◆読書日記.《エトムント・フッサール『内的時間意識の現象学』》
<2019年10月4日>
フッサールの超越論的現象学と心理学というのは「人間の内面」という非常に似通ったものを探求する学問だが、フッサールは現象学をハッキリ心理学から区別している。
心理学はいわゆる超越物を肯定して超越的な視点から、つまりは人間の「外」から人間の内面を観察しようとする学問である、と。
それに対してフッサールの超越論的現象学は、人間の内面を、「外」をシャットアウトして内面から観察するという学問である。
だからこそ「外」からの影響をシャットアウトする方法論――「エポケー」が現象学では重要になって来るのだし、これについては非常に難しい方法論的な定義が必要になってくるというわけなのだ。
現象学と心理学の違いを、フッサールは他にも「体験」と「経験」の違いだと、非常に微妙な言い方で説明している。
心理学的な「経験」とは、人間の行いに対して「外」の現実性を組み入れるのに対して、現象学的な「体験」とは、人間の行いに対して「内」側の現実性のみを考慮する事だという意味が含まれている。
つまり、フッサールの超越論的現象学が問題とする「時間論」というのは、おのれの内面でのみ体験される「内的時間意識」というものが、どのようにして現象しているのかということを観察・分析していく事となる。
それがぼくが今読んでいる『内的時間意識の現象学』の現象学的方法論だと言っていいだろう。
<2019年10月5日>
時間というものは「一瞬が連続している状態」なのかそれとも「"今"という、幅のある連続体」なのだろうかという議論は、まるで時間を物体のように分けたりくっつけたりする考え方で、背理ではなかろうか。
その点、若干の違和感を覚えていたのだが『内的時間意識の現象学』を読みすすめていくと、その違和感がぼくのほうの勘違いという事が分かってきた。
あくまで現象学は「自分の外=人間の脳の外側」の事については考えない、という姿勢を貫いている。だから、「自分の意識外」で流れている客観的な時間とは別の「自分の意識内の時間現象」について議論しているのである。
つまり『内的時間意識の現象学』は時間論であって時間論ではないのである。
現象学的に「時間」を考えるという事は「客観的に流れている"時間"そのもの」を考えるという事ではなくて、あくまで人間の内面から「"時間"というものを"ある"と感じ、"時間"を構成しようとする人間の意識の仕組み」の謎に取り組もうという姿勢が、フッサールの超越論的現象学による「内的時間意識」というものだったのだ。
<2019年10月6日>
人間の「内的時間意識」というのは、気を失うと途切れてしまう。失神している間、人は「時間」を意識する事がない。
そこで目が覚めた時改めて日の傾きが違うとか今まで意識が分断していたという事実などの状況で時間が経過している事に気付き、初めて自分が失神していたと知る。
自分の意識がない状態の時に、人は「時間」を意識する事ができない。だから、失神するとまるで「時間をスキップした」かのように感じられる。
つまり、現象学で言う所の人の「内的時間意識」というのは「意識がある状態」でこそ初めて成立する時間であり、我々の意識の継続状態の事を言うのである。
こうして見てみると我々の「内的時間意識」というのは、人の脳の外側に流れている「客観的時間」とは別物だという事が良くわかる。
我々は「外」の「客観的時間」を確かめる事で、我々の「内的時間意識」をその時々に修正しているのである。
時計や日の出日の入りを見なければ、人は自分が何時間寝ていたか分からない。
で、……詳しくはネタバレになるから言えないが、綾辻行人の「あの作品」なんかは、この「客観的時間」と「内的時間意識」とのズレを推理小説的なトリックという形に変換した、なかなか面白い思い付きの作品だったのだなあ、なんて思った。
<2019年10月7日>
フッサールは現象学的に時間を考える際「音楽」を具体例として説明しているが、これは「時間」を考える上ではなかなか良い例ではないかと思う。
メロディは何故「ド」と「レ」と「ミ」という音が連続して出ているという認識でなく「ドレミ」が連続した「メロディ」として認識されるのかというのを問題とする。
例えば、1分間の音楽を百倍に引き伸ばして100分間の音楽にしたとしよう。そうしたらそれはもはや「メロディ」という認識を失ってしまう。
それは単に「"長い音"が連続して鳴らされている様」にしか聞こえないだろう。「ド~~~~~~~~~~~~~~~~~~、レ~~~~~~~~~~~~~~~~~~、ミ~~~~~~~~~~~~~~~~~~」ではもう「メロディ」には聞こえない。
では、何故メロディは引き延ばしただけでメロディではなくなってしまうのだろう。
これはひとえに「音の連続」を「メロディ」と認識できるのは、過ぎ去っていく「ドレミ」を人間の短期記憶が把持しながら聞いているからで、短期記憶が把持しておける時間内の音関連を「メロディ」として統合しているからなのだろう。
つまり、人がメロディをメロディと認識できるのは、そのメロディの時間が、人間の短期記憶の音を把持しておける時間内に収まっているかどうかにかかっているのではないだろうか。
先ほど例示した百倍に引き延ばされたメロディでは、短期記憶が「メロディ」として把持しておける限界を超えているから、「メロディという音階の塊」という認識が失われてしまうのではないかと思うのだ。
