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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(31)「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号】

割引あり

(写真 左から、13代・西野勇士、7代・村田兆治、12代・小野晋吾)


(31)「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号

 背番号29と言えば、やはり村田兆治が育てた背番号と言えるだろう。球団史上唯一の生え抜き200勝を達成した絶対的エースは、先発、リリーフとフル回転した。そして、ヒジにメスを入れ復活した「サンデー兆治」の姿が印象に残っているオールドファンも多いだろう。
 時を超えて2000年、小野晋吾が「サンデー晋吾」としてブレイク、村田のお墨付きを得て背番号29を引き継いだ。ケガに悩まされながらも村田の23年には及ばなかったものの、20年という息の長い投手生活を過ごした。
 そして、今シーズン29を継いだ西野勇士が16年目を迎える。村田と同じトミー・ジョン手術を受け、見事に復活を果たした。西野には小野の20年、村田の23年を超える投手生活を期待したい。

----- 現在の背番号「29」 -----

 ★《13代》2014(H26)年~2024(R6)年・11年目 西野 勇士 投手(在籍16年目)

 【西野 勇士 背番号変遷】131(4) ⇒ 67(1) ⇒ 29(11)
 育成選手として入団し、5年目の前年13(H25)年に支配下登録され、ローテーションを守った西野勇士が、14(H26)年に引退した小野の背番号29を引き継いだ。
 前年は22試合に先発(24登板)し、防御率3.80と安定したピッチングを見せた西野だったが、6年目の14(H26)年は、前年最多セーブの益田直也が右ヒジの違和感で離脱したため、守護神に指名され開幕を迎えた。チームは開幕から5連敗を喫したため開幕6戦目・4月5日の日本ハム2回戦(QVCマリン)で4番手としてシーズン初登板。翌6日の3回戦で最後を締めて自身初セーブを記録する。以降、14試合連続無失点を記録するなど安定した守護神ぶりを見せる。益田復帰後も守護神としてマウンドに上がりシーズン終了まで務める。最終的に57試合に登板し、1勝1敗31セーブ9ホールドを記録。防御率は1.86だった。
 15(H27)年も守護神として開幕一軍入り。安定したピッチングで守護神を務めたが、シーズン終盤の9月下旬に打球が左足を直撃して亀裂骨折で離脱。シーズンをそのまま終える。54試合に登板し1勝2敗34セーブ4ホールド、防御率1.83だった。セーブ機会での失敗は0と安定した内容だった。翌16(H28)年も開幕から守護神を務めるも、6月頃から右ヒジに違和感を抱え、失敗も続き登録を抹消される。最終盤の9月に復帰したものの、42試合に登板し3勝6敗21セーブ5ホールド、防御率3.35で終えた。
 17(H29)年は先発に転向し、開幕2戦目・ソフトバンク2回戦で4年ぶりに一軍先発。6回4失点(自責は3)で黒星を喫したものの、2度目の先発となった4月13日のオリックス戦では6回6安打1失点と好投し、4年ぶりに先発勝利を挙げた。しかし、右ヒジ痛が再発し抹消。リハビリ後、9月末に一軍復帰し先発勝利を飾ったが、最終的に5試合に先発し2勝3敗、防御率4.73で終えた。翌18(H30)年は中継ぎとして開幕一軍入り。しかし、結果を出せずに抹消される。その後、状態が上がらず一軍と二軍を往復。最終的に14試合に登板し防御率6.19に終わった。
 19(R1)年はフォーム修正に取り組み状態を取り戻し、中継ぎとして開幕一軍入りを果たす。4月23日の西武戦でホールド、5月9日の西武戦でセーブと3年ぶりに記録する。後半にはチーム事情から先発復帰。一度二軍で先発の調整を行い、5月5日の楽天戦で5回を3安打無失点に抑え、674日ぶりの一軍先発登板を白星でる。さらに好投を続け、このシーズンは37試合(6先発)の登板で2勝3敗2セーブ5ホールド、防御率2.96と西野らしさを見せたシーズンとなった。しかし、20(R2)年は開幕前に右ヒジに違和感を覚え、右ヒジ内側側副靱帯損傷と診断されトミー・ジョン手術を受ける。このシーズンと翌21年はリハビリに徹し、2年間一軍未登板に終わる。
 22(R4)年は3年ぶりに開幕一軍入り、退団や離脱で投手陣を再編する中で、リリーフ要員としてのベンチ入りだった。当初は登板間隔を空けながらマウンドに上がったが、コロナ陽性で一時離脱。復帰後はリリーフ陣が整備されたこともあり登板数も減少する。7月に再びコロナ罹患し離脱。復帰後はシーズン最後まで安定したピッチングを見せた。最終的に37試合に登板し3勝3敗15ホールド、防御率1.73だった。
 23(R5)年は先発復帰して開幕からローテーション入り。開幕4戦目・日本ハム戦で約3年ぶりに先発マウンドに上がる。5回4失点と今一つながら、打線の援護もあり4年ぶりに先発白星を挙げる。以降、一時離脱はあったものの、間隔を空けながら先発に立つ。最終的に18試合に先発し8勝5敗、防御率2.69でシーズンを終えた。ポストシーズンでもソフトバンクとのCSの第1S第2戦に7年ぶりに先発。黒星を喫したが、復活を印象づけるシーズンとなった。
 (23年シーズン終了時)
 <288試合、29勝29敗、防3.02、88S、38H、51先発、1完封、503奪三振>

----- オリオンズ&マリーンズ「29」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年・1年 増山 博(ますやま ひろし) 外野手(在籍1年)

 【増山 博 背番号変遷】29(1)
 球団創設に社会人・大塚産業から入団した増山博が、初代背番号29を背負った。
 前年都市対抗に出場して俊足巧打の外野手と期待されたが、一軍に出場することなく、1年限りで退団した。
 <一軍未出場>

 ★《2代》1954(S29)年~1957(S32)年・4年 鵜飼 昭雪(うかい あきゆき) 捕手(在籍5年)

 【鵜飼 昭雪 背番号変遷】44(1) ⇒ 29(4)
 前年1953(S28)年に享栄商業高校から入団し、背番号44だった鵜飼昭雪が2年目の54(S29)年に背番号を29に変更した。
 1年目は一軍未出場に終わったが、2年目の54(S29)年はシーズン最終盤に一軍に合流し、10月21日の阪急18回戦(明石)に代打で登場して初出場を果たす。シーズン最終戦の29日の高橋戦(川崎)では途中出場でマスクも被った。しかし、翌55(S30)年は再び一軍未出場に終わる。
 1年目は土井垣武、2、3年目はルイスと確固たる正捕手がいたが、ルイスが退団して4年目の56(S31)年は鵜飼にもチャンスが訪れる。佃明忠、沼沢康一郎の正捕手争いに加わる。開幕当初は打撃好調だった佃の2番手としてベンチに控えるが、4月5日の近鉄3回戦(駒沢)で自身初のスタメンマスクを被り、山根俊英-荒巻淳の投手リレーを好リードで支える。以降も控えが中心ながらスタメンでもマスクを被り、最終的に53試合に出場(52試合で捕手)したが、打率は.135と低迷した。翌57(S32)年は醍醐猛夫が入団し正捕手に座り、再び一軍出場なく終わる。オフには引退した。
 <55試合、打率.133、98打数13安打、0本塁打、1打点、0盗塁>

 ★《3代》1958(S33)年~1959(S34)年・2年 太田 正男(おおた まさお) 投手(在籍2年)

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