◆読書日記.《新宮一成・立木康介/編『フロイト=ラカン』》
※本稿は某SNSに2020年4月26日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
新宮一成・立木康介/編『フロイト=ラカン』読了。
本書は精神分析の始祖フロイトの思想を、難解を以て知られるラカン思想との結びつきを説明する一冊!
前にも言ったかもしれないが、ラカンは常に「フロイトへ帰れ」と主張していたにも拘らず、フロイト自身の作り出した用語をあまり使っていないというのが以前から謎だった。
フロイトの重要概念である「エディプスコンプレックス」の話もないし、「自我」という言葉さえもあまり使っているイメージはない。
何故なのか?
そして、ラカン思想の中でのフロイトの位置づけとはどういったものだったのか?
ぼくの中でのそういった長年の謎を解決してくれる手引きとなってくれるかもと期待して読んだ。
結果、半分は解決。もう半分は未だに謎が残っているといった感じだろうか。
ラカンはフロイトを継承しているつもりで独自の精神分析学派を作り上げたが、フロイトを「そのまま」に受け継いだわけではなく、ラカンなりの「読み」をすることでフロイト思想を基礎づけ、再発見し、その上で再創造したと言って良いだろう。
どういう事か?
ラカンはフロイトの精神分析を「精神分析そのまま」に読んだわけではなかったのだ。
ラカンはかなり広範な知識を備えた知識人だった。
そのためラカンはフロイト思想を様々なジャンルの知見を大量に導入していく事で「新たな読み」を行い「フロイトさえ気づかなかったフロイト思想」を浮かび上がらせた。
そのベースとしてラカンはソシュールの構造言語学を涵養しながらフロイトを読み解いていく。
それがラカンの有名なテーゼ「無意識は言語として構造化されている」に結実するのだ。
先日も無意識の住まう象徴界には「大文字の他者」が導入されていると説明したが、この大文字の他者というのはシニフィアンの構造体に他ならない。
人間と動物を分ける精神上のシーニュの特徴は何だろう?
「構造的に構築されている言語」を人間同士が利用してコミュニケーションを取り合っているという点だと言えるだろう。
ラカン的には人間は言語を学んでいく事によって「人間的な」意識を構築していき、それによって人間独自の精神構造が作られると考えたのだ。
しかし、この「言語」というのは自分の中から湧き出してきたものではない。「言語」はもともと「他者の語らい」を学んで自分に取り込んだものなのである。
言語(=他者の語らい)を幼児期から自に取り込んでいく事で、人はおのれの無意識を作り上げている。という意味で、ラカン思想では「無意識」を「他者の語らい」とするのである。
といった形で、フロイト思想では「無意識」として語られていたものを、ラカン思想ではソシュールによってその概念を読み解く事によって「他者の語らい」という概念にブラッシュアップしている。
そういったようなフロイトーラカンの関係性を本書では説明していくのである。
もちろんラカンがフロイトを読むために利用する武器はソシュールだけではない。
それはレヴィ=ストロースの構造主義であったりヘーゲルの弁証法であったり、果てはプラトン、カント、ハイデガー、数学の集合論まで導入してくるのだ。
このためにラカン思想は精神分析的な肌触りがなく、どこか哲学的な装いがあるのだ。
ぼく個人としては、本書での収穫は何と言ってもラカンの「現実界」の捉え方が、カントの「物自体」の考え方から来ているという事を理解した事が大きい。
これはつまりフッサール的には「超越物」として「現実界」を見ていたことになるし、これらの見方が西洋思想の伝統的な認識論の考え方に連なっていると理解できた。
ぼくとしてはこれでラカンの重要概念である「現実界ー想像界ー象徴界」の三幅対の謎がある程度理解できるようにはなれたと思う。
確かスラヴォイ・ジジェクはこの三幅対の位置関係をチェスに例えていた。
人間は自由意志で動いていると考えているものだが、ラカン思想では無意識~象徴界の規則によって縛られているとしている。
つまり、我々が言語を学んで「現実界ー想像界ー象徴界」の秩序をインストールするという事は、自分がチェスの駒になり、自由に盤面のうえを動いているような意識でいるのだが、その実チェスの盤面上のルールによって駒の動作は予め決められている、我々は「そのルール上では自由」であるにすぎないという事なのだ。
本書ではこれを次のように説明している。
「私たちにとって、社会に住まうことは言語の場に住まうことに等しい。だが、「言語の場に住まう」とは、かならずしも私たちの側の能動的な選択を意味するわけではない。言語の場は常にすでにそこにあり、それが私たちを捉えるのである。そこでは、私たちが言語を操っているという意識が生じる以前に、私たちの存在自体がそもそも言語によって、より正確にはその「構造」によって、規定されている」
ラカンやフロイトで共通している精神分析の基本的な考え方は「人間の意識に対する無意識のほうの優位性」である。
この「無意識の優位性」をフロイトは人間の理性による「ナルシシズムへの三つの打撃」と表現した。
最初にコペルニクスの地動説によって、人は地球が宇宙の中心ではないと知った。
