◆読書日記.《福島章『愛の幻想 対人病理の精神分析』――あるいはアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の精神分析》
<2022年12月26日>
福島章『愛の幻想 対人病理の精神分析』読了。
多数の著書を発表している精神科医による精神分析学の視点から「愛」について考察した「愛の精神分析」。
著者も「はじめに」で説明している通り主にフロイトの理論がメインとなっているので、基本的にはぼくも以前に紹介したフロイト『エロス論集』『ひとはなぜ戦争をするのか』等で紹介したフロイトのエロス論を中心に解説をしている。
「愛の幻想」という書名を見ると「恋愛論的な内容なのかな?」と思ってしまうが、ぼくは過去何度か書いている通り「恋愛」とか「愛」とかいうテーマについては苦手なほうで、特に恋愛小説やら恋愛ドラマ等についても語るべきものを何も持っていないと思っている。
が、精神病理上の「愛」や性愛等のテーマについてはその限りではなく、本書で扱われているような精神病理上の「愛」であったり、しばしばミステリの動機などとして扱われる逸脱行動としての「愛」であったりといったものについては関心があったので、本書もそういった興味の元に手に取ったわけである。
読んでみれば、そう言えば確かにフロイトは「愛」についての考察を行っていたと思い当たり、それどころか精神分析の非常に重要なポイントの一つが「愛(エロス)」について理論であった、というのを再確認した。
著者の専門は犯罪精神医学であり、多数の精神鑑定も行っている関係で犯罪者の精神鑑定ケース分析や症例分析などの具体的な事例を挙げて紹介しており、その点でもぼくの趣味に近い内容だ。
しかも、国内の事例を中心にしているので、フロイトよりもわれわれ日本人に近い具体例によってフロイトのエロス論を分かり易く理解できるという点で入門的な内容として優れている。
その他にも著者はパトグラフィ(病跡学)の専門家でもあるそうで、パトグラフィの手法を用いて川端康成、夏目漱石、萩原朔太郎、宮沢賢治、マーラー等の著名な才人のパーソナリティとその作品を用いて精神分析学的に「愛」について考察している。
本書の内容は新しいものではなく(初版も1978年と40年以上前のものだ)、またかなり基本的なフロイト理論を中心に説明しているために、精神分析学の理論の基礎をある程度知っている人には、真新しい情報はさほど見当たらないかもしれないが、著者の経験からによるその貴重な具体例やパトグラフィといった、その考察の仕方が本書の特徴の一つと言って良いかもしれない。
人間の精神構造といったものは、全世界で共通のものも少なくないが、文化や生育環境によってその中身は意外と差があるものだ。
例えばフロイトはエディプス・コンプレックスを人間精神の育成モデルの基礎として置いたが、その所謂「エディプスの三角」という構造は必ずしも普遍的なものというわけではなく、例えばマリノフスキーなどは母権社会ではその構造は変化するとして『未開社会における性と抑圧』等はしばしばエディプス・コンプレックスの理論の反証として用いられる。
西洋社会は個人主義の強い「父性社会」と言われているが、日本は河合隼雄が指摘したように母性社会的な要素が強いために、フロイト的なエディプス・コンプレックスの考え方はそれほどすんなりと日本社会で育った人間の精神には当てはまらないのではないかとも思う。
だが、本書はフロイト理論に重きを置いてはいるものの、具体例は日本のケースを多く用いているという事もあり、考察に際して土居健郎や森山公夫など多少の日本の理論を用いて、あくまで日本における「愛」の精神分析を試みている点も本書の特徴になっていると言えるだろう。
それにしても何故、著者は「愛の幻想」等と「幻想」というキーワードをタイトルに入れたのか。
その点が本書の最大の特徴ともなっている基本スタンスで、著者はフロイトが発見した「人が人に対して抱く幻想の重要性」に着目し、「愛」について「人間のもつ幻想」というスタンスで考察を行っているのである。
