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【全史】第7章 24年ぶり、日本一への道/1974(昭和49)年

(1)「オリオンズ マラソン部」地獄のトレーニング

 1974(昭和49)年は1月15日の埼玉県鶴瀬市にある「東京証券グラウンド」での合同自主トレーニングから始まった。カネやん1年目の前年のキャンプは「走れ、走れ」という徹底したランニングが話題となった。ただ、前年の自主トレはカネやんも「様子見」という感じだった。
 しかし、この年は違った。自主トレ初日からキャンプのようなランニングだった。「いきなり始まったランニングが終わらなかった。1時間以上走った。あんなに走ったのは人生で初めて」と振り返るのは、この年、2年目を迎えた新谷嘉孝。「先輩に最寄り駅まで車で送ってもらったけれど、駅のベンチに座ったら動けない。電車を何本か見送ったのを覚えている」と苦笑したほどだった。ただ、自主トレからきつめのメニューをこなしたので、キャンプはすんなり入る事が出来たと語っていた。

 キャンプは鹿児島県鴨池球場で2月1日から始まった。メニューは1時間近いランニングから始まる。ランニングのメニューは隣接する陸上競技場で行われる時もあり「ロッテオリオンズ・マラソン部」と揶揄されることもあるほどだった。それを伝え聞いた南海ホークスの野村克也兼任監督は「いつからロッテはマラソン選手になったんや。投手には良いかもしれないが、野手も走る必要あるのか」と懐疑的だったそうだが、4年後、自身がそのメニューを経験することになる。

 この「走れ、走れ」はカネやんの実体験に裏付けされるものだった。自らランニングを最重点に置いたトレーニングで400勝を記録した投手である。下半身の強化になることはもちろんだが「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」というスタミナ強化のためでもあった。特にオリオンズの場合は移動が多く、日程的にハードである。元々、歴史的に夏場に失速することが多いというチームカラーもあった。前年、夏場に阪急に離されたことも頭にあったのだろう。選手も前年乗り越えたことでカネやんのメニューについていった。

 カネやんは厳しいトレーニングを課した一方、食事にも細心の注意を払った。「いいものを、時間をかけてゆっくり食べる」がモットー。食材にもこだわった。
 前年のキャンプで最初の食卓を見たカネやんは驚いたと言う。急遽、オーナーに自らかけ合い、食事の改善の了解を得て、ホテル、コックと直接交渉。メニューを一変させたと言う。八木沢は「ステーキと焼肉と鍋が一緒に出てきて驚いた」という食事は「12球団一の豪華メニュー」と言われたが、それを1時間以上かけて食べるようになった。
 2年目のこのキャンプには、カネやん自らが選んだ食材を大量に持ち込んだ。メニューもさらに充実したものになっていた。

 キャンプ中の2月9日、「8日、株式会社東京スタジアムが解散を決定した」というベタ記事が新聞に掲載された。これで完全に東京球場を再使用するかも知れないという噂が否定された(実際には裏で動きがあったことは5章(2)で詳しい)。

 そして、このシーズンの日程が発表されたが、愕然とした。保護地域(協約上のホームタウン)が正式に宮城県に移ることが前年12月21日の実行委員会で承認されていたのが、試合数は前年程度になると聞いていた。確かに、前期は主催33試合のうち、宮城12試合、後楽園10試合、川崎9試合、そして前年の8月にナイター設備が完成した静岡草薙球場で2試合と前年並みだった。ところが、後期は主催32試合のうち、宮城16試合、静岡草薙12試合で関東圏での主催試合が神宮の4試合だけだった。一番観戦に行きやすい川崎も減ってしまった。日本ハムの主催試合で後楽園が6試合あるのだが、やはり、ホームゲームが見たいからだ(ファンサービス目的もあるが)。
 さて、その川崎球場の試合が18試合から9試合に半減したのだが、後年、大洋ホエールズの横やりがあったことを知った。読売戦以外はガラガラだった大洋戦。ロッテ戦に観客が集まったことで、ファンを取られるのではないか、という危機感があったそうだ。

 それでも、開幕が近づけばウキウキしてくる。オリオンズはキャンプ、オープン戦と順調に調整を重ねていた。しかし、4月6日の開幕戦を目前にした3月21日の静岡での対読売ジャイアンツとのオープン戦で衝撃のニュースが飛び込んできた。木樽正明の顔面に打球が直撃し、救急車で病院に運ばれたというニュースだった。
 幸い目への直撃は免れたものの、目の下部分の骨折だった。数日後、一部新聞が「木樽行方不明、重症か?」の文字が躍った。実際には全治3週間で、カネやんの自宅で静養していたのだったが、ドキッとした記事だった。

 いよいよシーズンが始まる、開幕は4月6日。宮城球球場での阪急ブレーブスとの3連戦。日本一に向けた戦いが始まった。

(2)太平洋との「遺恨試合」騒動2 ~昭和49年編~

太平洋球団は、川崎球場での騒動をポスターに・・・

 いよいよ1974(昭和49)年シーズンが開幕した。開幕からオリオンズは飛び出した。初の開幕試合となった宮城での阪急との開幕3連戦を1勝2分で勝ち越すと、4戦目となった10日の近鉄1回戦(後楽園)に心配された木樽正明が先発、見事に完投勝利を挙げた
 そして、19日からの太平洋2連戦(平和台)に連勝して首位に立つ。そこから6連勝して、2位阪急に2.5ゲーム差をつけて迎えた27日の川崎球場での太平洋戦を迎えた。

 待ちに待った私の今シーズン初観戦だった。母と二人で川崎球場へ。母は翌々日29日のダブルヘッダーの前売り券を購入して帰宅。一人で試合を観戦した。昨年の初戦ほどではなかったが、内野自由席はほぼ満員の15,000人の入りだった。母が気にしていたのは、昨シーズンの「遺恨」だった。球場の様子を見て、大丈夫だと判断して帰宅していた。

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