見出し画像

発達障害ガールミーツガール一章まとめ【小説】

発達障害ガールミーツガール、一章まとめました


【あらすじ】
「一緒にしないで! 私はあなたとは違う! 普通の人間なんだから!」
不動カナメは大学一年生。高校生の時に発達障害の診断を受けて、今は一人暮らしをしながら大学に通ってる。ある日発達障害の診察にやってきた病院で同じ大学の桜庭スズを見かける。うっかり処方箋を見てしまったカナメはスズが同じ発達障害と知る。思わず声をかけるがスズは激しく拒絶する。

一章 私は発達障害、彼女は?



※発達障害の症状は一人ひとり異なります。
※登場人物の症状が発達障害の全ての人にあてはまるわけではありせん。


【プロローグ 最悪の再会】




 診察室のことが好きだった。午後の日差しがカーテンからこぼれて端に置かれた観葉植物の影を作るところをこっそり見るのが好きだった。

「不動さんは前とお変わりないようですね、お薬はいつもと同じでいいですか?」
「はい、先生」

 中年の女性医師が優しく笑うと電子カルテに手早く何かを記載していく。この「長崎先生」のことがカナメは好きだった。いつも穏やかに接してくれるし、質問にはストレートに答えてくれる。自分のような「特性」の人間にはその方がありがたい。

 カナメは軽く礼をして診察室を出た。ふと今朝の寝癖のことが気になり、すぐ先のトイレの洗面台の鏡の前に移動する。よかった、もうはねてない。毎朝の寝坊と二度寝癖は深刻なのだ。鏡には栗色に髪を染めたボブカットの少女が写っている。背は標準より少し高く、淡いベージュのチュニックに黒いテーバードパンツを着ていた。鏡には映らないが足元は真っ黒なスニーカーを履いている。

(まだ高校生って感じ。あんまり大学生に見えないなあ。まだ入学して二ヶ月だからこんなものかな?)

 まあそうは思っても外見のことなんてあんまり違いが分かっている自信はないのだが。それでも自分のことなら少しは分かる。自分には興味をフォーカスできるのだ。

 トイレを出ると受付前の待合室の椅子に移動する。処方箋が出るまでスマートフォンでKindleの電子書籍を読む。すると予想よりも早く「不動さん」と呼ばれて席を立つ。

(あれ?)

 受付で処方箋を受け取ってカバンにしまい、帰ろうと出口に向き直ると「彼女」が目に入った。待合室の席の一番後ろに真っ直ぐな黒髪の少女が座っている。調子でも悪いのか俯いてぶつぶつと言っている。

「あの、桜庭さん、だよね?」
「……え?」

 そこで彼女は顔を上げた。やっぱり同じ大学の桜庭スズだ。学部は違うが第二外国語が同じドイツ語だから何度も教室ですれ違っている。会話はしたことがないが入学式の時からすごく美人だと目立っていた。違う学部のカナメの目と耳に入るほどに。それにストレートの黒髪はカナメの密かな憧れであった。だから人の顔の覚える脳機能がいまいちのカナメでも覚えていた。

「誰……?」
「あ、突然話しかけてごめんね。私、同じ大学の不動カナメっていうんだ。学部は違うけど、ドイツ語で同じ教室だから覚えてて……その、話したことないから覚えてないよね」
「同じ……大学?」

 その単語で桜庭スズはビクリと震えた。突然病院で話しかけられるなんて警戒されただろうか。それにしても何か病気なのだろうか。

「ビックリさせてごめんね、こんなところに同級生がいると思わなくてさ。大丈夫、風邪でも引いた?」
「べ、別に……あ」

 スズの手から一枚の紙が落ちた。カナメの足元に落ちたので拾うとそれは処方箋だった。薬の名前が記載されて個人情報だがどうせカナメに薬の名前など分からないからいいだろう。