著者によれば「フロイトは、自分の発見したものすべてを、すくなくとも十分に適切には説明できなかった」と捉え、フロイト理論における「愛にまつわる人間のもつ幻想」を本書で再評価しようとしたのである。だからこその「愛の幻想」なのだ。
フロイトはよく「パンセクシャリズム」とか「何でもセックスで説明できると主張した」等と言われる事があるが、フロイトの「性愛」や「エロス」という言葉は、普通の人の持っている「性愛」のイメージとは少々ニュアンスが異なっている。
フロイト理論による「エロス」というのは生殖行為を目的とした性愛の事に限定した考え方ではない。
フロイトは「エロス」もっと範囲の広い「生の欲動」であり「生命の各部分を合一させ、生きとし生けるものの統一性を維持させようとする傾向」として捉えた。
フロイトの性概念は「他人との関係を結んでいきたい」と願う欲望であり、他人と繋がっていたい、他人から承認されたい、良い関係を築いていきたい、といった「他者へと向かう身体的・精神的な欲望」そのものを「性(セックス)」と捉えていたわけで、性交渉のみの事を言っているわけではないのである。
友情もエロスの一つだし、家族愛もペット愛も博愛も人類愛も、無論男女の恋愛もエロスだ。
フロイトが扱っていた「愛」は、基本的には精神分析療法の症例研究から導き出した考え方だから、基本的には「愛」をこじらせた患者の症例研究によって考察が進められた。
フロイトが「性倒錯」を研究していたのは、治療を受け持っていた患者を精神分析している間に付随的に得られたものだったともいえるだろう。
フロイトにとっての問題は、精神病の治療に精神分析の考え方を適用する事にあったのだから。
本書でも、まずは精神科医としての治療経験や犯罪精神医学の専門家としての精神鑑定の経験といったものに基づいて、フロイト理論における「愛にまつわる人間のもつ幻想」についての考察がされるのである。
本書の主張の中で特に重要な点は、人間の愛が幻想に支配されている部分がいかに大きいかという所にあるだろう。無論多くの人はその「幻想」を現実的な他人との交流に置いて処理していく事となるのだが、その「愛の幻想」の処理に失敗した人間がしばしば社会的に問題を起こす。
そういった問題を起こした人間は、どうして「愛の幻想」と現実との折り合いをつける事ができなかったのか。そういった「特殊ケース」を材料にする事で、人間の本来の「愛」の形を浮かび上がらせるのが、本書の目的でもある。
一足飛びに本書の結論を説明するならば、以下の言に尽きると言えよう。
「愛の始まりは幻想によるところが大きい」というのは、重要な指摘だ。
例えば、現代人は「理想の異性は?」という質問に対してたいていの人は何かしらの答えを持っているものだ。それを考えても、何かしらの「幻想」が先行しない限りは恋愛も成立しにくいという部分があるとは言えないだろうか。
そして、しばしば現実にお付き合いをする異性や結婚する異性は、そういった「理想の異性」とはタイプが違っている。
これは著者の言っているように「愛は個人の頭の中だけで進行する現象ではない」からで、「二人の愛人がたがいの幻想を持ちより」、その「幻想」が例え現実の姿とはギャップがあろうとも、両者が両者の幻想を、現実的な部分との折り合いをつけて行く事で豊かに発展させていくからこそ「理想の異性」とは違うタイプの人物との愛が成立するのである。
そして「幻想が幻想と気づかれないままに現実との間にずれを生じ、対人関係が円滑にゆかず」、こじらせてしまったものが社会的な問題を起こしたり、ある種の病理となってその人を苦しめたりするのである。
◆◆◆
本書の中で「フィクショナルなエロス」というテーマについて、以下のような興味深い一文がある。
これは既に数十年前から言われ続けている事で、意見としては少々手垢に塗れたような印象があるかもしれない。
例えば現代的な話で言えば「アニメばっかり見ていて現実の女と接点がないといつまでたっても恋人ができないぞ?」等といったような説教セリフは左程珍しくない意見ではないだろうか?
しかし、ではこのような認識が珍しくないものとなっているというのであれば、その状況はもう対策はされているのだろうか? 改善はなされたのか? それともこれは有識者特有の穿ちすぎな意見だったのか?
