尾形百之助を『ゴールデンカムイ』内の親子関係の比較から読みとく
※20巻までのネタバレがあるよ!!
なぜ尾形の行動や感情表現は読み解くのがこうも難しいのか
尾形は難しい。自分に構ってほしかった父母を殺したり、アシリパの相棒のようにふるまったかと思えば、自分を殺させようとしたり、殺さないといわれるとアシリパ(小文字のリが入力できないので以下表記はアシリパで統一する)に銃を向けたりする。尾形の欲求とそれを成就させるための行動は逆転している。まっすぐではない。殺しちゃったらいよいよ構ってもらえないし、銃を向けた人間とは普通相棒にはなれない。この記事では尾形がなぜここまでひねくれてしまったのか論ずる。
『ゴールデンカムイ』内の親子たち
(図1)親子関係と「大事にする」「ひどいことをする」「「無視する・構わない」をする」の矢印。矢印の種類を決定する根拠になる作中での行動や言動を書き添えている。
読みにくい図で申し訳ない。(図1)は尾形について考えるときに比較対象になる親子関係を示している。ひだりから江渡貝家、鯉登家、尾形の血縁、アシリパの血縁内で、血縁内の構成員同士が相手にどう接してきたかを描いている。江渡貝くんと尾形は、ともに親からひどい仕打ちを受けて苦しんでいる。音ノ進、尾形、アシリパはともに偉大な父を持ち、その後継者となることを周囲に期待されている。構造に共通点をもちながら、尾形の周囲の人間への感情の表現は、ほかの三人のまっすぐさとは違い、ひねくれていて読み解くのが難しい。
特に、江渡貝くんと音ノ進、尾形では、鶴見中尉へのなつき度合いがちがう。音ノ進はともかく、親と親しさを持てなかった江渡貝くんと尾形にとって、鶴見中尉は初めて自分を認めてくれた人間なのに、前者はべったり依存、尾形はなつき度0という正反対な違いは何から生まれるのか。
これは鶴見中尉の「人たらし術」の性質によるものである。鶴見中尉は戦争大好き人間ではあるが、部下や協力者にはとても理解が深く優しさを持ってふるまって人をたらしこんで利用している。鶴見中尉が「人たらし術」を使えるのは、本人が人の心がわからずただ目的のために人間の情や行動について研究したからというわけではないことが、18巻でスパイ時代に彼が愛のある家庭を築いていたことからわかる。彼はフツーにいわゆる人の情がわかるし、前頭葉が吹き飛んだ後もそれは変わらなかったのだ。
(図2)長谷川(鶴見)家の関係。左は妻子が誤射により殺されたときの表情である。
あの鶴見中尉すら「大事にする/される」関係の中にいることができる。江渡貝くんはひどい過干渉のなかにいたが、逆に親に無視されることはなかった。音ノ進は見捨てられ不安はあるが、「大事にする/される」関係の中にいることはできる。だからこそ鶴見中尉は、人と人の間には相互に作用する正なり負なりの感情があって互いがそれに動かされるという前提で、それぞれへの甘い言葉を考え出し、江渡貝くんや音ノ進をたらしこむことができる。
尾形だけは鶴見中尉の甘言に篭絡されない。尾形だけは、「大事にする/される」関係の中にいないうえに、父からも、そばにいた母からも、注意を向けられなかった。父を求め続けていた母を、尾形は殺して父に葬式に来てもらおうとするが、父は来なかったのである。彼は人が人を大事にすることが受け入れらるところも観察したことがないし、自分の母を大事にする行動も、母に全く受け入れられなかった。尾形の対人関係の経験は、鶴見中尉の「人たらし術」の前提から外れているので、なびくことはないのである。
尾形だけは、心の中でもいつも独りなのだ。
勇作の出現
そんな尾形は、異母弟である「正しい息子」勇作に出会った。勇作は、清らかで純真無垢であり、尾形を兄様と呼んで慕った。勇作は、高貴な生まれで、戦地では旗手(ゲン担ぎで童貞しかできない)として先頭に立ち、味方を鼓舞していた。尾形は勇作を女遊びに誘ったり(尾形は芸者の息子である)、敵を殺すように言ったりするが、勇作はそれを拒絶した。勇作は、父からのいいつけで、敵を殺さないことで自分は偶像となり、勇気を与えることができるのだといった。誰もが人を殺すことで罪悪感を生じるから、人を殺していない清らかな勇作が犠牲になる覚悟で先頭に立つことが、敵を殺している味方たちを鼓舞することができる。尾形は罪悪感などありはしない、みんな自分と同じように感じないはずだといった。
そんな尾形に勇作は
(図3)尾形を祝福する勇作
勇作からすれば、これは尾形を大事に思っているがゆえに、兄様だって心の通った人間ですよ、という祝福だった。しかしこの時点で、尾形は大事にされることを受け取れなかった。知らないから、受け取るやり方。誰にもそんなこと教わらなかったし、見たこともなかったから。むしろ尾形には「人を殺して罪悪感を感じない人間がこの世にいて良いはずがない」という言葉を、自分の存在否定、呪いと感じただろう。実際、20巻136pで尾形はアシリパに、これの意趣返しをした。(なぜ勇作に返すはずのものがアシリパに対してのものになってしまうのかは後述)尾形は勇作を殺し、父にその話をして「呪われろ!」と罵られ父を殺した。
