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◆読書日記.《多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』》

※本稿は某SNSに2022年10月24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』読了。

多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』

 美術評論家・多木浩二による、ベンヤミンの評論の中でも『暴力批判論』や『パサージュ論』と並んで最も有名な『複製技術時代の芸術作品』を再読する試み。

 ベンヤミンのこの『複製技術時代の芸術作品』は大学の近代西洋美術史の授業でもよく取り上げられていた重要論文の一つで、今では既に古典と言ってもいいものとなっている。

 この論文は特に「アウラの喪失」と「芸術の礼拝的価値/展示的価値」という概念を用いて、複製技術が発展した現代ではどのように芸術が変化したのか?といった文脈で説明される事が多い。

「アウラの喪失」と「芸術の礼拝的価値/展示的価値」という考え方は、確かに「複製技術が発展した近現代という社会における芸術の変化の有様」を説明するには非常に分かり易くて面白い概念だった。
 そのためか、これらの概念はこの論文のキャッチコピーのようなものとして広まっているように見えるが、この論文はこの概念を説明するために書かれたものではないし、「芸術がどう変化したのか?」という事のみに焦点を当てたものというわけでもない。

 では、この特徴的な概念のみが有名となってしまっている論文について、「アウラの喪失」や「芸術の礼拝的価値/展示的価値」といった考え方はどういう文脈で語られ、そもそもこの論文は何を主張しているものなのか、という事を『複製技術時代の芸術作品』を改めて読み直して解説してみようというのが、本書の試みである。

 なので「精読」とは書かれているが、一節ごとにその内容を細かく咀嚼していくような内容ではなく、あくまで「再読」するのが本書のアプローチだと思えば良いだろう。

◆◆◆

 では、そもそもベンヤミンはこの論文をどういう意図を以て書いたのか。
 ウィキペディアにも書いているが、「芸術の政治学における革命的な要求の定式化に有用な」芸術理論を説明するため――という事で、実は「政治」的な目的があったわけである。

『複製技術時代の芸術作品』は1933年に、亡命先のフランスで書かれたものである。彼は裕福なユダヤ人家庭に生まれ育ったユダヤ人だったのだ。
 そのために彼は反ファシズムであったし、反資本主義であり、マルクス主義に傾倒していたのである。

 だから、ベンヤミンのいう「芸術の政治学」というものは、この論文では反ファシズム的な意味を持つ事となる。

 だが、ここで注意してもらいたいのは、ベンヤミンは芸術を政治利用しようという意図があったわけではなく、既に芸術を政治利用していたナチスへの対抗手段としての、芸術によるファシズム批判であり、そういう意味での「芸術の政治学」だったのである。

 この論文での「芸術の礼拝的価値/展示的価値」という概念も、このファシズム批判の流れの一角に出てくるものでもあるのだ。

※なお、「礼拝的価値/展示的価値」の意味については下記サイト等で参照の事。

 ベンヤミンはこの「礼拝的価値/展示的価値」について、下記のように記している。

「芸術史を、芸術作品自体における二つの対極の対決としてえがきだし、その対決の歴史過程を、芸術作品における重点が一方の極から他方の極へと移行しては、また反転して後者から前者へと移行する過程の、交代と見なすことも、あるいは可能かもしれない。この二つの極は、芸術作品の礼拝的価値と、展示的価値とである(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』Ⅵ章より引用)」

 そして、ベンヤミンは現代の複製技術によってコピーされた芸術作品の価値は、礼拝的価値から展示的価値のほうへと移行しているのだと捉えたのである。

 芸術は機械技術によって大量に複製が作られる事によって「アウラ」を喪失する。
 その「アウラ」というものは、ある種の「心的現象」なのである。

 例えば、ゴッホの『ひまわり』を前にして、人は感動するかもしれない。
 しかし、それが「『ひまわり』を寸分たがわぬ形で複写したコピー品ですよ」と伝えられると、それまで感じていた感動がまるでウソだったかのようにガッカリしてしまうものではなかろうか。
 その人の目の前にある「絵」はまるで変化していない。変化したのは見ている人の内面だけなのである。
 その差が「アウラがある/ない」の差だと言えよう。

 この辺りの議論は近代美術史などでも良く出てくるものである。

 礼拝的価値のある芸術作品の前では、人は息を詰めてそれを眺め、集中して見て、ある時は礼拝し、ある時は瞑想し、またある時はどのような意味があるのか考えを巡らせている。