次に、ダーウィンの進化論によって、人間は神に直接デザインされた選ばれた種でなく、無目的な進化によって生まれた偶然の種と知った。
三つ目にフロイトによって人は、自分の意識が自分の精神の中心の存在ではない、自我は自分の家の主人ですらないという事を知った。
フロイトやラカンによって、人間の自我は自らの中心から追い出されてしまったのだ。
哀れ、斯くして人はフロイト以降、自分はチェス盤の駒の一つとなってルールに従っていたのだと理解した。
本書の前半部分のこういったフロイトーラカンのラインをつなぐ用語解説は、両者の間に空いた深淵な溝を埋めて見通しを良くする良い解説だったと思う。
しかし、本書が「編著」であったためか、後半も含めると全体の纏まりはやや散漫といった印象を受ける。
特に後半「三次元で読むフロイト=ラカン」では、文化や宗教、メディア、歴史、経済、芸術、臨床医学と幅広い分野に対するフロイト=ラカン思想それぞれのアプローチを紹介するが、この部分がやや「思想の並列感」があり、精神分析があらゆる分野に適応できる柔軟な考え方だという事は分かるのだが、フロイト=ラカンの繋がり自体を強化するものでないというのが残念。
しかし、フロイト=ラカンを繋ぐという切り口で精神分析の考え方を解説していくという本書のコンセプトは、特に異常な難解さをもって知られるラカン思想への理解をより深めるための良いテクストとして評価できるものだと思う。
◆◆◆
ラカンの精神分析理論の中でもぼくの中で様々な精神科医の意見を聞くたびに印象が変わるのが「人間の欲望は他者の欲望である」という有名なテーゼだ。
これは色々と考えさせられる反面、未だにその意味を完全にはつかみかねているという意識がある。ラカン思想の重要なポイントは「他者という存在の謎」にあると思うのだ。
本書でも前述のテーゼは「人間の欲望は"大文字の他者"の欲望である」と書いてあって、こちらのほうが幾分分かり易いと感じられる。
でもまだこの「大文字の他者」という概念もまた説明してくれる人の意見を聞くたびに印象が変わる。
これはより多くの解釈を総合して自分の理解の精度を上げていくしかあるまい。
これもぼくなりの理解だが、ラカンからしてみれば自己のアイデンティティの正体は「他者像」でもある、と言えるかもしれない。
人は「自分は自分だ。自分は他の誰でもなく《個人名》という一人の人間だ」という強固な認識をどこで得ているのか。
その一つが「鏡に映った自分の姿」であるというのはあるだろう。
例えば、よくマンガやアニメであるシチュエーションに「肉体と魂が他人と入れ替わる」という設定の物語があるが(『ココロコネクト』『パンチライン』『山田くんと7人の魔女』『君の名は』等々)、「入れ替わりった」というのはどうして分かるのか?
鏡に映った自分の姿を見て、まるで自分の顔でない姿が映った場合に「あれ?これ、俺?なんで?」といった感じで「自分が変わった」と自覚するだろう。
具体的に言えば、アニメ映画『君の名は。』で主人公の男の子とヒロインの女の子の両者の肉体と魂が入れ替わったあのシチュエーションを思い出してもらえれば良いだろう。
つまり、我々が普段何気なく見ている「鏡」というものの正体は、実は自分自身の自己同一性を保証している重要な要素となっているのではないかと。
しかし「鏡に映った私の像」というものは、あくまで「外部から到来してくる像」であって「私が"直接"私を見ている私」ではない。
それは正確に言えば「他者からすれば私はこのような形で見えているようだ、という事が確認できる像」でしかないのだ。
この辺の説明を『知の教科書 フロイト=ラカン』から引用してみよう。
「鏡が私に差し出す像は、それが鏡の前にいる私にいかに似ていようと、私の存在の外部から私に到来する(しかも左右の逆転という光学的変形を伴って)ものであるかぎり、あくまで一つの他者の像であり、母親や兄弟、さらには同じ「人間」という名で呼ばれるいっさいの対象の像と権利状なんら変わるところはない」
私は私のことを「直接見る」事は出来ない。必ず「鏡」や「他者」という、「外部のもの」を経由する事でしか自分自身を見る事はできないのである。
つまり「私」にとって「鏡像」というのは「他者から差し向けられている視点」を示唆する像なのだ。
前述したように、人は「鏡に映った自分の姿」を「自己同一性の重要な要素」としているという事は、「自己同一性」「自分のアイデンティティ」というのは「他者の視線を通じて保障されている」ということ、もっと言えば「自己像に基づく自己同一性は、他者像によって規定されている」という事だともいえる。
ラカンの思想では、このように「自己(ラカン用語では「主体」と言う)」とは、他者であるものを自分の中にどんどん取り入れることによって作り上げられていくものであり、自分を規定している欲望というものも、他者の欲望を自己に取り入れていきながら作り上げられていく、という風に考えていたのではないかと思う。
それがつまりはラカンのテーゼである「人間の欲望は他者の欲望である」の意味になっていくのではなかろうか。
……このように、ラカンの精神分析的な視点というのは「他者」というものが非常に大きいウエイトを占めている。「超越論的主観」にある「私」にとって、「他者」という存在は、それだけ大きな謎なのである。
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