人間の「内的時間意識」というのもこういう機能があるのかもしれない。
つまり、「今」というのを人間はある「ひと塊の時間のまとまり」として統合し「今」という認識を得ているのではないか、という見方だ。
<2019年10月8日>
フッサールの超越論的現象学というのは、そもそも「全ての学を基礎づける学問」として構想されたものなのだが、本書を読んでいるうちにだんだんとその意味が実感として理解できて来た。
フッサールは時おり現象学の説明をする際、前著の『論理学研究』の記述に戻って説明する事がある。
これはフッサールの言っている「全ての学を基礎づける学問」としての現象学に、広く学問に通底する科学的思考であり論理学的思考を基礎づける役目を負わせるために、関連付けを行っているという事なのだろう。
例えば論理学は「AはBである」という命題形式を利用し、論理を組み立てていくという作業を行う。
この「AはBである」という命題は論理の中でも最もシンプルなものなので、例えば「このコップは物体である」などという命題を立てた場合、これ以上真か偽か検証するまでもない明確すぎる「真の命題」となる。
勿論「このコップ」は当人しか見えていない幻影かもしれないという可能性もあるだろうが、そんな事まで疑ってしまったら日常生活を送れないし、論理学なんてものも成立しない。
だがフッサールは「このコップは物体である」という当たり前すぎる命題を、現象学によってさらに基礎づけ正当化しようとするのである。
「このコップは物体である」から始まって様々な論理をくみ上げていく論理学の操作を、フッサールは「人間の高次の判断」だとする。
「高次の判断」だからこそ、その前段階の判断も存在している。それを現象学が担って、それによって「論理」という人間が行っている判断を「正しいものだ」と基礎づけようというのだ。
ぼくがフッサールの文章から受け取った『論理学研究』と『超越論的現象学』との関連構造と言うのは、およそ上記のような形となっていると見ている。
本書に書かれている「内的時間意識」も谷徹『意識の自然』に書かれた解説を事前に読んでいたおかげでだいぶ理解し易い。
<2019年10月9日>
「内的時間意識」を説明する際、フッサールは人が時間を感じる認識システムを「ある種の"幅"として受け取る形式」として捉えているのが特徴の一つでもある。
「幅」とは例えば「今」という認識を「一瞬」ではなくある幅を持った時間の束としてみる考え方だ。
つまり、人が通常「今は〇〇だなあ」と言った場合の「今」というのは、「今」と感じたその一瞬の事ではなく、ある種の「時間の幅」を持たせて認識しているという事。これが、人間の「時間」を感じる際の特徴にもなっている。
人は一瞬一瞬を経験しているのではなく、それらの時を連続した時間として「統合」しているのだ。
これは『イデーン』からも続いている人の認識システムの説明とも一貫している考え方だ。
人は様々な器官から様々な知覚を得たうえでそれを「統合」して認識しているというフッサールの超越論的現象学の基本的な考え方である。
それがつまりはフッサールの重要概念である「ノエシス-ノエマ」を用いた「志向性」というものの意味ともなっている。
ということでこの「志向性」は「内的時間意識」にも働いているとフッサールは説明する。
先日も例に出したように「メロディ」というのを、ドとレとミといった音階たちがバラバラに連続しているのではなく「メロディという音の纏まりとして認識している」のは、人が時間経過を「統合」して認識しているからなのだ。
この認識システムを脳科学的に説明すると、人は時間の流れをワーキング・メモリによって「幅」として認識し、常に原印象-把持という幅を持たせて「今」という時間の流れを意識し生活していると言えるだろう。
人が時間を「一定の幅を持った流れ」として認識するのは常に前後の時間を把持する認識構造を持っているからなのだ。
<2019年10月10日>
以前の呟きでも紹介したが、視覚には「空間分解能」と「時間分解能」という能力の区別があって「視力」である空間分解能は、例えばハエは人間の何十分の一の視力しかないが、時間分解能ではハエは人間の何倍もの能力を持っていると言われる。
蛍光灯は1秒間に100回点滅を繰り返しているそうで、人間の目にはそれが「点灯」しているように見えるが、ハエにはそれが「点滅」しているように見えているという。
また、ハエにとっては映画館の映画は静止したコマが順々に捲られていくスライドショーのようなものにしか見えないそうだ。
これが人間とハエとの「内的時間意識」の違いだ。
また「音」を例にとってみれば、それは早すぎても遅すぎても「メロディ」にはならなくて、人間の内的時間意識にマッチしたスピードでないと「メロディ」という「音階のまとまり」にならない。
つまり人間の内的時間意識にはスピード限界があるという事なのだろう。
人間は脳の処理速度の限度内――現象学的に言えば内的時間意識の限度内――のスピードを「普通のスピード」と感じていて、それが人の内的時間意識の基準になっているようだ。
コマ送りはスピードを上げると「静止画」がまとまって「動画」となる。つまりは「統合」してしまうのだ。脳科学的に言うと脳がそういう風に「編集」している。
人の認識システムを「ある種の統合作用」だと考えていたフッサールの超越論的現象学の考え方と言うのは、そういう点を考えてみると当たらずとも遠からずという部分があったのではないかとも思える。