 西洋絵画がまだいわゆる「オールドマスター」を生産していた時代のものだった芸術作品は、教会に飾られる宗教画であり、貴族の邸宅に飾られる肖像画であり、王宮や政治施設に飾られる歴史画や神話画であり……と、権威を放ち、民衆からしてみれば明らかな「美的崇拝の価値のあるもの」であっただろう。

 それに対して、民衆がいつでも立ち寄れる美術館に展示され、それらが図録化されていつでも各家庭のリビングで、ソファにでも身をしずめながら閲覧できるようになった「複製された芸術」には、それまで芸術が放っていた権威は著しく凋落したと言えるのかもしれない。

 ベンヤミンはしばしば、芸術を鑑賞する事を称して「くつろぎ」や「気散じ」という表現を使う事がある。
 その昔、礼拝的価値のある芸術作品の前で民衆が見せていた集中や瞑想や考察といったスタンスとは、対極にあるような態度である。

 これが、新しく民衆が「展示的価値」を前にして獲得したスタンスであったと言えるだろう。

 ザックリと言ってしまえば、複製技術によってコピーされ、公共施設や各家庭にまで広く民衆に行き渡った「複製された芸術作品」の中に、ベンヤミンは「コミュニズム的な平等主義」を見たのだろうと思うのだ。
 複製技術によってコピーされる芸術作品は、かつてあった「アウラ」という名の権威を剥奪され、その礼拝的価値は展示的価値に転じる。芸術は広く平等に民衆に広まっていく。

「アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、個の知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』Ⅴ章より引用)」

 本論で面白いのは、複製技術時代の芸術における「平等性」というのは、何も作品と観衆との関係性だけでないという事に気付かせてくれる所であろう。
 例えば、複製技術時代では、映画俳優とそれ以外に画面に映る小道具などについても、同等の価値を有する「平等」が成り立つと、ベンヤミンは考えるているようなのである。

「(※映画では)俳優が小道具になるとすれば、他方では小道具が俳優として機能することも、まれではない。とにかく、映画では、小道具にもひとつの役わりが与えられることは、少しも異常ではないのである(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』原注〔9〕より引用)」

 映画俳優はある種の小道具と同じように、その画面にマッチしたものを選別され、画面の中に配置される。
 更に面白いのは、映画では小道具も「演技をする」という事である。これは、演劇の舞台美術に現れる小道具とは全く別の現れ方である。映画に映る小道具は、演出のその時々の必要性に応じてカメラに取り上げられてクローズ・アップされ、視聴者は俳優を見るようにその小道具の「言っている意味」を読み取るよう促される。

 カメラという光学的機械の前では、俳優も小道具も、同じフィルムを構成する構成要員の一つとして変わりない「平等」なものになってしまうのである。

 また、カメラの前では、人は容易にその中の「芸術」の一つに組み込まれてしまうものである。観衆は、カメラに撮られる事で、一転して「見られる側」に転じる。カメラの前では、見る人-見られる人も「平等」になる。――ベンヤミンは、そう考えたのではないだろうか。

 しかし、そのアウラの特権性が消失し平等となった作品世界の中に、古い「芸術」観に適用した「政治的な礼拝的価値」を導入したがる勢力も存在する。
 特にユダヤ人だったベンヤミンにとって緊急の課題であったのは、ナチスによる複製技術利用による「芸術の政治利用」であっただろう。

 複製技術時代の芸術の一つである映画(ここでは娯楽映画だけでなくコマーシャルフィルムやニュース映画……つまり報道も含む)が、展示的価値の可能性を広げていく事で、誰もが芸術による展示可能性を得る事となった。
 それに伴い、同じく政治家や「政治」そのものまでも、展示可能性を得る事となったのである。

 しかし、その複製技術時代の芸術にナチスが持ち込んだのは「映画資本の促進するスター崇拝(本書P.167より)」という、ある種の「礼拝的価値」だった……とは言えないだろうか。