「あれ……?」
「か、返して」
「う、うん……桜庭さんってもしかして発達障害?」

 とっさに思ったことが口に出てしまう。処方箋に記載された薬はカナメが処方されている薬と同じ発達障害の薬だった。

 カナメが処方箋を差し出すと強い力でスズに奪い返される。

「なんで知って……?」
「あ、あのね! いきなりでごめん。でも私も発達障害でさ、処方されてる薬が一緒で分かっちゃったんだ」

 カナメは浮かれていた。一方スズはひどく冷たい目で処方箋を見下ろした。

「その……同じ大学に同じ障害のある人がいるとは思わなかったんだ。いるとしても隠れてるだろうし……そのよかったらこのあとお茶でも」
「一緒にしないで」

 叫びに近い声でスズはカナメから遠ざかった。他人の表情の読めないカナメでも分かる拒絶の目。思わぬところで同類を見つけられた浮かれ具合は一瞬で霧散した。

 はっとカナメは我に返った。周囲から視線が集まっている。病院のロビーは人はまばらだったがそれでも人がいる。

 周りに聞かれるかもしれないのに勝手に障害名を口にするべきではなかった。カナメは苦手な愛想笑いを浮かべた。

「ご、ごめん。私、同じだと思うと嬉しくて、その」
「一緒にしないで! 私はあなたとは違う! 普通の人間なんだから!」

 その声の大きさはその日一番の注目を集めてしまったが。
 とにかくスズはそう言って席を立ち、自動ドアをくぐって病院から出ていった。

 取り残されたカナメは呆然と待合室で立っていた。






【1 とりあえず謝りたい】





 あれはアウティングというやつをやってしまったのだろうか?

「だからってあそこまでいうことないじゃん……」

 自室のベッドの上でカナメはぶつぶつとこぼした。あれから薬局で薬をもらい、そのまままっすぐ帰ってきた。

 疲れてしまったので粗雑に服を脱ぎ捨てると頭から被るだけのラウンジワンピースを着てそのまま寝転んだ。アレクサにただいまを言うことを忘れていたと今気づいた。

「……ん」

 寝たままスマートフォンを操作する。アウティングという用語は知っているがもう一度調べたい。

【アウティング】 LGBTに対して、本人の了解を得ずに他の人に公にしていない性的指向や性同一性などの秘密を暴露すること。

 というようなことがいくつかのサイトに書いてあった。

 発達障害は性的マイノリティのことではないが「マイノリティ属性を勝手に他人にバラす」あたりに引っかかったのだろう。カナメに悪意はなかったが人がいるいきなり病院の待合室で言われたら実質同じだろう。

(それに私は診断されて嬉しかったけど、そうじゃない人もいる)

 カナメは過去を思い出す。自分は三年前診断がもらえたことで周囲についていけないのは自分のせいじゃないと思えて嬉しかった。けれど病院の掲示板にチラシが貼ってあった自助グループに通うようになってそうでない当事者がいることも知った。診断を受けたことで普通でなくなったと嘆く人も少なくない。

 自分自身だって診断を受け入れているものの無許可で見知らぬ人に発達障害だと言いたくないし言われたくない。やっぱり無自覚アウティングだったのだ。

「次会ったら、やっぱり謝らなきゃ……な」

 と言ってみるものの気は進まない。カナメだっていきなり怒鳴られたのだ。軽い聴覚過敏があるから結構な衝撃だった。理屈は理解しているがすぐ割り切れるものではない。

(あなたとは違う、普通の人間なんだから、か)

 スズの言葉を思い出す。普通に執着を持つ発達障害者は多い。ある意味普通のことだ。多数派とも言っていい。

 カナメだって高校一年生でクラスで不適応を起こし、病院で診断を受ける時は「どうして私は普通のことが普通にできないのだろう」と悩んでいた。

(でも、その気持ちのままじゃかえって大変だと思うけど)

 適応の一歩は障害の受容というやつだ。もう少しなんとか気持ちを変えたほうが……しかし、それはお節介というものだろう。

 なにしろカナメとスズはクラスメイトですらない、ただ同じ大学で同じ学年であるだけだ。学部も学科も違う。一年生は一般教養と第二外国語があるからすれ違う程度の関係があっただけだ。その距離を発達障害があるという一点で浮かれていきなり越えようとしたから無自覚アウティングなどしてしまうのだ。

 そして腹が立ったのも事実だ。なにが私は違うだ。発達障害だって人間だい。てやんでえ。正直謝りたくない。が、正しいことをしたい義務感もある。その辺をうまく割り切りにくいのも特性あるあるでもある。

