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目の前にいない人を想像する サン=テグジュペリ作『星の王子さま』/ポプラキミノベル【読書レビュー】

 大人には、いつだって説明が必要になる。子どもは、くたびれてしまう。

 『星の王子さま』序盤にある一節。それを思い出す出来事があった。

 四歳の次男が造形教室に通っている。その日の絵画のお題は「はたらく人」。すぐに息子は、クレヨンで描き始めた。巨大なカブトムシを。鼻唄を歌い出さんばかりに愉しげだ。

 「せんせいのはなし、きいてた? はたらくひと、だよ?」苦笑いしながら、スケッチブックに向かう息子に声をかけた。

 「かぶとむしのきぐるみをきたひとが、はたらいているんだよ」

 机に顔を向けたまま返された。小さな画家は、ちょっと面倒そうだった。

 <称賛されたい、うぬぼれ屋>や<お金に縛られる実業家>と並ぶような、わからない大人のほうとして、わたしの内に『星の王子さま』が蘇ってきた。

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【上写真】息子作『はたらくひと』。「かぶとむしのきぐるみをきたひとが、きにのぼっているところ」(息子談)

 帰宅したわたしは、少しムキになっていた。岩波書店のオリジナル版を本棚から引き抜き、冒頭の挿絵を息子に見せた。「なににみえる?」聞いた。

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 「おおきなへびが、おおきなごはんをたべちゃって、おなかがふくらんじゃったね」と言った。小一の長男も、決まりきったことじゃないかという顔で同様の返答をした。

 物語通りにゾウを飲み込んだとまでは言わなかったが、大人は“帽子”と見る例の絵を、そうは見なかった。子どもは、ほんとうに心の目で見ているのか。感動した。

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 子どもと一緒に読みたい。ポプラキミノベルで創刊されたばかりの『星の王子さま』を買った。

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ヒツジ=自分の中にある子ども心

 序盤で、王子さまはパイロットと出会う。王子さまはパイロットに、「ヒツジの絵を描いて」とお願いする。何匹かのヒツジを描いてあげるものの、王子さまのお気に召さない。「いいかげんにしてくれ!」とパイロットは投げやりに、木箱を描く。

 すると「そう、そう、こんなのが欲しかった!」と王子さまは目を輝かせる。この木箱の中に、ヒツジがいる。わたしは、このシーンが好きだ。

 ヒツジとは、「自分の中にある子ども心」のこと箱とは、ヒツジの外側で育ってしまった社会性や客観性、常識のある大人のことだ。

 自分のすべてをかけて、ほんとうにほしいものは何か? 

 子どものころには、あった。それが大人になるうちに、他人に理解してもらえなかったり、自分自身を見つめる目が現実味を帯びてブレーキを踏んだり、閉ざしてしまう。

 でも、大人になってもずっと持ち続けてはいる。パイロット自身も、自分の中にあるヒツジを完全に抑え込めずに、葛藤していた。

 わたしもそう。物心ついた時から本が好きで、小説や詩が好きで、小説を描く人になりたかった。十代のわたしは、何者かにならないといけないなら、作家か詩人以外になりたくなかった。

 それが、古今東西の作品を読み続けるうちに、

(わたしなんかが、こんなすごい人たちと肩を並べられるわけがない)

 奥に奥に、押しやった。ほんとうになりたいものやありたい自分をごまかして、出版社に入社して記者になり、独立してフリーランスの商業ライターをしている。本心をずらした。

 でも、やっぱり。書かずにはいられなかった。

 ただつくりたいものを描く、自分の感情に誠実に紡ぐ。いまやっと、自分のために書き始めた。小説を書くことで、わたしは癒されている。前を向けている。

 人が生きていく力は、子ども心の中にこそある。

 子ども心が語る内なる声に耳をすまし、真摯に向き合う。子どもと大人の心のバランスを取ることで、わたしたちは幸せに近づける。

<なつき合う>ことで特別な者同士になる

 王子さまとキツネが出会うエピソードは、繰り返し読んだ。特別な他者とは何か。 その存在のかけがえのなさや、世界をも変える悦びに気づかせてくれる。

 王子さまは地球で、自分の星でたった一つの存在だった花がありふれたバラでしかなかったと知り、落ち込む。そんなときに、キツネと出会った。

 「一緒に遊ぼうよ」と誘う王子さまに、キツネは「きみとは遊べない。まだ、きみに<なついてない>もん」と言う。

 ポプラキミノベルでは<なつく>と訳されていたが、フランス語ではapprivoiser(アプリヴォアゼ)。<飼い慣らす><手なづける>という意味だ。

 友だち同士で使うには、対等ではない印象を受ける。王子さまも「<なつく>ってなあに?」とキツネに繰り返し、意味を尋ねる。

 キツネは「ずいぶん忘れられちまってるんだよな、これが。<きずなを結ぶ>っていう意味さ」と説明する。つまり、apprivoiserは、新たなきずなやつながりをつくり出すこと。<なつく>=<なつき合う>という意味を含んでいるのだ。

