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◆読書日記.《赤江瀑『ガラ』》

※本稿は某SNSに2022年7月24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 赤江瀑の長編小説『ガラ』読了。

赤江瀑『ガラ』(白水社)

 姿を見せない鳥たちが飛ぶ気配、啼き交す浮れ歌が、頻りに聞こえる。木漏れ日の深みを渡って、光の宙を、枝から枝へ往き来する。真昼間の人けのない樹林の小径に腰をおろし、恭子は、仰向いて、その鳥たちを眼で追った。
 追うものの、ありかは掴めず、ちょうどここにはもう一つ幻の林が同時に存在して、鳥たちはそこに棲み、そこで唱っているのかもしれぬという気がしてならなかった。
 すると、時折、樹林は密かな変容を見せ、気が付くと、全林に降る花の気配も加わっていた。もう一つの林はいま、花ざかりでもあるのだろうか。名の知れぬ無数の花びらは音もなく軽がると宙に浮き、いちめんに降りしきっているようだった。そのひとひらひとひらが、木漏れ陽のそこかしこに顕在し、見え隠れもした。
 鳥たちの集まってくる歌唱樹が、どこか近くにあるのだろうか。姿を見せない羽音や浮れ啼きは、だんだんと数を増し、賑やかに群がりはじめていた。
 「あなたなのね?」
 恭子は、独り言のように言う。

赤江瀑『ガラ』本文より抜粋

 この幻想的な不可視の樹林に一歩足を踏み入れて、――気付けば一気に読み終えてしまっていた。

 冒頭に掲げたのは、本作『ガラ』の最初の「序の章」の頭から数行を引用している。

 小説を読んでいて、本当に「美しい」と思える一文に出会える幸せというのは、最近の大衆小説作家の作品では、もうほぼなくなってしまった。

 そういう絶滅危惧種にも似た美しい文章を常に保っている稀な作家が赤江瀑である。

 赤江瀑の小説に感じる幸せとは、ストーリーを楽しむ以前に、「文章を読む幸せ」だ。

 だから、彼の小説を紹介する時、あらすじを書く事にあまり意味を感じない。

 また、「ストーリー」ばかりを楽しんでいて「文章」を読んでいないタイプの読書家(最近の自称"読書家"には何とも多い事だ)は、本書はまったくお勧めできないので、読まずにいるのが良いだろう。時間の無駄である。
 例え本書のあらすじを最後の最後まで丁寧に説明したとして、それを「ネタバレだ」と批判するようなタイプの読書家も、同様に本書をお読みにならぬほうが良いだろう。

 本作の「ジャンル」についても、「幻想恋愛小説」と説明しても、実際に本作を通読しない限りは、そのニュアンスが伝わる事はないであろう。

 本作は表向き、四人の男女に起こった恋愛劇であり、主人公が、愛と憎と、そして現実と幻想と、「優しみ」と「淋しみ」と……そうったもののあわいで揺れ動き、そのどちらにも足を踏み入れ、漂い、その両方に同時に存在する。……そんな事の起こる物語である。

 「ガラ」とはいったい、何者だったのだろうか?

 彼女をただたんに恭子が自分の中に作った別人格だと言ってしまえば簡単だ。彼女は、恭子を厳しく咎める自我である。
 だが、「序の章」に出てくる目に見えない「もう一つの樹林」の中のどこかに、明らかにガラは隠れているのである。

 作中、ガラは突如として恭子の前にひょっこりと表れては彼女を馬鹿にし、非難し、彼女の内面を引っ掻き回していく。

 ガラ。お祭り騒ぎ。そんな事を意味するイタリア語。

 彼女が現れ、恭子と会話をしていると、ふと時折彼女たちの会話文のどちらがガラでどちらが恭子だったか混乱してしまう事がある。
 ガラは恭子が一人でいる時にしか現れない。最初から「ガラはたぶん実在しない、恭子にしか見えない存在なんだな」という事を読者に仄めかせながらも、しかし、近所の尨犬と遊んだり、恭子のアトリエの窓を開いていったり……と、時折「実在する人物なのだろうか?」と思わせるような行動に出る。

 まるで、彼女は幻想と現実のあわいをまたいでその両方に往き来しているかのように。

 否。――ここでいう"彼女"とはいったい誰の事を言っている?恭子?ガラ?

 この場合、そのどちらでもよいのではないだろうか。
 というのは、この物語には様々なダブルミーニングが存在しているからである。

 本書における赤江瀑の文章も、連城三紀彦が得意としているような象徴的なダブルミーニングをしばしば使っている(そのうえこの物語が大人の恋愛劇という事もあり、読み口は連城三紀彦に似ているという印象も受けた)。

 この物語で恭子が、粉々に引きちぎって、紙吹雪にしてしまった言葉――

優しみは、彼を食い物にするだろう。彼を貪るにちがいない。そのために、彼は、しだいに荒み果てていかねばならない。どんな裏切りにも、愛想づかしにも、悪態にも、ただ耐えることだけを強いられ、赦すことを約束させられ、それを満足と思わねばならぬことを知り、やがてそれらの生活のなにもかもが、激しい生甲斐であることを信じさせられ、そしてたぶん、彼は、恥知らずな人間になりさがる。密かに待ち焦がれるようにさえなる筈だ。その屈辱が、その無体が、その数限りない理不尽のひとつびとつが、いっせいに強烈な快楽に生まれ変わるあおの無類の刻を。無法の日々を

赤江瀑『ガラ』本文より抜粋

 ガラはこれを「この暮らしが、あなたにとって、快楽だとは言わないけど……でも、あとはみんな、まるであなた自身のことを言ってるみたい。そんな気がしない?」と指摘する。
 しかしこれは、恐らく威邦にも当てはまる事だ。
 恭子と威邦は、内面では鏡写しにように、反発し、互いの批難に耐えながらも、それでいても相手の事を思っていたのではないのか。

 恭子が「序の章」の樹林の中で、眼に見えぬ「もう一つの林」を感じたように――そっくりな二人は、互いにそれと知る事もなく不透明に重なり合って存在し、互いの胸に群がって胸をついばみ破く小鳥たちにゆっくりと殺される日々だったのかもしれない――果たしてそれが幸せだったのか何だったのか。あるいは、そのどちらでもあったのかもしれない。

 そしてまた、手元の写生用の画帳の紙を散り散りに破きながら、彼女は言うのだろう――

 「わたしを、殺す気? ガラ」



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