「アレクサー、どうすればいい?」
『すみません、よく分かりません。お答えできません』
「冷たいAIめ……えっと、じゃあアレクサ、次のドイツ語の授業はいつ?」
『カレンダーを確認します。次のドイツ語の予定は明日です』
「げ……」

 思わず自分で壁に貼ってある時間割を確認したが確かに明日の一限はドイツの授業だった。




【2  発達障害の朝は戦場】



 一人暮らしの大学生のカナメの朝は早い。それは嘘だ。そう願っているだけで基本的にいつもギリギリだ。

 AIスピーカーは毎朝七時に朝の挨拶をする設定にしている。内容は毎日違って豆知識的なことを教えてくれる。それだけでは寝てしまうので好きな音楽を続いて連続でかける設定をスマートフォンからしている。他にも色々喋って自然と目が覚めるように設定を試した。

 問題はカナメが「ストップ」「キャンセル」と言えば全て停止してしまうことだ。全く記憶にないが全て停止させたらしい。

「アレクサ、なんで起こしてくれないの!?」
『アラームの設定を行いますか?』
「キャンセル! いいよ、ばかー!」

 ちなみにかなり大音量の普通のデジタル目覚まし時計もかけていたがばっちりオフになっていた。ベッドから飛び起きるとカナメは普通のアナログ時計を確認する。ちなみに部屋に時計は三つある。

 八時二十分。一限目のドイツ語は九時からだ。この一人暮らしの部屋から大学まで自転車で十五分、間に合わないことはないが特性で気を散らす暇もない。

『お薬の時間です、飲み忘れないでくださいね』
「そうだったー! うわーん!」

 AIスピーカーの時限設定メッセージは無常にタスクを増やしていく。

(お、落ち着けカナメ! こういう時は非常プランだ!)

 悲しいことに日常の半分以上は「非常」プランなのだが。

 理想の朝はある。ちゃんと七時に起きてゆっくり朝食をとり、カバンの中に忘れ物がないか確認して、授業の十分前には席についている。そう、夢を見ることは悪いことじゃない。

 だが空想上の有能な自分を諦めることも立派な決断だ。あり得たかもしれない素晴らしい自分を惜しむワーキングメモリも今は惜しい。急ぐための用意だって仲間と相談して発達障害ゆえにしてあるのだ。

 とにかく洗面所に行って水で三回顔を洗う。せっかく買った洗顔石鹸は無視する。鏡を見て大きな寝癖がないので髪はそのままにする。

 そしてワンルームのテーブルの真ん中に置かれたカゴの中に入れてあるウィダインゼリーを二つとる。エネルギーとプロテイン。その二つをググッと飲み干すとカゴから薬を取り出す。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して薬を飲む(これを忘れると本当に辛い)。

(朝食終わり!)

 空のウィダインゼリーをちゃんとゴミ箱に放り捨てる。

 現在時間は八時三十二分。焦らないように深呼吸をする。昼食のことは後で考えよう。

 そして服を着る。幸いカナメの服の戦術ははっきりしているので着るものに悩まない。流行は捨てた。重要なものは着心地だ。触覚過敏があるからか身体を締め付ける服や苦手な触感の素材は避ける。なのでカナメの服はほとんどゆったりとした黒いズボンとチュニックだった。どれを選んでも大体同じなのでワーキングメモリにダメージが少ない。一応骨格診断とカラー診断で似合う色のものだけにしてある。こだわりにひっかるような色や形はあらかじめ排除してある。

 さっさとラウンジワンピースを脱ぎ捨てる。そしてユニクロのブラトップをつけて、チュニックとズボンを着て、靴下を履く。最後にアナログの腕時計をつける。

 これで八時四十分。昨日カバンに教科書を詰めたので中は確認しない。最後にカバンのキーホルダーに自宅の鍵も自転車の鍵もついていることを確認して、スニーカーを履いて家を出る。

「鍵かけた! いってきます!」

 誰に言うわけではないが言わないと自分が鍵かけを忘れてしまうので習慣になっている。そう言ってマンションの階段を駆け降りていき、自転車置き場で自転車を見つけると安堵した。間に合うかもしれない……。

