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「倫理と道徳」という「思想の無い経済学」の恐怖―経済学論考3―


■本能への反逆

本来、事物には優劣はありません。
優先順位を付けるのは差をつけることであり、優位と劣位を設けることであり、区別であり、ややもすれば「差別をすること」の源泉です。
勿論、これは極端な表現ですが。
しかし一方で、それは真実であり、強い説得力があります。

だからこそ、その極端さが現出しないように制御をかけて、優位と劣位に極端に差を設けることがないようにする逆のベクトルへの働きを「善い」と人は感情的・倫理的・道徳的に判断します。
それが人間が抱く「倫理と道徳」、本能への反逆である原初の「思想」というものです。

■偽りの説得力を与える―思想―

例えば、貧富の格差ですが、「貧富の格差が過大であることは良くない」という思想が一般的に表明されます。
それが何故かというと、もちろんさまざまに言葉で説明されますが、「その方が良いから」という普遍的で、決定的でありつつも、非論理的であり、理性的で、非本能的な、そして人間的な「理由なき感覚」は支配的に前提に、しかし確実にあります。
そして、その「理由なき感覚」を論理によって説明しようとする試みは、その非論理性を、理性的である物へ作り変えようとする「起こり」であり、誤解を恐れずにいえば、
「説明をすることで本来なら説得力の無い事物に説得力を偽って与えている」
という一種のまやかしに近いものともいえるかもしれません。
私はその大切なまやかしこそが「思想」だと思っています。

■私は思想を前提に経済学を見ます

一方で、逆説的に「思想を取り払い、全てを観察対象として優先順位を一切付けなければ、その物事への本質・真理を観察ことができる」という考えもあります。
実はこれは釈迦の悟りの一種であるとともに、時にはサイコパスと呼ばれる人間の思考方法でもあります。
更に、これを経済学に当てはめるとそれが、
ミクロ経済学であり、
貨幣中立説であり、
商品貨幣論であり、
貨幣プール論であり、
主流派経済学であり、
ということになります。

私の経済学への姿勢は、そういった「釈迦のように悟った視点を持ったり、サイコパスのように無感情に人を無機物のように観察する視点にこそ反逆しよう」という姿勢となります。
何故なら私にとって経済学は、経済的関係の真相を見抜くことが目的ではなく、経世済民を実現するために、より良い社会を実現するためにどうするか、という目的のための道具だからです。

■「経済学に思想を持ち込むな」という思想の本質

ミクロ経済学派の人は時々「経済学に思想を持ち込むな」と言います。
しかし、「経世済民を実現するために、より良い社会を実現するために」という非論理的でながら、理性的で人工的な本能を否定する何だかわからない世界の実現のために「思想」が前提にあるからこそ、経済学なのです。
逆に全ての人を幸せにすることを求めない経済学などありはしないのです。

第一、「経済学に思想を持ち込むな」というミクロ経済学の人たちもその内実、「経済学に思想を持ち込まずに、真相を知れば、多くの人を幸せにすることができる」という思想を持ったうえでその中立性を保持しようとするわけです。
「『人間の幸福』のために思想的に中立であろうとする『思想』」を抱えているわけで、その時点で「経済学に思想を持ち込むな」という台詞は自らも思想を持つ者として自己矛盾に陥ってしまうわけです。

以上を踏まえて、経済学には「幸福になるための思想」は必要なのです。

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