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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜(12)/「10」投手の系譜から打者の系譜へ、3000本安打の張本勲も背負う】

割引あり

(写真 左から、22代10番のルーキー上田希由翔、3代・三浦 方義、10代・左腕エース水谷則博、11代・前人未到の3000本安打達成時の張本勲、17代・打線の核だった大松尚逸)


(12)「10」投手の系譜から打者の系譜へ、3000本安打の張本勲も背負う

----- 現在の背番号「10」 -----

 ★《22代》2024年は1年目 上田 希由翔(うえだ きゅうと) 内野手(在籍1年目)

 【上田 希由翔 背番号変遷】10(1)
 22代・背番号10は期待のかかるルーキーが背負う。明治大学から2023年ドラフト1位で入団。愛産大三河高校時代は通算46本塁打を放ち、明治大学では1年秋から4番に座り、3年時の2002年には春秋連覇に貢献した期待の左のスラッガー。和製大砲誕生へ期待が高まる。

----- オリオンズ&マリーンズ「10」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 浅井 守(あさい まもる) 投手(在籍3年)

 【浅井 守 背番号変遷】10(2) ⇒ 37(1)
 初代背番号10は社会人・東洋産業から球団創設時に入団した浅井守投手が背負った。1年目は1試合だけの登板に終わったものの、2年目の1951(S26)年にはシーズン終盤に先発。9月6日の西鉄15回戦(後楽園)で先発し8回3失点で初勝利を挙げたが4試合の登板に留まった。オフに背番号を37に変更したが、52(S27)年限りで引退した。
 投手<5試合、1勝0敗、防2.89、4先発、0完封、6奪三振>
 打撃<5試合、打率.000、8打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

 ★《2代》1952(S27)年~1957(S32)年・6年 清水 宏員(しみず ひろかず) 投手(在籍6年)

 【清水 宏員 背番号変遷】10(6)
 平安高校ではエースとして1951(S26)年春夏の甲子園に出場。夏の優勝投手として入団。1年目は1試合の登板だったものの初登板で初勝利。2年目の53(S28)年はリリーフを中心に23試合に登板。54(S29)年はシーズン中盤からローテーションに加わり7勝をマークした。しかし、翌年以降は20試合、5試合、8試合と登板機会も減り、57(S32)年限りで引退した。
   
 投手<65登板、10勝7敗、防3.54、22先発、2完封、90奪三振>
 打撃<87試合、打率.186、59打数11安打、0本塁打、1打点、0盗塁>

 ★《3代》1958(S33)年~1962(S37)年途中・4年8ヶ月 三浦 方義(みうら まさよし) 投手(在籍5年)

 【三浦 方義 背番号変遷】10(4+途中)
 巨人入団後、大映に移籍していた三浦方義が1958(S33)年の毎日と大映の合併に伴い移籍し、背番号10を継いだ。大映時代の1956(S31)年には29勝(当時のリーグ記録)を挙げ最多勝を獲得していた。
 移籍1年目の58(S33)年は先発とリリーフにフル回転。42試合に登板して11勝8敗、防御率は2.78と奮闘した。しかし、翌59(S34)年は打ち込まれるケースが目立ち、34試合のマウンドに上がったが3勝8敗、防御率は4.03と数字を落とした。この頃からヒジの状態が悪化。リーグ優勝を果たしたチームを横目に60(S35)年は2試合、61(S36)年は6試合の登板に留まった。復活を期した62(S37)年はシーズン中盤に合流し18試合に登板し防御率は1点台と好投。8月5日の南海戦(大阪)先発したが1回を投げ終わったところで降板。そのまま引退しコーチとなった。
 投手<103試合、15勝18敗、防3.13、42先発、5完封、168奪三振>
 打撃<105試合、打率.037、82打数3安打、0本塁打、2打点、0盗塁>

 ★《4代》1958(S33)年~1962(S37)年途中・5ヶ月 宇野 光雄(うの みつお) 監督(在籍2年)

 【宇野 光雄 背番号変遷】30(1+途中) ⇒ 10(途中)
 シーズン中の三浦の引退で空番となった10だったが、このシーズンチームの状態が上がらないことから、監督の宇野光雄が背番号を30から10へ変更して残り試合を指揮した。このシーズン限りで退任した。

 ★《5代》1963(S38)年・1年 大坂 雅彦(おおさか まさひこ) 内野手⇒外野手(在籍7年)

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