「……げ」

 マンションのすぐそばにゴミが積まれていることにそんな声が出る。今日はゴミ捨ての日だったのだ。そういえば玄関あたりに青いゴミ袋が置いてあった。

「ちっくしょう! アディオス!」

 やけっぱちな台詞を吐き捨てて自転車を漕ぎ出す。残念ながら日常には諦めなければならないことがいっぱいだ。それの全てが発達障害のせいかまではわからないけれど。




【3  たかが遅刻、されど遅刻】




「間に合った……!」

 時刻は八時五十九分。カナメは自転車を酷使して十二分で大学に辿り着き、ドイツ語の教室の前に立っていた。中からはすでに到着した同じ学年の生徒たちの声が聞こえる。

 スライド式のドアを開けると席はすでに大分埋まっていた。大学は席が自由なのでいい席からなくなる。具体的には後ろの席ほど早く埋まる。だからカナメはさっさと最前列の椅子に腰掛けた。

 その時ちょうど九時になる。チャイムの音にガッツポーズをとった。

(やったーーー!)

 カナメの頭の中でファンファーレがなる。たかが遅刻回避、されど遅刻回避。気が散って時間を浪費しやすく、余計なことに集中して夜ふかししがちな特性持ちにはクリアが困難なミッションだ。もっと志の高い人もいるだろうがカナメはとにかく「授業に間に合う」ということを授業の目標にしていた。

「不動さん、おはよう。今日もギリギリだね」
「えっ? あ、咲森さん」

 視野が狭くなって完全に見えていなかった。

 ショートヘアの小柄な女の子に話しかけられる。同じ学部で同じ学科の咲森ミサキだ。同じ学科で同じドイツ語なので何度か話している。友達と顔見知りの中間くらいの関係だ。それでも現在の関係は良好でこれからの四年、仲良しになれる予感がする。

「おはよう。偶然だね、席が隣だなんて」
「ふふ、不動さん、いつもドアのすぐそばの一番前の席に座るから来るかなって」
「あはは、行動バレちゃったかー。……まだ、先生来ないね?」
「この授業の先生、時々五分くらい遅れるから。大変だね、一人暮らしは。朝ご飯とか大変でしょう?」
「まあ、うん」

 カナメとミサキは全く違うエリアの高校の出身だ。だからまだ距離感が掴めない。

 非常プランやウィダインゼリーの話をするほどにはまだ親しくない。いや、親しいとしても黙っていてもいい話題かもしれない。その辺の人間関係の線引きはカナメには難しく模索中だ。マイノリティだから卑屈になる必要はないが慎重なのは悪くないはずだ。

「あ、先生きた」

 誰かがそういうと自然と静かになった。初老の男性が厚い教科書と冊子を持って教室に入ってくる。そのドイツ語の講師(確か何かの教授だったと思う)が壇上に立つまでの間に慌ててカバンから教科書とノートを取り出す。

 よし、ちゃんとドイツ語の教科書とノートが出てきた。今日は満点。

「ご、ごめん……シャーペン借りていい?」

 だがペンケースを忘れていた。無念。ミサキは笑顔でシャープペンと消しゴムを貸してくれた。後で生協で買おう。こうして一人暮らしのなのに無駄な出費が増えていく。壇上の講師が少し不快そうな目線を投げかけたがすぐ正面を見る。

(ここまでで九時七分、よし。色々あったけど今日の出だしはバッチリ……)

「すみません! 遅れました!」

 わざわざ宣言して教室に入ってきたのは桜庭スズだった。

(そうだ、すっかり忘れてた。桜庭さんも同じドイツ語だった)

 全力疾走したのだろう。ハアハアと息が切れて、せっかくの美人の顔が真っ赤に染まっている。ストレートの黒髪もボサボサでパリッとしていたであろう白いブラウスと紺色のスカートもシワがひどい。

 スズは怯えたように講師を見た。

「あ、あの……」
「いいから早く座りなさい」

(えー!?)

