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あたりまえが特殊 _『リファ』#28【小説】

 生まれたときに割り当てられた性別にも、好きになる相手の性にも、私は違和感を抱いたことはない。そんな自分が、彼らの立ち位置からの世界を捉えようと想像するときに役立つのは、トイレだ。

 トイレとは、お金持ちも貧乏人も、地位があるなしに関係なく、すべての人に必要な場所だ。そして、人間は一日に数回行く。その空間で彼は毎回、不一致を突きつけられてきたことになる。

 外出先のトイレなら、外からの視線やプレシャーも受け止めてきただろう。自分が既存のルールに当てはまってないことを、慢性的に突きつけられる生活は少し想像するだけでしんどい。

 そういう環境の中にいながら、二ノ宮は二児の父親になった。先ほど語った「抱いたことのなかった喜び」という言葉が、実感を伴って迫ってくる。

 「そうやって生き延びてきた二ノ宮さんが、お子さんの母親でもある、今のパートナーに出会われたのですよね」と私は尋ねた。

 二ノ宮はうなづいた。

 「十年ほど前に出会いました。彼女には人間的に惹かれるものがあって、付き合った当初から、このまま生活を共にしたいという感覚がありました。育った環境も価値観も、似ていたんですよね」

 二ノ宮は腕を組み、天井を眺めた。パートナーと出会った時のことや、彼女の印象を思い出しているようすで、とても柔らかい表情をした。

 私は口を閉ざし、二ノ宮の説明を待つ。外は細かい雨が降り出した。雨粒がパチパチと窓ガラスを弾く。

 そこから、彼女の両親に結婚を反対されたこと。時間をかけて彼女の両親と対話を重ねて、葛藤の末に理解し合い、認めてもらうまでの道のり。日本の法律上入籍ができないものの、一緒に過ごすことで子ども育てたいと自然と考えるようになったこと。ぽつぽつと話してくれた。

 聞けば聞くほど、ありふれた恋人、夫婦、家族の話だった。好きな人と一緒に暮らしたいし、家族になりたい。当然の感情だ。

 二ノ宮の行動は結果的に、誰も変えようとしなかった慣習を打ち破ろうとするものだ。ただ本人視点でとらえると、世の中を変えたいと立ち上がったわけでも、何か特別なことをしたいわけでもない。ただ、ほかの多くの人と同じような日常を送りたい。

 普通に恋愛をして、実を結んで、子を育てることで次の世代につなげようと望んでいるだけなのに、特別になってしまう。

 二ノ宮の言葉は、私のために放たれたものではない。わかっていながら、私は二ノ宮の話に共感以上のものを抱いていた。

 数ある世の中の課題を考えるとき、自分抜きで語るなと言ったのは誰だったか。

 二ノ宮は、平静な声で続けた。

 「公表しようと決めたのは、子どもが成長したときに、『自分は存在を隠される存在なんだ』『隠さなくてはいけない人間なんだ』と思ってほしくなかったから。何かを隠すときって、悪いことをしたり、うしろめたい気持ちがあったりする場合ですよね。僕たちは、何も悪いことをしていない。誰かを傷つける意図があったわけでも、実際に誰かを傷つけたわけでもない。三人が納得して、望んで命を授かった。事実は事実として公表することが固まりました」

 子どものことを公表した背景を語った言葉は、矢のように私の胸に刺さった。 ネット記事でも読んだ内容ではあったものの、本人を前にしてその声で放たれた生の言葉は、力があった。私自身がいる場所を、強く意識させられもした。

 「オープンにすればするほど、僕たち家族の存在を知り、味方になってくれる人が増えています。生まれて初めていま、長生きしたいと思ってます」

 目尻にしわを作って、二ノ宮は破顔した。

 私は、あふれてきた涙をこぼれないように堪える。彼から放たれる話の中に、私がいた。

 取材の終わる時間がきていた。ヨンエさんが、「今日はこのあたりにして、次回にしましょうか」とインタビューを締めくくる。

 私は、ICレコーダーをオフにする。空気がまたふわりと緩む。

 パチパチ、カタカタと弾くような音が強くなる。降り出していた雨が激しくなったようだ。この部屋に入ったころには明るかった空が、黒い。

 強くなってきちゃいましたねぇ、と帰る支度をしながら私はこぼす。見送りに立ち上がった二ノ宮が、「昔から、雨の日が好きなんですよね」とゆったりと言った。

 「雨の日が?」

 気になって、私は聞き返す。

 「いやなものを洗い流してくれているんだって、カチカチと窓や壁に打つ雨音を聴いていました」

 二ノ宮は、懐かしそうに言った。未来が見描けなかったかつての自分を、想っているのだろうか。

 私のからだが、ふわりと軽くなった。



つづく

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