<2019年10月12日>
エトムント・フッサール『内的時間意識の現象学』読了。
フッサールによる1904年~05年ゲッティンゲン大学で行われた講義を基にした超越論的現象学の時間論。
「時間論」と言っても、前にも呟いた通り「時間そのもの」については現象学の射程にはない。本書はあくまで人の内面にある「時間現象」を研究する。
本書でもフッサールが『イデーン』で打ち出した「志向性」を基本線に踏まえて説明している所が面白い。
人は時間を様々な知覚とその認識作用を「統合」して「時間」という感覚を作っているのだと。
それは「今」という意識を持った感覚である「原印象」があり、その感覚は過去に流れ去っていくものの、ある程度の記憶を保持しながら流れていく。
その過去に流れた「原印象」をキープしているものを「把持」と言い、また人は未来からの時間の流れを「予期」している。
この「予期-原印象-把持」からなる人間の内的現象を「時間の場(時間野)」として構成しているのがフッサールの時間論の特徴の一つでもある。
例えば「ド」や「レ」や「ミ」などの音階が連続して流れているのを人が「メロディ」という「時間的幅を持った音階の塊」として認識しているのも、常に流れていく原印象をある程度の幅を持って把持し、流れ行く「ド」と「レ」と「ミ」というそれぞれ把持している原印象を「統合」しているからだと言えよう。
人間は未来から時間が流れて来ることを予期しているし、流れ去った過去の記憶を「過去のもの」として心の中に思い浮かべて検証したり、といったような作業を通じて自然と過去-現在-未来といった直線的な時間の流れを意識しているのである。
で、この予期したり過去のものを思い浮かべる事を本書では「準現在化」と言っている。
人は基本的には原印象によって得られた知覚の反復や変様――これも「準現在化」を行っているという事だが――を行うことによって様々な判断を行うようになる。
その判断が「AはBである」という命題を措定するに至る。つまりは論理学の元になる思考作用に「準現在化」が関わっているという事になる。
このようにしてフッサールは超越論的現象学による時間野の構成作用を論理学に接続する。それがフッサールが言っている「論理を基礎づける」という事に繋がって来るのだ。
この「論理の基礎付け」や「学問の基礎付け」という考え方はフッサールが超越論的現象学を打ち立てるにあたって重要視したポイントでもあった。
晩年の主著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は、このテーマについて論じた著書でもあった。
第一次世界大戦のような大戦争に科学技術が用いられた事によってヨーロッパは甚大な被害を被った。
その他にも、マルクスが主張していた問題――大量生産によって工場で"機械に仕えて"働かされる未熟工の重労働――等々、われわれの暮らしを豊かにしてくれるはずの科学が、その科学技術が、科学的なものの考え方が、そしてその科学的な考え方を支える論理というものが――そもそも正しいのかどうか、といった西洋的「知」の信頼性が揺らいでいた時期に、フッサールはこの著作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を記した。
だから、フッサールは啓蒙的学問の根幹である科学的思考を正当化して基礎づけるための学問である「現象学」を確固としたものにしなければならなかったのだ。
フッサールはもともと数学を勉強していて、大学の学位論文も数学だった。
フッサールは数学基礎論に興味を示していたという事もあるので、さしずめ現象学は「科学/論理学基礎論」という捉え方も出来るだろう。
確かにフッサールが哲学に転向して著した初期の著書『論理学研究』はそういった性格も持っていた。
「現象学は科学的思考/論理学的思考を基礎づける学問である」という前提は非常に重要だ。
竹田青嗣&西研の『現象学研究会』の方々の説明は、そういった科学と現象学の繋がりがアヤフヤな面があるというのはあるだろう。
だが、今から思えば竹田さんの「現象学は人間の確信構造である」という捉え方は、実に分かり易い上に、現象学と言う学問に入っていくには意外と良い切り口だったのではないかと思うのだ。
西さんの現象学関連本を読むと「これでホントに現象学が理解できるの?」と思わなくもないのだが、入門編としては良質だし、何より現象学を現代に生かす方法を優先して考えている所が優れていると思う。
日本のアカデミックな哲学研究と言うと、原書を原文で読みながら「フッサールが本当に言いたかったことは何だったのか?」というのを研究し、「フッサールの用語をいかに日本語に訳すのが適切なのか」というのを考える「翻訳問題」が前面に出すぎてしまっているのではないかと思うのだ。それが、つまらない。
テオドール・アドルノも言ってるように、過去の哲学者の思想を参照する際に重要なのは「その哲学が現在、何が当てはまって、どこが古びてしまっているか」ではなく、我々の現状がその哲学者の目にはどう映るか、その哲学者が現状生きていたらどういう思想を打ち立てるか、そういったような視点のほうがずっと重要なのではないかと思うのだ。
哲学は学ばれるものではなく、生きられるものだという考え方を再度心したいと思う。
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