「映画資本の促進するスター崇拝が、人格という例の魔術を――それがとっくに、人格の商品的性格といういかがわしい光輝のなかに埋没しているのに――保守しているだけではない。これに加えて、お客様は神様だとする観客崇拝がこれを補完している。観客崇拝もまた、スター崇拝と並んで、大衆の心性の腐敗を促進しているが、この腐敗した心性こそ、ファシズムが大衆のなかに、階級意識に代えて植え付けようとしているものにほかならない(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』ⅩⅡ章より引用)」

「スター崇拝」というのは、現代日本で言えば「アイドル崇拝」と言ったほうが通り良いように思える。
 因みに、日本で政治に「アイドル崇拝」的な礼拝的価値を露骨に取り込み始めた政治家と言えば、小泉純一郎元首相が真っ先に思いつく。現代政治家が自らの政治信条ではなく自らのキャラクターを売り出す時、それもまた同じく大衆の心性の腐敗を促進するものに外ならない。

 ベンヤミンは「西欧では、映画は資本主義的に搾取されていて、自分自身を再現したいという現代人のまっとうな要求を、いまだに無視している」と言っている。

「一般にファシズムに妥当することが、特殊には映画資本に妥当する。すなわち、新しい社会構造への不可避的な要求が、少数の有産階級に好都合なように、こっそりと搾取されているわけだ。映画資本を接収することは、それゆえすでに、プロレタリアートの緊急の必要となっている(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』ⅩⅢ章より引用)」

 このように、ベンヤミンが本論で「複製技術時代の芸術」をとりあげるのは、単なる芸術論という意味だけの事ではない。「芸術の政治学」というものは、この論文では反ファシズム的な意味を持っているのである。

◆◆◆

……以上の様に書いてくると、まるでこの論文が完全に「政治的文章」のように感じてしまうかもしれないが、政治的なテーマ以上に、本論ではこの「複製技術時代の芸術」がどのようなものになるのかという点について、予想以上に様々なアイデアや概念を投入していて芸術論としても優れているからこそ、未だに古典と呼ばれるだけの価値があるのだ。
(※しかし、逆に言えば、そのような芸術論としてのアイデアや概念の豊富さ故に、近代美術史などではこの論文の「政治的意味」は省略され、上述したような「アウラの喪失」と「芸術の礼拝的価値/展示的価値」という概念のみが目立ってしまうのかもしれない)

 この点については、全てのアイデアが「芸術の政治学」一点に集中していくというわけでもなく、むしろベンヤミンは、いくつかの特徴線を引いていく事で徐々にこの新しい芸術潮流の輪郭を浮かび上がらせて行こうとしているのではないかとも思わせられた。

 特に本書では『複製技術時代の芸術作品』の「ミメーシス(模倣)と遊戯空間」という考え方や、「視覚的-触覚的」という概念に改めて焦点を当てている点が特徴とも言えるだろう。

『複製技術時代の芸術作品』はぼくも学生時代に何度か読んだ事があるのだが、「視覚的-触覚的」という概念については、本書を読んで「あれっ?そんなのあったっけ!?」と驚かされたほどだ(まぁ、ぼくの記憶力が悪いっていうのもあるんでしょうけどネ…)。

 この「視覚的-触覚的」という考え方は元々はウィーンの美術史家アロイス・リーグルが『ローマ後期の美術工芸』の序論で提示していた概念だったという。

「視覚には遠くへのまなざし、深さ、あるいは表面の膨らみが結びつき、触覚には近くをみること、表面、あるいは平面の存在が結びついていた。この視覚的、触覚的という両極は芸術が形成される、形式的な意味での根本問題を提起していた(本書P.70より)」

 だが、ベンヤミンから言わせればリーグルは「ローマ時代後期の近くに特有だった形式的な特色を、指摘するだけで満足してしまったのだ」と非難するのである。

 ある時代は、その時代特有の「知覚」を持つのであり、その知覚は時代や社会的な諸要件によって刻々と変化しているのである。
 その社会的変動に気付かなかったリーグルを、ベンヤミンは批判し、代わってこの「視覚的-触覚的」という知覚の変動について考察しているのである。

 ベンヤミンが複製技術時代の芸術作品の代表として見ている「映画」は、人の「視覚」を変化させる、と言って良いだろう。

 例えばそれは、人が見る事ができないほどの小さなものをクローズ・アップして見せてくれるし、人が見る事ができないほど遠くで起こった出来事や、リアルタイムでは見る事の出来なかった過去の出来事などを、映像で見せてくれる。
 また、未来派やキュビズムが試みようとした「動き」を解剖学的に見る事も、映画は可能にしてくれた。スロー・モーションで、普段人々が無意識に行っている「歩く」という行為が、どのようなプロセスで行われている事なのかを事細かに明らかにしてくれる。

