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道徳は元来動的である―倫理と道徳3― 経済学論考 8


■以前記述した道徳の解説

以前書いた記事における、私の理解は下記の通りです。

〇道徳

道徳は、社会的集団の行動規範を示す概念です。
人として善悪の行動を示し、
社会での善悪の行動を示し、
社会で人がその行動規範により発生する効果を観察します。
その行動規範の善悪の判断は「内部」から発生します(異論あり)。

https://note.com/orihara22/n/n86ae71cfecb7

前回書いた
「〇倫理」の記述と明確に違うのが分かりますね。

〇倫理
倫理は、社会的集団の規範を示す概念です。
人として守るべき規範を示し、
社会で守るべき規範を示し、
社会で人がその規範を守ることによる効果を観察します。
その規範は「外部」から与えられます(異論あり)。

比較すると「道徳」には「行動」が必要であるのが分かります。
一方で、倫理は「神の理想の設計図」なのに対して、道徳は「行動してみないと分からない」という不確実性が内在するのです。
つまり、神(少なくとも一神教的絶対神)は存在しないのです。
神がいない代わりに、「道徳」は「動的」なのです。

■源泉となる「(動的)道徳」

さて、前回の倫理の源泉である「(静的)倫理」は図解上部の左側に記載されております。

このように左右対称に見える図解となっているため、「では右の道徳の源泉は右上の『静的道徳』が源泉なのではないか?」と多くの人が思われるかもですが、「道徳には『行動してみないと分からない』という不確実性が内在する」と前述しました。
つまり、道徳の源泉は「図解の右側上部の左側」の「(動的)道徳」がそれとなります。
そして、道徳それ自体は「不確実性のない真の規範」を求めて右側の「10」の数字の方向へ「静的道徳」を目指し変化します。
その「静的道徳」を獲得し、その「10」に近い「姿勢」で神の視点から「0」の「規範」を実現する社会に対して「道」を示すわけです。

恐らく、道徳における「道」というのは「徳」という分野における「倫理的なモノ(神)」なのではないかと思われます。

■道徳という運動から「静的な神」を見出そうとする試み

この
・徳から道(神)という倫理を見出そうとする試み
・動的の中の静的を見出そうとする試み
その試みは具体例として、孔子の論語から読み解くことができます。

子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたることや。久しいかな、吾復夢に周公を見ず

これは、孔子が
「私も衰えたな。あれほど夢に見た周公旦の夢も見なくなった」
という意味です。
孔子は、人が他者を愛する「仁」と、社会秩序を意味する「礼」を重視し、道徳を得る乱世を収束させ平和を実現する、という「徳治主義」を唱えていました。
そして、孔子はその「徳治主義」が実現していたのは「過去の周王朝の宰相 周公旦が活躍していた時代だ」という周王朝と周公旦への憧憬と礼賛は留まることを知りませんでした。正にそれは道徳から「信仰」を見出そうとする行為と言って良いかと思います。
孔子は周王朝の周公旦を信仰していたのです。
倫理との違いはここです。道徳は道徳的行為、自分の内面から神を見出そうとするわけです。

■道徳の動→静への運動と、倫理の静→動への運動

尚、気を付けなければならないのは、道徳の運動は方向性としては動的から静的な道徳に移行しようとするもので、運動を少しでもやめよう、運動を排除しよう、とする働きがある、といういうことです。これは「不確実性を排除しよう」という行為でもあります。
一方で、前回の倫理ですが、倫理は「(静的)倫理」から「運動」を伴った「動的倫理」への移行となります。「動的倫理」=「倫理の道徳化」とは前回のまとめで述べたことになります。

■まとめ:大雑把ならが経済学に取り込むと…

さて、非常に大雑把ながら、この倫理・道徳の考察を経済学に組み込むと、

〇倫理
静的倫理:運動なし:不確実性排除:主流派経済学と相性が良い
動的倫理:運動有り:不確実性受容:ポストケインズ派経済学と相性が良い

〇道徳
動的道徳:運動有り:不確実性受容:ポストケインズ派経済学と相性が良い
静的道徳:運動なし:不確実性排除:主流派経済学と相性が良い

と、以上のような関係になるかと思われます。


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