 講師がそう言って指差したのはカナメの隣の席だった。確かに他には空いている席がほとんどない。カナメが戸惑っているとスズはこちらに気付いていない。というか周囲に全く目が入っていないようだ。さっさと座ってカバンから教科書とノートを取り出す。

「あ、あの……げっ」

 小声で気弱そうにこちらを伺うスズ。ようやくこちらに気付いたらしい。

 どうやらカナメと同じくペンケースを忘れたらしい。それにしても「げっ」とはなんだ「げっ」とは。

「えっと、その……わ、私、忘れて……か、書くやつ貸して欲しくて」
「……」

 意地悪ではなくカナメは真面目に悩んだ。自分のものならそれくらい貸すがこれはミサキのものだ。勝手に貸すわけにはいかないし、自分が書くものがなくなってしまう。

「なんで黙ってるの……お、怒ってるの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「不動さん、貸してあげて」

 そう言って咲森ミサキは二つ目のシャープペンをカナメに差し出した。なんというスムーズな察し能力の高さ。これが定型発達者の能力か? いや性格か? 自分にない能力を持つ人たちのことはやはりよく分からない。

 無言でシャープペンをパスするとスズはホッとした顔をした。ペコと軽く頭を下げる。その時カナメは初めてスズの笑顔を見た。

「桜庭さ……」
「ゴホン」

 講師が「いい加減にしろ」と咳払いをしたので慌てて三人は教科書のテキストに集中した。






【4  擬態も楽じゃない】



 それからは特に問題なく授業は進んだ。今日は冠詞の変化についてだ。正直難しくドイツ語を選択したことをカナメはかなり後悔していた。なんで名詞に男性と女性と中性があるのか未だに納得できていない。

(それにしても「げっ」はないでしょ「げっ」は。思ったことが口に出過ぎのアスペめ……)

 内心のことなので悪いネットスラングが浮かんでしまった。根に持ってチラッと隣のスズに視線をやると彼女は授業に集中しているようだ。黒板に書かれた文字をノートに写している。自分のボサボサの髪とシワのある服のことはちっとも気にならないらしい。

 それでも周囲はスズのことを遠巻きに見てヒソヒソと何か話していた。男子は心配そうだったり落胆していたり、女子は失笑したり哀れんだりしている。

 彼らは目立つ美人のスズが寝癖一つ直さない様子に色々言っているらしい。

(意外と美人って損……こういう時、耳がもっと悪ければいいな)

 この耳は聞こえすぎる。デジタル耳栓とやらを買うか考え中だが授業中につけるとなると事情を説明しないわけにいかない。そこはまだ悩む。

 冠詞の変化に集中できずスズを横目でみる。授業によく集中しており、借りたシャープペンをせっせと動かしている。

(今日ペンケースさえ忘れなければ、昨日のことうまく謝れたのに)

 本当に惜しいことをした。ペンケースはカバンに入っているものという先入観のせいだ。それともそんなにうまくいかないか。

(でも、「げっ」て言ったってことは私の顔、多分覚えてるんだよね?)

 しかしどうせ授業中は話しかけられない。スズを見習ってカナメも授業に集中しようとした。ドイツ語にはうまく興味が持てない。正直フランス語が定員一杯でこっちにしただけなのだ。専門科目に関係ある言語といえばそうなのだが。

 とりあえず内容ではなく板書を写すことだけに集中する。するとなんとか手が動いた。考えられない時は手を動かす。高校までの授業はそうしてこなしてきた。

「って、ええ、桜庭さん!?」

 調子が出てきたところでカナメは驚愕した。さっきまで集中していたはずのスズはいきなり机に突っ伏して爆睡していた。集中力が極端すぎる。

「ちょ、ちょっと、起きなよ」
「ゴホン」

 カナメが肩に触れ、講師がまた咳払いをしたがスズは起きることはなかった。







「これ、ありがとう」

 ドイツ語の授業が終わった瞬間にスズは目を覚ました。心なしかさっきよりすっきりした顔をしている。もしかして眠っていたことに気づいていないのだろうか。

 すくっと立ち上がるとミサキにシャープペンを渡して、さっさと教室から出ていってしまう。

(し、しまった、声かけそびれた〜)

「……なんというか、綺麗だけど変わった子だね」

 シャープペンを受け取ったミサキは不思議そうにカナメの方を向いた。やはり変人認定を受けやすいのだなあとなぜか感心してしまった。

「そうだね、変わった子だね」

 自分の方がうまく擬態できているのかもしれない。障害受容の関係だろうか。






【5 感覚過敏、そして工夫一つで世界は変わる】




 カナメはその後も授業をなんとかこなしつつスズのことを考えた。結局アウティングについて謝ることができなかった。名前は知っているが学部も学科も知らない。また来週のドイツ語でチャンスを伺うしかないだろう。

 しかし、再会は思わぬ形でやってきた。

「不動さん、この子と組んでくれる?」

(えーーー!?)

