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ゆるやかな伝播 _『リファ』#27【小説】

 あの気まずいランチ以来、ヨンエさんとは仕事以外の会話を避けていた。ヨンエさんからも、しない。

 一方で、もともとヨンエさんから声がかかった「家族のかたち」という、伝統的な家族観にとらわれない人たちにインタビューしていく企画は、進行していた。

 私は、担当するトランスジェンダー男性の二ノ宮薫への取材準備を進め、ヨンエさんには、質問内容をまとめたインタビューシートを送っていた。「オッケー」との短いメッセージと、インタビュー日時と場所の連絡がヨンエさんからきていた。

 取材当日になる。

 新宿二丁目にある二ノ宮の事務所のビル前で、ヨンエさんとカメラマンの三人で待ち合わせる。わだかまりなどなかったかのように、ヨンエさんへいつもの挨拶を投げた。

 オフィスのあるビルは、一階がスペイン料理店で、昼時を過ぎたばかりの店内はまだ賑わっていた。ハーブやにんにくの香りが店の外にも漂うなか、三階に上がった。

 事務所は必要なものしかないことが徹底された簡素なワンルームで、学校の会議室にありそうな長テーブルと、スチールの椅子が数脚、部屋の中央に置かれている。ホワイトボードがあり、そのすみには、六色のレインボーカラーの横断幕や小道具が置かれていた。

 四月にオンライン中心に開催されたパレード、東京レインボープライドで使ったと思われるものだ。二ノ宮は、入口から一番奥に位置するスチール椅子に座っていた。

 名刺交換をして、写真撮影に進む。カメラマンが撮影準備をする間ヨンエさんが、二ノ宮と、桜井と名乗ったマネージャーの男性と雑談を交わす。場を温めて、ほぐそうとしてくれていた。

 桜井は、日本人らしい苗字と、完全ネイティブの日本語を話すことに反して、アフリカ系のルーツがあると外見でわかった。加えて、セクシャリティでもマイノリティーなのだろうか。桜井の存在も気になってしまう。三人の会話を耳に入れながら、私は二ノ宮を観察することに集中した。

 二ノ宮の身長は私より少し高いから、165センチ程度だろう。一般男性と比べると小柄で細身ながら、鍛えられて引き締まった肉づきはスーツの上からでもわかる。その上に、四十という年齢にしては子どもっぽい小さな顔がのかっている。口周りに生やしたヒゲが、アンバランスにも思えた。

 ゆったりと穏やかに微笑む表情と佇まいが、乗り越えてきたさまざまな経験を連想させる。そんな受け取り方は、「トランスジェンダー男性」というフィルター越しに見るからかかるバイアスなのだろうか。

 カメラマンの要求通りに、からだの角度や姿勢を変えたりする二ノ宮は、撮影中もとても落ち着いていた。カメラマンと交わす軽口からも、リラックスしているようにも見える。

 撮影を終えて、テーブルに移る。二ノ宮と向き合う。

 私の隣に座るヨンエさんが、企画の説明をした。

 インタビュー記事の掲載は、全六回。五月に誕生した第二子の妊娠出産の経緯についてや、精子提供者であるゲイの友人も一緒に行う“親三人”での子育て、パートナーである女性との協力体制、現状の家族制度に思うことなどを語ってもらう。

 取材は、今日と一週間後の二回、計四時間を予定していた。

 二ノ宮と目を合わすと、グレーがかった澄んだ目にからだごと吸い込まれそうになる。この目で一体、何を見てきたのか。

 「第二子のご誕生、おめでとうございます」

 用意していたお祝いの言葉を伝えたあと、「男の子ですか?女の子ですか?」と何気なく続けようとして、ハッと飲み込む。

 友人に子どもが生まれたら聞いてきたが、二ノ宮にとっては、何でも性別でカテゴライズしようとする価値観自体に、うんざりしているかもしれない。その人についての情報を得るときに、性別が占める範囲は大きい。無意識の判断にも気づかされる。

 「ありがとうございます。上の子に続いて女の子です。今のところは」

 こちらの胸の内を見透かしたように、ニノ宮は柔らかい表情をこちらに向けて言った。“今のところは”と加えるのが絶妙に正しく、ふふふと互いに笑い合った。この空間を覆っていた空気が、ふわりと緩む。

 −−第一子の誕生は2018年十月、第二子の誕生が2021年五月。子どもと暮らす生活を始めて三年半になられますが、子育てをされて、どんなことを日々感じていらっしゃいますか?

 広い質問から始めた。

 「とてつもなくかわいい生命体ですね。溺愛しています」

 二ノ宮は、屈託なく歯を見せて笑い、続けた。

 「子どもを育てている多くの親御さんよりも、僕が感じている幸せは大きいかもしれません。親になることは、人生の選択肢に当たり前に組み込まれている方が大半じゃないですか。でも僕は、トランスジェンダーである自分が家族をつくるということを、まったく想像していませんでした。願うことすら、できませんでしたから」

 「プラスへの振り幅が大きいと?」

 「そうです。同じスイカを食べるのでも、塩をなめてからのほうが甘く感じますよね。あり得ないことが実現した可能性の広がりも含めて、抱いたことのなかった喜びが、子育てにはあります」

 二ノ宮は、すらすらと滑らかに話した。似たようなことをほかでも聞かれて、何度も説明してきたのだろう。インタビュー自体にも慣れている。

 私は率直な感想を返す。

 「私たちが学生だった二十数年前は、LGBTQを公表しながら社会生活を送る大人を目にする機会は、ほとんどありませんでしたよね。芸能人や水商売の、オネエと呼ばれるような、特殊で違う人という認識だったり」

 世の中に実際はいるのに、多数決原理の中でいないとされることの害悪を思う。

 二ノ宮が日常的に抱えてきた心許なさや、今もあるだろう苦しみをわかることはできない。ただせめて、誠実でありたい。インタビューとは、限られた時間の中でインタビュイーの内面に接続することだ。

 「そうそう。ロールモデルが身近にいなかったので、自分がどうやって生きていけばいいかわからなかった。女性として年を重ねていく姿はまったく想像がつかないけれど、男性として生きていく選択肢があることも知らない。そういう状況で暮らしていたので、子どもや家族をつくるという以前に、自分が大人になる未来を、一切イメージできませんでした」

 二ノ宮の半生に想いを馳せながら、相槌を打つ。胃の奥がきりきりと傷んだ。二ノ宮はこちらの目をまっすぐに捉えて、続ける。透き通った目が、本当に美しい。

 「好きになった女性とお付き合いをしたことはありましたが、『ずっと一緒にいることはできない』と将来をイメージすることはできませんでした。表面的には明るく振る舞ってはいましたが、心の中では漠然と、自分は大人になれない。どうせ死ぬなら早くに死にたいと、30歳の誕生日に死のうと考えていました」

 大人になる未来をまったく描けない。その絶望を想う。自分にとって最後の居場所であるはずのからだと心が、いつも噛み合っていないことの気持ち悪さとは、どれほどなのだろうか。



つづく

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