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◆読書日記.《小林朋道『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』》

※本稿は某SNSに2020年5月29日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 小林朋道『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』読了。

小林朋道『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』

 著者は鳥取環境大教授で専門は動物行動学。タイトルからして脳科学的な本なのかな?とちょっと勘違いしていたが、あくまで本書は動物行動学のスタンスから人間の脳(というか行動や認知能力)のクセについて考える動物行動学的人間論である。

 そして、もっと学術的な本かと思ったら、けっこうエッセイ的な要素が多くて軽くて読み易い本だった。

 著者の狙いの一つとしては、人の脳のクセについて、動物行動学や進化生物学などで分かっている生物学的な知見を元にして「他の動物との違い」からその「人間らしい特性」を浮き彫りにしようという試みがあるようだ。

 で、本書はそれを説明するために何らかの特別な実証実験をしているわけではなくて、あくまで著者なりの知見の集積による分析がメインに行われる。

 『脳のなかの幽霊』のラマチャンドランの言い方を借りれば「ガリレオ(実証実験)的」ではなく「アリストテレス(観察-分析-考察)的」なアプローチだと言えるだろう。

 著者の考えは動物行動がの祖と言われるコンラート・ローレンツの「現代生物学の立場から見たカントのアプリオリ論」という、カントのアプリオリ論の生物学的視点からの反論に立脚したスタンスからの考察となる。
 カント的な認識論はあくまで人間は外界を「正確には」認識できない、とするスタンスだ。

 それに対してローレンツの反論は、人間を含めた生物の認識は外界の世界から乖離したものではない、正しい世界の姿を反映した正しい認識世界観を持っている、という考えにあるそうだ。

 ただし、その認知世界は「その生物の生存戦略上必要となる知覚の部分のみ」を切り取って認知しているが、という但し書きがつく。

 その「生存戦略上必要となる知覚のみ」を切り取っているからこそ、生物の種ごとに認知方法や切り取り方が違っているのだし、つまりはそれが著者の言う「脳のクセ」というものにあたる。

 で、その人間の脳のクセの基本を著者は人間の古来の生活環境(自然環境と社会環境)を元にした「狩猟採集生活」にあると見ている。

 つまり、著者の主張する現代人の脳のクセとは古来の「狩猟採集生活」を行う上で生き残っていきやすいように発展してきた認知能力が今も残っているのだという仮説の元に説明されているのだ。

 例えば現代人の精神病の内「特定恐怖症」の対象となり易いのは猛獣や蛇、蜘蛛、高所、水流、落雷、閉所、等なのだそうだ。

 これらは「狩猟採集生活」を行っていれば古来の民族であれ現代の自然民であれ、死傷の原因となり易い要素なのだが、実際に現代人に多い死因の大半を占めるのは自動車、刃物、電気、銃など自然災害とは違ってきている。

 それにも関わらず、人の認知能力にはそういった猛獣や水流に対する潜在的な恐怖が埋め込まれている。

 そうなっているのは、古来の「狩猟採集生活」を行っていた頃に出来上がった脳の認知回路が、未だに根強く現代人の脳には組み込まれているというからなのだという。

 何故なら、我々ホモサピエンスの歴史の実に9割以上が狩猟採集の生活だったためであり、その頃の脳のクセというのはそう簡単に変化しないからだという。

 つまり著者の主張としては、我々ホモサピエンスの脳のクセというのは、狩猟採集生活の頃のクセがそのまま残っているのであり、そういったクセは人間が社会環境/自然環境の中で自分達の子孫(ひいてはDNA)を生き延びさせていくのに必要な能力や認知を得る生存戦略のために作り上げた脳回路のクセなのだと。

 という事なので、我々の脳機能というのは、「人間が狩猟採集生活を行う上で都合の良いような作りになっている」と考えれば、色々な機能の説明がつく、という観点で著者は8章にそれぞれ別々のテーマを立ててその仮説を分析/考察していくのである。

 で、この分析/考察がイマイチ学術的な感じではなくて、どこか「いい話を聞いたナ」といった感じなのが、読み物としては面白いものの、学術書としては若干の物足りなさを感じるのだ。

「人間というのはDNAが自分を延命させるために作り上げた乗り物のようなもの」という結論も、ちょっとありふれている。

 とは言え、著者専門の生物学や生物行動学の知見と言うのはなかなか参考になる話が多くてためになった。

 本書で紹介されている事例としては、例えばアメリカの生物学者L・デュガトキンによるラテンアメリカ原産のカダヤシ目カダヤシ科の魚グッピーを使った実験などが面白い。

 デュガトキンはグッピーが捕食魚との遭遇下での生存率を調べたのだという。
 デュガトキンはグッピーを肉食魚に会った時の反応によって「臆病(すぐ隠れる)」「普通(泳いで逃げる)」「大胆(天敵の様子を覗きに行く)」の3タイプに分け、それぞれの行動によってどれほど生存率が変化するか調べたのだという。

 その結果「大胆なグッピー」は全滅し、「普通なグッピー」は15%残り、「臆病なグッピー」は40%残ったという結果が出た。

 著者によればイギリスの生物学者リチャード・ドーキンスも同様の事を言っているそうで「たとえば、ヒトが森の中で、前方の草むらからカサカサという音が聞こえたり、黒い影が木と木の間を移動したように見えたとしよう。そのとき、悪い状況を想定して不安になり、すぐ逃げられるような準備をする個体のほうが、はっきりと対象を確認できるまで不安を感じない個体より、結局は生き残りやすい」と言っているのだそうだ。

 つまり、結局臆病者で警戒心の強いほうが生存率は高いのである。

 ある著述家も述べていたが、日本人はどうも臆病者をバカにして「自分は少しも怖がっていないぞ!」という事を誇らしげにアピールするタイプの人間が多いのではないだろうか。
 これは悪い文化で、不安がり怖がる人間を馬鹿にすべきではないと思うのだ。怖がるほうが「生存戦略」上は、正しいと。

 例えば、外国人が日本のホテルに泊まっている時、日本人なら全くビビらないほどの弱い地震が来ただけでも強烈に怖がってすぐ避難してしまうのを馬鹿にする日本人もいるが、この場合はむしろ外国人のほうの反応が正しくて、地震を警戒しなくなった我々日本人のほうの警戒心が麻痺しているのではないかとさえ思うのだ。

 まあこれは半分、超ビビリのぼくの性格を自己弁護してるのだが(笑)、「生存戦略」として危機に対してビビる人を馬鹿にしたり、未知の事態に対して「こんなの大した事ないよ」と笑うような文化は、確かに危険なのかもしれない。
 勿論、このコロナ禍の危険性についても同じ事が言えると思うが、如何だろうか。


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