 女性の体育教師はそう言ってジャージ姿の手にテニスのラケットを持ったスズを連れてきた。今は五限目の体育。必須の一般教養科目なので大人数の授業だ。大人数の上に人との距離が大きく同じ授業でもスズと同じ授業とは気付いていなかった。

 授業では雨天以外は基本テニスをする。一つのコートに四人でテニスの打ち合いをするのだ。大体同じ学部で同じコートに固まるのでスズには全く気付かなかった。

 今日は確か休む人が多かった。だからいつもは偶数であぶれないカナメも一人ポツンとあぶれ、仕方なく教師の指示通りラケットの素振りをしていた。

「向こうで桜庭さんも一人だったみたいなの。いつも通りコートで向かい合って打ち合ってくれればいいから、じゃ、よろしくね」
「……」

 どうやらスズもあぶれていたらしい。

 スズも戸惑っているようだが教師の手前か軽くこちらに会釈をした。カナメが話しかけるか悩んでいるとスズはさっさとコートの向こうに行ってしまった。考えているうちにスズはボールを持ってラケットを構えてしまう。

「打っていい?」
「う、うん」

 そうしてボールの打ち合いが始まる。二人ともさしてテニスはうまくないらしく、三回も打ち合いは続かない。それでも終わると自然と打ち損ねた方からボール籠に向かい、再び打ちあいを始めた。

 ただ真面目に体育の授業をこなしていく。

(どうしよう、話しかけた方がいいのかな?)

 幸い今日は休みが多く、一つのコートでスズとカナメの二人きりだ。普通に話しても隣のコートまで声は聞こえない。発達障害の話だってできるかもしれない。

(いやでも、この子は私は普通だ、発達障害のあんたとは違うんだって思ってるんだよね?)

 そうすると話しかけない方がいいのだろうか。もしかしたら謝ることより、忘れられた方がいいのだろうか。どうせ彼女とは学部学科が違う。このまま前期の授業が終わればもう会う事もないだろう。

「……桜庭さん?」

 急にボールが帰ってこないので不思議に思ってコートの向こうを見るとスズは俯いていた。遠目にもぐったりしている。今にも膝をつきそうだがラケットを杖にしてなんとか立っていた。

 慌ててカナメがコートの向こうへと近寄ると本当に顔色が悪かった。

「ちょっと大丈夫?」
「……しくて」
「え?」
「眩しくて……目が痛い」

 かなり辛そうだ。カナメは空を見上げた。今日は六月の梅雨の時期のわりに白い雲が眩しい晴天だ。当然コートには日光は強く反射していた。

 視覚過敏持ちかとカナメは知識から推測した。発達障害の人は何かしらの感覚過敏を持つ人が多い。酷い人は晴天の空の雲の白ささえ辛い。カナメはポケットに入れていたものを取り出すとスズに渡した。

「これ、かけてみて」
「え……何これ? 私、コンタクトだよ」

 それは高校から使っている淡いグレーの透明に近い色のサングラスだった。正式にはカラーレンズというらしいがカナメはサングラスとして使っているのでそう呼んでいた。

 とにかくパッと見てただのメガネに見えなくもない。カナメも軽く視覚過敏があるのでこれからの夏に向けて念のため持っていたのだ。

「これはメガネじゃないよ。その、視覚過敏でしょ? 光が辛いならサングラスで少し楽になると思う」
「シカクカビン? 何それ」

 どうやら知らないらしい。もしかして発達障害を否定するあまり知識を持っていないだろうか。

「いいから、これかけて少し休みなよ。きっと楽になるから」
「そんなわけ……」
「いいから!」
「わ、わかった……なんで私がこんなこと」

 カナメの迫力にスズは思わずサングラスをかけた。

「……あれ?」

 数度瞬きをとスズの目の痛みが和らいだ。目を開けているのも辛かったのに今は目を開いても平気だ。まだクラクラするが周囲を見回すとさっきまでの痛いほどの眩しさを感じない。

 スズはマジックをかけられた気持ちだった。カナメを見返すと彼女は笑っていた。

(工夫一つで世界は変わる)

