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移りゆく国と雅の姿

平安の風情を体現する人物に藤原公任がいる。
一条天皇治世を支えた「四納言」の一人で、和歌、漢詩、管弦のすべてに秀でた当世随一の文化人だ。藤原道長を前にして己の風雅を誇示した「三舟の才」のエピソードからは、音楽と学問への造詣が単なる教養や文化的名声にとどまる類のものではなかった風潮を今に伝えている。

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政治と音楽は不可分という儒教の教え

日本に儒教が伝来して後、朝廷は政治と音楽を不可分と捉えてきた。これは誇張でもメタファーでもない。『礼記』には、「楽至則無怨。礼至則不争。損譲而治天下者」とある。音楽が広がれば怨嗟はなくなり、礼儀が広がれば争いは絶える。結果、天下を治めることができるというわけだ。儒教が最も重視する考えの一つである「礼楽思想」である。

ただし、音楽なら何でも良いわけではない。正しく調和された古来からの「雅楽」でなければならず、今で言うポップミュージックのような娯楽要素の強い音楽は人々を惑わすとされた。

中国の国家体制を取り入れた奈良朝は、公式の行政機関として治部省配下に雅楽寮を設置した。雅楽寮の官人は、天皇行幸や仏教行事といった席で音楽や舞を披露する。当時の法典である「令」には、唐(中国)の音楽、高麗百済新羅(朝鮮)の音楽といった分野ごとに、担当者の定員を決めている。

儒教精神の強かった奈良時代には、この雅楽寮が盛んに活躍した。特に遣唐使吉備真備が『唐の礼典』、『楽書要録』、調律用具を持ち帰ったのを境に、唐楽が最も権威ある雅楽の位置を占めるようになり、その担い手として雅楽寮は重要な官僚機構と認知されるに至った。

音楽の担い手は国家から個人に

ところが、平安時代になると趣が変わってくる。

天長~嘉祥(824~851年)にかけて、雅楽寮は大幅な減員に追い込まれる。しかし、音楽そのものが軽んじられるようになったわけではない。雅楽寮という官公庁ではなく、貴族個人が主たる担い手になっていったのだ。

貞観7年の記録に、和迩部大田麿という貴族が死去した記録がある。彼の官職は雅楽権大允、位階は外従五位下だった。実は、当時の法が規定した雅楽大允の官位相当は正七位。にもかかわらず大田麿は、宴会で披露した音楽が評価され外従五位下という格別の待遇を与えられた。

これは大田麿に限った話ではない。貞観期(859~877年)以降、こうしたケースが散見される。個人の技量に応じて朝廷が地位を与えるようになったわけだ。

平安期を通して、音楽という政治手段は国家機構から貴族個人に移譲されるようになった。このことは、当時の薨卒伝にしばしば登場する「琴書」という言葉に形を変えて表れてくる。琴書とは琴(=音楽)と書(=漢詩)のことであり、「これに通じていた」と薨卒伝で記載された人物はもれなく、有徳の士でもあった。琴書と徳はセットだったのだ。

「琴書思想」も、儒教の流れを強く汲んでいる。儒教は元来、法や武力ではなく、礼楽によって社会全体の調和を保つことを理想としている。平安期には、貴族個人にこうした価値観が広がっていたことが分かる。

平安時代と言えば、『源氏物語』に代表される国風文化が花開いた時代だ。和歌や管弦といった宮廷文化も勢いを増した。ただ、「日本独自の文化」というと少し正確ではない。漢字を基に平仮名や片仮名が生み出されたのと同じように、儒教という大陸の政治思想を土壌として日本文化が成り立ってきたと言える。

冒頭に紹介した藤原公任は、文化人でありながら政治的野心を強く持ち続けた人物。当時はまだ、政治と文化が切っても切り離せない存在だったことに思いを馳せると、我々が思い浮かべる平安の雅な光景も少し違った見え方になるかもしれない。

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