短編小説『モノクロ男』
男は街を歩きながら、自分が幽霊にでもなったような気がしていた。
喧騒に溢れた中にいても何も心が動かされない。音も光も、色さえも。分厚いフィルタの向こうにあるように感じた。まるで自分だけカラフルな世界から切り離されているようだ。
彼は何のあてもなく歩いているわけではなかった。
目的地があるのだ。いや、あったというべきか。その目的とはいったいなんだったのか。いまはもう思い出せない。ただ足が勝手に動いていた。
やがて彼の目にひとつの店が映った。
古ぼけた喫茶店だ。看板には『ベルベット』とある。
ドアを開けるとカランコロンと鐘の音が鳴る。店内には他に客はいなかった。カウンターの奥にいる老人が「いらっしゃい」と言ったきり黙り込む。
男はカウンター席に腰掛けた。
「ご注文は?」
メニューには男が聞いたことのないコーヒーの名前が並んでいた。メニューを置き、つぶやく。
「ブレンドで」
老人は無言のまま豆を挽き始めた。しばらくして目の前に湯気を立てるカップが置かれる。
一口飲むと苦みのある液体が喉を通り抜けていった。美味い。そう感じたはずなのに、香りも味もどこか遠く向こうにあるような気がした。
何か物足りない。いや「誰か」が足りない。
ふとそんな思いを抱いたとき、老人の声が聞こえてきた。
「この店は初めてかい?」
「あぁ……」
曖昧な返事をする男に、老人は何も言わず二杯目のカップを置く。そして再び沈黙が訪れる。
男が二杯目のコーヒーを飲み干した頃、ようやく老人が再び口を開いた。
「あんた、幽霊を見たことあるか?」
「幽霊……? 見たことはないけど、それがどうした?」
老人はニヤリと笑う。
「死んだ人間に会うことはできるんだよ」
突然何を言っているんだこいつは。そう思ったものの、何故か男の目は老人から離れられなかった。
「会ってみたい人間がいるんだろう?」
その言葉を聞いた瞬間、男の頭に浮かんできたのは一人の少女だった。
「会いたいなら案内しよう」
「本当か」
「あぁ、ただし条件がある」
「なんだ?」
「お前さんにも協力してもらいたい」
「協力だと?」
「そうだ。もう一度会うためにはお前さんの力が必要だ」
「俺の力?」
「そうさ」
「わかった。あいつにまた会えるっていうなら何でもする」
「契約成立だな」
老人は店の外へ出て行く。
「それじゃ早速行こうじゃないか」
男は慌ててその後を追った。
外に出ると空には月が出ていた。
「おい、どこに連れて行くつもりだ?」
「来ればわかる」
男は老人の後について行くしかなかった。
しばらくすると、二人は大きな屋敷の前に立っていた。
「ここは……」
見覚えがあった。なぜ今まで忘れていたのだろう。ここに来たのは一度や二度ではないのに。
「ほら、入るぞ」
老人は躊躇することなく中に入っていく。
「おい、勝手に入ってもいいのか?」
「大丈夫。もう誰も住んじゃいない」
「ここに何があるんだ?」
男の質問に答えず、老人は進む。
やがて奥の部屋へとたどり着く。そこには一つの絵画が掛けられていた。
「これは……」
二人の男女が描かれている。一人は若い男。もう一人は美しい少女だ。
「懐かしいか?」
「あ、あぁ」
「なら、間違いないな」
「どういうことだ?」
「あとはお前さん次第だ」
老人は男にもっと絵をよく見ろとうながす。
「何か、思い出さないか?」
霞がかった思考の中に、ふとある場所の景色がよぎる。
青々とした広い芝生。雲ひとつない青空。弾むような笑い声と足音。つんざくようなブレーキ音。小さな悲鳴。暗闇。
「……あれは、どこだ?」
頭の中の光景と重ねるように、絵をじっと見つめる。徐々に、鮮明に動き出す記憶。
「そこに行きなさい」
老人は告げる。
「そこに何があるっていうんだ?」
「さっき言ったろう。死んだ人間に会うことができるって」
「まさか……」
老人の言葉に男は衝撃を受ける。しかし同時に納得もしていた。
「早く行け。あまり時間はないぞ」
男は覚悟を決める。
「ありがとう」
それだけ言い残して、男は部屋を出た。
屋敷を出ると、そこは森の中だった。
鬱蒼と茂った木々が空を覆い隠しており、月も厚い雲に覆われている。だが不思議と恐怖はなかった。むしろ心地良いくらいだ。
「達者でな」
後ろから声をかけられ振り向くと、老人がいた。
「最後に一つだけ教えてくれないか」
男は老人に尋ねる。
「どうしてここまでしてくれるんだ?」
「ただの気まぐれさ」
「そうか」
「あぁ、でも強いて言うなら……」
老人はニヤリと笑う。
「お前さんらが面白かったからだ」
男は苦笑しながら礼を言うと、再び歩き出した。
どれぐらい歩いただろうか。不意に目の前が開けた。
そこにあったものを見て、男は目を見開く。
「ここは……あの時の……」
男が立っていた場所。それはかつて愛する娘を失った場所だった。
間違いない。この先にあの子はいる。
逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと足を踏み入れる。
──そして最後の一歩を進んだ時、男の姿は霧のように消え去った。
*
老人はつぶやく。
「これで終わり、か」
男は死んだ娘に会えただろう。見届けずともわかる。
「親父が置いてけぼりなんて、情けない話だ」
彼も、死者だった。それに気づいていないだけだった。
「なんとかクリスマスには間に合ったな」
これで、少女との約束は果たされた。
「まったく、厄介な仕事だった」
そう口にしながら、老人の眦(まなじり)が下がる。面白いものを見せてもらった。これだから、この仕事は辞められない。
「次はどんなやつが来るかな」
雲間から月明かりが差し込み、世界はふたたび色づいた。
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