 あんなに苦しかったことが嘘みたいだ。スズは一度目を閉じてまた開くが目の痛みは消えていた。

「よかった、効いたみたいだね。じゃ、あとは休んでて」
「信じられない……何をしたの?」
「何って……その、光が辛そうだったから、サングラスを貸しただけだよ」
「光?」

 スズは驚愕した。今まで夏の強い日差しや蛍光灯の灯りが辛かった。それを理解されたのは始めただった。今までこんなに辛くて、周囲についていけないのは自分の努力不足だと思っていた。

 カナメは周囲を見回して、コートには他に誰も人がいない。だから思い切った。

「その、昨日はごめんね……発達障害……のことを病院で大声で話したりして」

 意識的に「発達障害」のところだけボリュームダウンする。

「……え」

 スズは再び驚愕した。昨日は勝手になんてことを言うのだと思ったがまさか謝られるとは思わなかった。ドイツ語の授業で再会した時もすぐ無視したのに。

「センシティブなことなのに勝手に人前で言われたくないよね、不注意だった。反省してるよ。えっと……その。そうだ! サングラスはお詫びにあげるから!」
「……そんな、いきなり、もらえない」
「悪いことしたと思ってるの! だからこれで謝罪は終わり!」

 高校の時よりマシになったとはいえ、カナメもコミュニケーションは苦手だ。だから思い切って正面切って謝るだけで正直もういっぱいいっぱいだった。

 疲れ果てたカナメが背を向けてバイバイと手を振って去っていく。スズは手を伸ばして慌てて止めた。

「ちょ、ちょっと待って!」
「桜庭さん、ハッタツで色々思うことあるかもだけど、それかけて過ごしたらきっと楽だよ! 私たちは簡単な工夫でおかしいくらい楽になることあるんだから!」
「だから待ってってば!」

 その瞬間「今日の授業はここまで!」と体育教師の声が響いた。カナメは恥ずかしくなってきてその声を合図にさっさとテニスコートの出口へ走って逃げた。





【6  そして二人は出会った】






 体育館の着替え室を出て校舎を移る時、カナメは話しかけられた。

「待って!」
「桜庭さん?」

 大声に振り返るとサングラスをかけたままの桜庭スズがいた。何か急いでいたのかジャージ姿のままだった。さっきより顔色がいいので本当に視覚過敏だけが不調の原因だったらしい。

 スズはカナメを見つけられてホッとした。あの後さっさと着替えに行ってしまうし、スズは着替えも遅かったから

「ど、どうしたの?」
「……名前」
「え?」
「名前、教えてもらっていい?」
「……不動カナメだけど?」

 思わず正直に答えてしまった。

「ありがとう、私は桜庭スズっていうの」

 それでもありがとうと言われた時の笑顔があまりに柔らかくてまあいいやとカナメは思ってしまった。






 桜庭スズは帰り道を歩いていた。夏至が近いせいか五時も近いのに真っ青な空だ。じっと見上げるがわずかしか眩しさを感じない。

 本当にこれのおかげだろうか? とかけたままのサングラスに右手で触れる。そっと外してみるとまた眩しさで目が痛かった。すぐ戻すとまた楽になる。今日大学に来る時は何もなしだったのに今はこれなしというのが想像できなかった。

 というかこれは本当にサングラスなのだろうか? もらった時はほとんど色なんかついていなかったからメガネと勘違いをした。しかし、外すと眩しいと感じるということはただのメガネではない。

(不動、カナメ……どうしてこんなことを知っているの? どうして私に必要なものが分かったの?)

 彼女とは三度しか会っていない。病院とドイツ語の授業と体育の授業の時だけだ。しかもほとんど話などしていない。

(何者なんだろう)

 スズは帰宅した後もその考えが頭を離れなかった。






 一週間後、再びドイツ語の教室にて。

「おはよう、咲森さん」
「おお、不動さん、おはよう。十分前なんて珍しいね」

 珍しくギリギリではない優雅な登校をするカナメにミサキは手を振った。彼女はまたカナメがギリギリに登校するのではとドアの側の一番前の席で待っていた。

「あはは、まあ私も日々進化しているんだよ」

 実は昨日は最終作戦を行ったのだ。具体的には昨夜の九時にWi-Fiの電源を落として、目覚まし時計を二つかけたのだ。おかげでAIスピーカーは朝の挨拶をしてくれなかった(インターネットに繋がないと何もできないのだ)がお陰で七時半に目を覚ますことができた。トーストに目玉焼きまで作ることができた。やはり夜にインターネットは良くない。代わりに本を読み耽ってしまったがそれでも0時前には眠った。