――否、最近ぼくが思っているのは、この状況は着実に悪化している最中なのではないかと言う事である。
現代のネット社会はあらゆる「フィクショナルな幻想」のイメージに溢れている。
「フィクショナルな幻想」は何もアニメやマンガだけではない。
アイドルは「決して触れられない存在」である昔の状況から、現代では「会いに行けるアイドル」に変貌し、ファンと様々な形で交流し、ファン感謝祭等のイベントで近くで見る事ができ、握手会で触れる事もでき、ネット上で交流し、日常生活の一端をライブ配信で見る事もでき、更にアイドルにまつわる「フィクショナルな幻想」は強化されて行っているとは思わないだろうか。
「現実のアイドル」だけでなく、このコロナ禍でネットを中心にリモートで交流できる新時代のアイドルのスタイルを提供し始めているのが「Vtuber」という存在だと言えるだろう(因みに最近ぼくはこのVtuberにたいへんハマってしまい読書時間が削られて困っている所である)。
それだけでなく、あらゆる動画配信サイトで様々な配信者がそれぞれの魅力を発揮し(更にインスタグラムやTwitter連動でフォロワーとの様々な交流方法を駆使している)、既に一般人ですらこの「フィクショナルな幻想」を提供する側に参入しているのである。
例えば「草食系男子」や「若者の恋愛離れ」といった言葉が近年流行語として有名になっているのも、この傾向の一端を象徴しているのではなかろうか。
マス・メディアの発展によって問題が顕在化してきた「フィクショナルな幻想」は、現代に至って「青年たちにとっては一方通行的に与えられるイメージに過ぎず」という状況は一変してしまったと思える。その幻想は、もはや幻想として「一方通行」などではなく「フィクショナルな相互性」までをも持つに至ったわけである。
そういった母性的にまで過保護となった「フィクショナルな幻想」に「第二のインプリンティング」を施された青少年らは、果たして、ますます厳しさを増していく現代の人間関係に自らの幻想を検証され、修正を施し施され、愛する異性と共に現実的な折り合いをつけていこうという「面倒な作業」に、好んで身を晒そうと思うのだろうか?
彼らはもう既に、推しのアイドルとの絆を深めていく事や、推しのVtuberやネット配信者との絆を深めていく喜びのほうが、現実の人間関係の絆を深めていくよりもコスパが良く、達成感もあると考えているという事はないだろうか。
◆◆◆
ところで、最近のアニメ・マンガ業界界隈のトレンドの一つには、間違いなく「百合もの」というジャンルが存在している。
前期(2022年夏期アニメ)の作品の中でも百合要素を前面に出した『リコリス・リコイル』はおそらく今年一の大ヒットアニメだろうと思われるし、今期の覇権アニメの一角である『機動戦士ガンダム 水星の魔女』や『ぼっち・ざ・ろっく!』も百合ものだし、それ以外にも今期は『アキバ冥途戦争』『ヤマノススメ Next Summit』『Do It Yourself!!-どぅー・いっと・ゆあせるふ-』等々、メインキャラクターのほとんどが美少女であり、百合的な要素が前面にプッシュされた作品は既に珍しいものではなくなった。
これらアニメの百合もの作品の特徴は、多かれ少なかれ「男性性の不在」という特徴がみられる(例えば『リコリス・リコイル』のメインキャラの中で唯一の男性である"ミカ"は女性同士の関係性には介入してこない同性愛者として書かれる)。
つまりこれらの 百合人気はBL人気と同様の「無性性」の表れの一面ではないか、とぼくは見ている(以前アニメ『スーパーカブ』についても、ぼくは主人公の徹底的な「無性性」を指摘した)。
BLにしても百合にしても共通している特徴は「女性性に欲情する男性」という生々しい「現実的な愛」が、物語の中に侵入してこないという事だろう。
要は、このジャンルも、物語から丁寧に「生々しい現実」を想起させる要素を取り除いた「フィクショナルな幻想」の一つなのである。
本書の言葉で説明するならば、ここでは「愛」の形の両面としてある「情愛的側面」と「官能的側面」が分離し、精神的・天上的な「情愛的側面」のみがクローズ・アップされる事で「新しい幻想を生み出し、育て」ているのだと言えるだろう。
上の記述をこのケースに当てはめれば、昨今の百合アニメのヒットという状況は、愛における「身体と肉体の分離」が促進され、愛の「情愛的側面」の幻想がより前面に現れ出てきている現代的な状況を示しているのではないだろうか。