 このように、様々な芸術作品の民衆的受容は、その民衆の知覚を変化させるのである。

 このような芸術作品の受容課程における社会的知覚の変化という問題は、まだまだ現代にも通用するテーマとなりうるアクチュアリティをじゅうぶん秘めていると感じる。

「映画」に続く、映像芸術の進化によって21世紀にいるわれわれに見えてきたものは、このようなメディアが徐々に「見る」から「経験する」に変化してきているという事である。

 映画における無声映画から音付きの映画(トーキー)という変化は、「視覚」への働きかけから「視覚&聴覚」という両方の知覚への働きかけを同時に行う変化であったとも言えるだろう。
 映画の発展が「より"視覚"から"経験"へ」という方向性を持っているというのは、例えば映像が立体的に見える3D映画だけではなく、振動や座席効果も加えた4DX映画など、最近の映画の流れを見ても良く分かるだろう。
「映画」はいまや視覚のみを刺激する芸術ではなく、聴覚や触覚なども融合した多次元性を獲得してきているのである。

 勿論、現代アートの世界でも、絵画や彫刻ばかりでなく、インスタレーションのように体験型の作品が増えてきたという事からも、その「社会的知覚の変化」を読み取る事ができるだろう。

 こういった体験型の芸術というものを、従来の絵画や彫刻などと言った「視覚的」な造形芸術と分けてベンヤミンは「触覚的」という概念で区別したのである。

 ここで言う「触覚的」というのは、少々難しい概念だ。

「これからたびたび使うことになる「触覚」という知覚は、注意を要する。それは手で触ることを意味していない。われわれが考えるに値する「触覚」とは、何度も経験し、固定した決定的な像を認識しないのだ。平面とか三次元とかに表すことができない。「触覚」とは時間を含み、多次元であり、何よりも経験であり、かつ再現のできないものなのである(本書P.100より)」

 ベンヤミンはこの「触覚的」な芸術を「建築」の体験を例にとって説明しているが、現代では上に挙げたような「経験型の芸術作品」を「触覚的」と考えても良いだろう。

 何より、現代のわれわれが注目すべきだと思う「体験型知覚的芸術作品」が、テレビゲームであったり、ネット上のSNSであったり、XR(エクステンデッド・リアリティ)技術といった、より高度に様々な知覚に働きかける芸術作品ではないだろうか。

 思えば、これらは既に「芸術」の持っていたアウラを消滅しきっていて、これを「芸術」と捉えるのは感覚的にも難しいかもしれない。

 しかし、ベンヤミンが同じく『複製技術時代の芸術作品』で述べている通り――

「すなわち、仮象が衰微し、アウラが凋落するにともなって、巨大な遊戯空間が獲得される、という洞察が。もっとも広い遊戯空間は、映画において開かれた。映画において、仮象のモメントは完全に背後に退き、これに遊戯のモメントが取って代わっている。(ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』原注〔10〕より引用)」

 ――これらはベンヤミンの時代の映画と同じように「巨大な遊戯空間」を成しているのである。
 ベンヤミンから言わせれば、もう既に現状は「ゲームは芸術と言えるか否か?」や「仮想現実は芸術と言えるか否か?」等という議論の地点にはいないのだ。

「ベンヤミンによれば、複製技術が進歩して写真が現れたとき、多くの人びとは「写真が芸術であるか否か」という間違った問題に振り回された。「写真の発明によって芸術の性格が総体的に変化したのではないか」ということに最初は行きつかなかった。(本書P.90より)」

 言わばベンヤミンの芸術論は「作品論」だけの内容には収まりきらないものなのである。それを受容するわれわれ人間についての考察でもあり、それが「機械」や「技術」を介してどう変化しているのか、という事も同時に考察する芸術論であったのだ。だからこそ、ベンヤミンの芸術論は未来を指し示す。

 ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』はこのように技術発展がなされ、その技術が社会受容される過程で起こる社会的知覚の変容というテーマについても、現在でもじゅうぶん通じる芸術論として、面白いポテンシャルを秘めた論文なのではないかと思うのだ。


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