 これからは月曜の準備はこれでいこう。非常プランからの解放の日も近い。そう思ってカバンを見ると今日はちゃんとペンケースが入っている。もちろんノートと教科書も。

 今日はいい日になりそうだと思っていると突然隣に誰か座った。

「おはようございます、カナメさん」
「へ?」

 隣にいたのは桜庭スズだった。相変わらずクラシカルなブラウスとスカートを着ている。そして顔にはカナメが渡したサングラスをかけていた。

「さ、桜庭さん、おはよう。どうしたの?」
「またカナメさんに会えてよかったです。大学って大変ですね。同じ学科じゃないから探すのに苦労しました。というか探せなくてこの授業まで待ったんですが」

 いきなりの下の名前呼びについていけない。ドアから入ってきた気配はなかった。探したと言っているがまさか待ち伏せしていたのか?

「カナメさんって……不動さんと桜庭さんって知り合いだったの?」
「いや、知り合いってほどじゃ……」
「友人です」
「「えー!?」」

 余裕の笑顔のスズにカナメとミサキが同時に声を上げる。なんなのだ、そのいきなりのランクアップは。というか口調が変わっている。その取ってつけたようなですます口調は一体なんなのだ。

 スズはカナメをまっすぐ見つめると急にガクッと九十度頭を下げた。

「まず先日はどうもお世話になりました。こちら母に相談して考えたお礼の品です。お口に合えばいいのですが」

 そう言ってピンク色のリボンが巻かれた高そうな菓子箱を差し出してくる。世間知らずのカナメでも知っている有名な高級メーカーだ。多分中身はクッキーの詰め合わせ。

「突然こんな高そうなの貰えないよ」
「なぜ? カナメさんは私にこれをくださったではないですか?」

 そう言ってサングラスをかけた顔を近づけてくる。確かにそのサングラスもカナメにとって安い買い物ではないが、謝罪の気持ちだし、流石にこの菓子は不釣り合いだ。

「そりゃそうだけど……ていうか、その突然のですます口調やめて! 混乱する!」
「なぜですか、大切の友人には礼儀正しく接するべきです」
「だからいつ友人になったのー!?」
「ちょっと不動さん……先生が」
「ゴホン」

 チャイムがなったのにまた騒がしい生徒たちにドイツ語講師は今週もわざとらしい咳払いをした。



【一章「私は発達障害、彼女は」完】

【二章 「そもそも発達障害ってなんなの?」に続く】


あとがき

二章で発達障害トークバトルできそうです。

おまけキャラ設定その①



不動カナメ

・発達障害の診断は高校一年生の頃
・その頃クラスのみんなから無視をされており、適応障害となり、発達障害の診断に至った
・言語が強く、本を読むのが早い。ペーパーテストに強いタイプ。
・身長は160センチくらい、顔は普通
・桃源郷大学一年生、文学部哲学科、一人暮らしをして通っている
・家族は父と母。発達障害の診断を受けて以来ギクシャクしてる。
・高校の頃から同じ発達障害の自助グループに通っている


桜庭スズ
・発達障害の診断は大学一年生の時(つまりつい最近)
・子供の頃から普通になれず、普通になりたいと思っていた
・言語は弱く、数字には強い。映像記憶が高い。テスト勉強が得意な兄に助けてもらって第一志望に受かった。
・身長は155センチくらい
・かなりの美人だが相貌失認の気があり、顔面の美醜がいまいち分かっていないので、美人の自覚がない
・桃源郷大学一年生、理学部数学科、自宅から通っている
・家族は父と母と兄。家族のサポートが大きく、それでなんとかなってきた側面がある。
・お母さんの買った服しか着たことない


桃源郷大学
・架空の大学です
・京都にある
・文学部から理学部まである総合大学
・大きい大学なので学部違うと人探すのかなり難しい
・割と洒落たキャンパスで有名




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?