現実の人間とのリアルな恋愛関係の困難さ(経済的・時間的・精神的余裕のなさに起因する)に挫折した現代人は、現実的な愛の「官能的側面」を手放し、「情愛的側面」の幻想をより強化し、そちらだけでも充足していく方向へシフトしているのではないか。
現代の「フィクショナルな幻想」は、ここまで現実から乖離しているというわけである。
その表れの一端としての「百合もの人気」という現象があるのではないだろうか。
◆◆◆
以下、余談になるかもしれないが、今期のアニメの中で最も勢いのある作品『ぼっち・ざ・ろっく!』についても言及したい。
ここで精神分析に絡めて考えたいのは「なぜ最近のマンガ・アニメのヒット作には『陰キャ主人公』が目立つようになったのか?」という問題である。
昨今のアニメのトレンドの特徴として「百合もの」だけでなく、「陰キャ主人公」のヒット作というのも一つの特徴となってきた。
今回取り上げる『ぼっち・ざ・ろっく!』だけでなく、今年は『古見さんは、コミュ障です』や『機動戦士ガンダム水星の魔女』を見ても分かる通り「陰キャ主人公」は珍しくなくなっている(3年前のアニメ『ひとりぼっちの○○生活』も同系統の作品である)。
これは『なろう系』でひと昔前から連載を開始して大ヒット作となった『無職転生』や『Re:ゼロから始める異世界生活』の両作品など「陰キャが異世界転生してチート能力を掴むサクセス・ストーリー」の次段階の流れなんじゃないかな?と思ったのである。
いや、昔のアニメやマンガにも陰キャ主人公はいたよ?と言う意見もあるかとは思うが、ぼくが思うに、最近の「陰キャ主人公」は、昔のものとは傾向が違ってきているのではないかとも思うのだ。
主に『ぼっち・ざ・ろっく!』をメインに考えていくが――最近の「陰キャ主人公アニメ」の特徴の一つは「家族円満である」という点が上げられるだろう。
『ぼっち・ざ・ろっく!』だけでなく『古見さんは、コミュ障です』でもコミュ障の少女は家庭内では問題なくコミュニケーションを交わしているシーンが描かれている。
歴代主人公が軒並み両親と不仲であった『ガンダム』シリーズでさえも、今期の新作『機動戦士ガンダム水星の魔女』では珍しく家庭円満であった。
つまりそれは、主人公が暗い性格になり、人間関係が上手く作れないのは、家庭環境にその原因を見ていない、という事を意味している。
――おそらくここでポイントとして強調すべきなのは、主人公が陰キャになる環境要因があるとすれば、それは家庭内ではなく学校やその他のコミュニティ上での何らかの問題だったのだ、という事だろう。
いじめか、仲間外れか、はたまた単なるぼっちだったのか、それは明確に書かれる事は少ないが――いずれにせよ昨今の陰キャ主人公は、小学校や中学校や部活や塾などといった、家庭外でのコミュニティでの人間関係での外傷体験によってトラブルを抱え、その再起としての高校生活をスタートさせる、というパターンが採られているのである。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』を例にとれば、そこで主人公の再起を阻止するものが、肥大した「フィクショナルな幻想」である。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の巧い点の一つは、陰キャ主人公の「後藤ひとり」と、メインキャラの中の一人である「山田リョウ」の対比にある。
山田リョウは無口、無表情で他人の目を気にせず空気も読まない。他人と仲良くしようという気持ちが薄く、友人が少ないのも一人でいるのも別に苦にならないタイプで、それなのに周囲の人気が高くて人が寄ってくるというタイプ。
それに対して陰キャ主人公である後藤ひとりは人と目を合わす事ができず、他人に話しかける事も困難で高校になるまで友人が一人もできた事がない。趣味であるギターを使って何とかして周囲の人に話しかけてもらおうとするものの結局誰一人友達もできないままというタイプ。
作品を見ると分かるが両者ともに周囲とのコミュニケーションに「トラブル」を抱えているという点では違いはない。だが、そのトラブルの受け取り方が大きく違うのである。
山田リョウはその事をまるで気にせず、友人ができず一人でいる事も特に気にならない。
後藤ひとりは、友達ができず一人でいる事を重く受け止めていて、友人が欲しいのに全くできずに悩んでいる。
精神分析学的に言えば、後藤ひとりは、自らのリビドー(他人と繋がりを持ちたいという欲動のエネルギー)を周囲に向けても、それを充足させてくれる対象がおらずに空振りし、満足されずに常にストレスを抱えてしまうタイプだ。
持て余すリビドーは勝手に消えてなくなったりはしない。どこに行ってしまうのか?
