなに勉強ができるんです。雇ってください」と。就活の自己PRをしている」と著者は述懐する。

 夏目漱石の『三四郎』には、三四郎が先生に「日本はこれからどんどん発展していくでしょう」と尋ねると、先生が間髪入れずに「亡びるね」と答えるシーンがあるという。

 著者はそれを踏まえて、次のように話す。

 学問的な能力を自分一人の立身出世に用いる人間に対する手厳しい批判は夏目漱石や福沢諭吉の書き物に横溢しています。それは知的能力を社会的格付けを上げ、資源分配における有利なポジションを得るために使おうとすると、人間はいずれ自分の同国人たちができるだけ無能で怠惰であることを願うようになるからです。そのほうが自分の分配率が増大するように思えるから。
                  内田樹『待場の文体論』より引用

 漱石の時代――明治時代の学者らが皆このような考え方で研究を行っていたら、日本はとっくに滅んでいただろうと著者は指摘している。

 だが――現在の日本の状況を顧みて、現状は如何ばかりか。多くの人間に益するための学問ではなく、自分の地位を上げ、就活の自己PR代わりの研究発表を若手が行うこの現状はどうなのか。

 著者は講義の初回に受講生にレポート提出を求めている。
 その次の回、集まったレポートを読んだ著者は受講者に次のようにダメ出しをする。

 他の先生のレポートだったら怒られるかもしれないが、ウチダならこれくらいだったら平気かなという、君たちの「安全ライン」の瀬踏みと言うか、この辺から向うは地雷原でこの辺までは平気という感覚がね、悪いけど"みんな同じ"なんです。
                  内田樹『待場の文体論』より引用

 この著者のダメ出しは、仏文学学会での若手研究者たちの発表を聞いた著者の失望感と相同的な意味を持っている。
 著者にとってどちらの若者たちも、間違いなく「生きた言葉を使っていない」という事になる。

 自分の中から生まれ出る切実な文章。もしくは生き生きとした血の通った文章。誰の真似でもなく何かしらのお手本通りのものでもなく、教科書的なものでもない、自分の内側から生まれ出る、個人としての文章。
 ――こういったものは、いくらでもパラフレーズできそうである。

 だが、こういった概念を伝えるには一つ一つ論証を行っていき、頂点に確固とした不動の解答を持ってくる「建築的なスタイル」では不適切なのだ。

 何故なら、そういう形式では、また若者たちに「確固とした答え」を与えるだけでしかないからだ。

 著者は、相手の求める答えを見透かして、その攻略法を考えるような思考法はもうやめにしなさい、と言いたいのだ。

 「攻略的思考法」に凝り固まった若者たちの偏見を突き崩すために様々な刺激を与え、「答え」ではなくて、それぞれの頭で切実に「おのれの問題」として考えるための問題意識を植え付けるためには、若者たちの考えに根付いていないあらゆる概念をぶつけて彼らの意識を変える戦略にせざるをえないのだ。
 そのための一見して「散漫」とも思えるようなスタイルだったのだ。

 この講義では、著者の思い思いにソシュールやバルトの話になったかと思えば、村上春樹の創作論に飛び、はたまた電子書籍と少女漫画についての話に移行する。

 怒涛のように様々な刺激的な知見に脳を揺さぶられる受講者は「これは一体何なのか?」と考えざるを得ないだろう。著者は「明確な解答」を与えてくれない。怒涛のように示唆的なエピソードに脳を晒される。
 受講者たちは、最後のレポートに向けて、必死に「みずからの頭で考える事」を余儀なくされていくのである。
 ――これは、そういう授業だったのだ。

 ――勿論「そういう意図の元にこの講義を行った」等とは著者は言っていない。この結論は、全てぼく個人の推測だ。
 だが、著者が「そんな意図はない」と言おうとも関係ない。
 きっと、著者が意図していなかったとしても、著者自らが主張している「縁の下の小人さん」が、彼の意図を汲んでこの講義の準備をしてくれたに違いないのだから(笑)。

◆◆◆

【補記】因みに、本稿も著者のスタイルを意識して結論を決めずに書き進めた。ところが、けっきょくぼくの文章はご覧の通りに構築的な文章になってしまった。これは文章を書いていて良くある事なのだが、書き進めながらぼくも「へえ~、内田さんの講義スタイルの意味って、そういう捉え方もあったんだなあ」と自分で自分の理屈に感心した。こういう事がしばしばおこるからこそ、著者の主張している「言語的なゾーン」の領域というものには、ぼく的には至極納得がいったのである。ぼくの無意識も、なかなかにやり手だなあ。


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