 お互いが<きずなを結ぶ>と、なんでもなかった麦畑の穂を見たキツネは、王子さまの金色の髪を思い出す。麦畑をわたる風の音も好きになる。

 キツネと話すうちに、王子さまは自分の星で時間をかけて世話をし、育て、話をしたバラが、きずなを結んだ特別なバラであることにも気づくのだった。

 <きずなを結ぶ>とは、相互に影響を与え合うこと。相手から影響を受けて自分も変わり、相手も変わること。

 友だちでも恋人でも、人と愛することにはものすごい力がある。愛することで、自分が他者の中に入っていき、自分の中に他者が入ることを受け入れる。自分が変わることを厭わなくなる。

 他者をとことん愛してみたい。愛する他者の世界を取り込んで、わたしは他者の内に入り、分かちあいたいと思う。

きずなを結ぶには根気がいる

 ただしキツネは、<きずなを結ぶ>には、ねばり強さがいる、とも説明する。

 お互いの我慢が欠かせない好例は、結婚生活だろう。

 自分の想像の範疇を越えた言動を相手がするたびに、無理解に苦しむ。たまに会う友だちなら、「しょうがないヤツだなぁ」と個性の一つとして笑い話になる。

 夫となると話は違う。

 うちの場合なら、お酒が好きな夫は、飲みすぎるきらいがある。適量を超えて記憶を無くす。道端で寝ていて警察に補導されたことは、一度ではない。スマホ、財布、時計、上着、カバン。忘れられる一通りのものを、お店から帰宅する間に失くした。

 深夜にかかってきた警察からの電話に対応するのはわたしであり、ものを失くして買い直すのは家計からであり、翌朝起きられない夫に苛立ちながら、代わりに保育園へ子どもを送るのはわたしである。

 夫の多様性を受け入れるのが難しいのは、受け入れることと妻の負担もセットだから。「みんなちがって、みんないい」なんておめでたい姿勢でいられるのは、自分に利害が及ばないときだ。

 多様性は、生やさしいものではない。根気よく、落としどころを探り合うしかない。

 お酒を一切やめてほしい。そう主張したこともある。うまくいかなかった。妻であっても、他人を変えることはできない。

 では、酒を飲みすぎる夫の、わたしはどの部分が忌々しいのか?

 翌日に影響することだった。翌朝の活動を滞らせないこと。それを夫は厳守することで、折り合いをつけている。

 結婚生活は、苦しみの連続だが悲惨ではない。無理解の苦しみがあるからこそ、歓びも大きくなる。

 たとえば、わたしは野球に詳しくない。それが、夫の目を通して語られる大谷翔平選手を知ることで、夫の世界に触れ、野球の面白さに出会うことができた。夫が愛する作家や作品は、そのものよりも「夫のフィルターを通ったその作家・作品」を好きだったりする。

 探せばどこかにいい出会いがあって、自分にぴったりのいい人が現れる。そんなものは幻想だ。つくり上げ、時々で微調整していく。

 深い喜びを伴った関係を築けると、世界の見え方は一変する。「私」という独立していたはずの概念がぐらつき、変わる。

 バラへの想いだけになって自分の星に帰った王子さまのように、愛する者のための生き方を、達成したいと思う。

 王子さまときずなを結んだことで、近くにいなくても、星空を見上げると幸せに満ちるパイロットのような世界の受け取り方をしたい。

 ポプラキミノベルのあとがきが、胸に迫った。新型コロナウィルスが世界中に広がり、不安な状況の最中に創刊した理由が書かれていた。

 今まで経験したことのない中にいて本当に大切なのは、目の前にいない人のことを想像できる力、経験したことのないことを思い描ける力ではないかと、強く感じています。

 大切なことは、目に見えないーー。

 星の王子さまは、奥に抑え込んでいた子ども心を心の目で見ること。目の前にない人のことをも想い、心をつなげ合うこと。その大切さを呼び起こしてくれる。


(おわり)

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