そして尾形を高貴な血をひくものとして祭り上げて利用しようとする鶴見中尉を裏切って、いつの間にか杉本・アシリパ陣営の中に入り込んだ。仲間になったわけではないが。
アシリパと尾形
杉元・アシリパ陣営の中では、尾形を含めて、思想はばらばらだが、アシリパがカギを握る金塊のありかを知るために助け合っている。土方陣営の「忠義」とも鶴見陣営の「崇拝・狂信」ともちがう、「馴れ合い」の空気が杉元・アシリパ陣営のなかにある。その中心にあるのは、「親と子」でも「同志の先輩と後輩」でも「上司と部下」でもない、「相棒」という関係だろう。
(図4)杉元とアシリパの関係とそれを観察している尾形。尾形はスナイパーなので遠くから観察する能力にたけている。人間の感情に対してもそうであることは、アシリパが金塊のヒントに気づいたときの一瞬の表情の変化に気づいたのが尾形だけだったことからうかがえる。
前者2つはタテのつながりだが、「相棒」はヨコのつながりである。このふたりのヨコの線上で、杉元・アシリパ陣営の者たちは、生の脳みそとチタタプをうけいれ、いつのまにかヒンナ、ヒンナと言いながら食事を囲むようになる。尾形すらその例外ではない。
アシリパはほかの新参者にするのと同じように、尾形に
(図5)アシリパのもてなしと尾形
という。これはアシリパと良い関係を築くための通過儀礼と言える。最初、尾形は脳みそを拒絶し、チタタプもなかなか言わなかった。しかし、この儀礼はしなければ陣営を追い出されるという性質のものではない。そのあたりに杉元・アシリパ陣営は思想がバラバラなヨコのつながりの集団であることが反映されている。
そして、尾形もかなり時間はかかったが、網走あたりで初めてチタタプを言い、16巻183pでは当然のようにアシリパの手からトナカイの脳みそをかじり、17巻187pではとうとう初めてヒンナと言う。尾形の「チタタプ」「ヒンナ」をアシリパは喜び、ほかのみんなにも聞いたか?と共有しようとする。尾形とアシリパの間には確かに感情の相互作用が生じ、お互いがそれに反応し受け入れたのだ。
勇作とアシリパ(二人に対する尾形の視角)
ところで、勇作とアシリパには相同性がある。二人とも、偉大な父を持ち、その後継者としてなるべく育てられた祝福された子供である。そして、勇作は父に、アシリパは杉元に、清くあれかしと、前者は命じられ、後者は願われ、人殺しの罪から逃れている者である。なによりも、勇作とアシリパは尾形を大事にする行為をしたものだ。
尾形は勇作とアシリパを比べることで初めて勇作の好意を遅れて受け取り、熱で浮かされて勇作の幻覚を見たのかもしれない。はじめて「人を殺した罪悪感」に取り憑かれたのかもしれない。熱が冷めた後にヒンナと初めて尾形が言ったのは偶然重なった描写ではなかろう。勇作の祝福がはじめて「分かりかけた」あとに、尾形の心にアシリパが心地よい形で入り込んだことが表出された描写は、尾形の心の中でなにかが萌芽したことを示している。
(図6)アシリパと勇作の相同性と、アシリパの相棒枠
アシリパの父殺しを共謀したキロランケからはなれて、アシリパと二人きりになったとき、尾形ははっきりと杉元を手本にして、「アシリパの相棒として」ふるまった。しかし、アシリパに「お前はなにひとつ信用できないッ」(19巻131p)と拒絶された。大事にされた記憶は遠のき、勇作とアシリパの清くて自分を否定するものとしての側面が尾形の心の中で強調され、アシリパへの好意のようなものはプラスからマイナスへ転じ、ついに度を失い、自分を殺してみろといって拒絶したアシリパに「…お前達のような奴らがいて良いはずがないんだ」(19巻136p)と銃を向けてしまう。お前達とは清いもの、アシリパと勇作だ。もちろんアシリパに銃を向けたとなれば、杉元は黙ってはいない。しかしアシリパが杉元の大声に驚いて意図せず毒矢を放ってしまい、尾形の右目に刺さってしまった。アシリパは動揺し、尾形はにんまりした。清いものをけがして同じところまで落とせたと思って。しかし、アシリパを人殺しにさせない、尾形の死に関わらせないという杉元の願いによって尾形は生かされた。もちろん杉元は尾形を全く許していないので、回復した尾形は逃げ出した。アシリパが関わらないやり方で杉元は尾形を全力で殺そうとするだろう。殺してみろといったりしても、尾形だって死にたくはないのだ。尾形も生きたいのだ。
尾形がこういうとき(?)に相手に到底受け入れられないような極端な行動に出ることは赤ちゃんが大声で泣くことと同じである。赤ちゃんはお腹がすいたり、むずかゆかったりするときに、大声で泣いて、誰かに気づいてもらえば赤ちゃんはケアを受け満たされる。満たされている間はなく必要もない。無視され構われなければ、気づいてもらえるまで音量をあげながら泣き続けるしかない。その泣き声こそが人をさけているとしても、本人には知りようがない。欲求が満たされるまで試みを終わらせられない。
尾形の心理的逆転からくる悪循環からの逸脱の兆しを、勇作が植え、アシリパが水を注いだ。それが成長するかは…。
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