そう、後藤ひとりは自分の趣味であるギターの練習に熱中し、更にまだありあまるリビドーをネット配信でフォロワー数を稼ぐという代償行為(友人が増えた気分に浸る)に注ぎ込んでしまうのである。
あげく後藤ひとりは「現実の人間関係のような相互性と現実性を欠いているので、幻想が検証され、修正される機会がないばかりか、新しい幻想を生み出し、育て、幻想と現実の混乱や混同を引き起こしかねないということになろう」という問題そのままのこじらせかたをしていく。
彼女は作中ずーっと「普通の友人はこういう事をするものだ」や「お家に友人を呼んだらこういう事をするに違いない」という、マンガやドラマで見た友情シーンの「フィクショナルな幻想」に支配されたまま、その事と現実とのギャップに苦しむのである。
そして、最近の「陰キャ主人公アニメ」のもう一つの特徴――そしておそらくこれが顕著な特徴だが――は、これらの作品が「陰キャのまま周囲に受け入れられる」というパターンを採る事である。
昔のマンガ・アニメの陰キャ主人公――例えばクラスの爪弾き者、変人、いじめられっ子といった主人公であったならば、彼らは何か大きなことをなし、クラスの皆から見直されて、多かれ少なかれ陰キャを克服するという形で成長するというパターンがあった。
だが、『ぼっち・ざ・ろっく!』の後藤ひとりや『機動戦士ガンダム水星の魔女』のスレッタ・マーキュリー、『古見さんは、コミュ障です』の古見硝子は、陰キャである事を克服しないまま、周囲の人物らに受け入れられていく。
陰キャが、陰キャのまま周囲に受け入れられる。
そこが、おそらく昨今のヒットアニメの「陰キャ主人公」の大きな傾向になってきているのではないかと思うのである。
その裏に潜んでいるものは「陰キャが、陰キャを克服して陽キャになるのはムリがある」という感覚である。
社交的な明るい性格になり、クラスや職場といった所属組織内の評判も良くなり、友人知人をたくさん作る事。――そんな人物になる事が「勝ち組」の条件であるかのような状況への、諦念に似た冷めた感覚。
こういった感覚への、視聴者の共感があるのだろう。
だからこそ「陰キャのままの、このダメな私をそのまま肯定して受け入れてくれる友人たち」という状況が、新しい理想的な状況のイメージとして視聴者に受けているのではないだろうか。
それは逆に言えば、陰キャが何か大きな事を成し遂げて周囲の評価が一転し、一躍注目の人となる――といったような「弱者よ、強くなれ」的な華々しい勝ち組のサクセス・ストーリーに共感が持てなくなってきているという事をも意味しているのではないか。
時間的にも、経済的にも、精神的にも、とかく余裕のない世知辛い世の中である。ストレスの持って行き場がなく、ぎすぎすしたクラスや職場では、トラブルは多発しているかもしれない。いつ「負け組」に転がり落ちてもおかしくはない。
そんな過酷な環境によって起こされた外傷体験によって、また一人、後藤ひとりのような人物が現実にも生まれてきているのかもしれない。
そんな、社会全体に蔓延する「充足できない持て余したリビドー」はどこに行くのか?
例えば後藤ひとりのように、押し入れの中に自らの世界を作り上げて閉じ籠り――ネット上の「フィクショナルな幻想」に充足感を求めて、のめり込んでしまう――そんな彼女を、アニメのファン層は「同じ陰キャとして」受け入れているのではないだろうか。
様々に自らを癒し励ましてくれる各メディアの過保護な幻想によって肥大化してしまった「フィクショナルな幻想」と、現実の過酷な社会環境とのギャップに苦しんでいるのは、おそらく後藤ひとりだけではないのであろう。
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