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疑心 _『リファ』#13【小説】

 ベランダの屋根に雨粒が当たり、弾けるような音で目を覚ました。激しい雨が、昨夜から降り続いている。

 子どもたちが起きる前に、毎朝タブレットでざっとニュースに目を通す。コロナの変異株の呼び方が、あるときを境に、英国型はアルファ株に、南アフリカ型はベータ株に、ブラジル型はガンマ株に、インド型はデルタ株に改められていた。

 もともとは確認地の国名を冠にして呼ばれていたが、差別を招くとして世界保健機関(WHO)が、ギリシャ文字を順に振るよう変えた。こういう命名から、偏見や差別につながると考えられるのか。言葉ひとつから、人はいつでも意図せずとも差別行為を犯しうる。そんな警鐘を鳴らされているように感じて、神妙な気持ちになった。

 リビングの外から、賑やかな声がする。起きたばかりの銀がどうにもならないことでぐずっているのだろう。太一に訴えていることに耳を澄ますと、「たんじょうびが、おそい! ぷれぜんと、ほしい!」との主張だった。銀はもうすぐ4歳になるが、S級クレーマーのような癇癪はまだまだ絶好調だ。

 うるさいなぁ、と言いながらとぼとぼとリビングに入ってきた太一は、壁に掛けてあったカレンダーを手に取った。うしろにいた銀に見せ、紙をめくりながら説明する。

 「いまね、ここ。六月でしょ。次が七月、その次が八月で、ほら、ここで銀の誕生日がくるよ」

 ロジックを重ねるが、銀のイヤイヤは納得するどころか激しさを増す。そうじゃなくて…、太一の対応に私はげんなりする。こう騒がしくなったら、もう朝の情報収集の時間は終わりだ。

 「理屈じゃなくてさ。気持ちを、感情を、まず受け止めてほしいんだってば!」

 太一に対する、心の叫びのようなことを放っていた。泣き続ける銀を抱きかかえ背中をなでながら、「はやく、たんじょうびがきてほしいよね〜。プレゼントは、きょうりゅうのにんぎょうがほしいんだよね〜」銀に共感する。

 太一に土日の子育てを任せてよいものかと心配になるが、気にしても仕方がない。切り替えて、 

 「多めに甘口のカレーを作っておいたから、食べてね。冷凍室に、アイスをたくさん買って入れてもある。子どもを持て余したときは、アイスを食べさせるといいよ」

 不在の間の、伝達事項を伝える。
 
 「ピザパーティーするぞ〜!」

 「やったー!!」

 三人で愉しそうにしている。

 私だけが京都の実家へ帰ることを葉や銀に話したところ、ママのいない二日間を冒険のように受け取ったようで、盛り上がっていてほっとする。

 つけているテレビの朝の報道番組では、二年ぶりに行われた党首討論のダイジェストが流れていた。立憲民主党の代表が、政府の新型コロナ対策に加えて、東京五輪・パラリンピック開催の是非などが焦点となったようだ。

 五輪の意義を問われた総理は、女子バレーの東洋の魔女を例に挙げて、1964年の東京五輪の思い出を語っている。おいおいと声を上げて、画面に野次を飛ばしそうになる。

 一国の首相ですら、半世紀以上前の成功体験しか語れない。

 なぜ、再び東京で五輪を開催するのか。パンデミックの中でも止めないのか。もはや、わからないまま突っ走っている象徴を目の当たりにして、どんよりした気持ちになる。

 テレビを消し、自分の目の前のことに意識を向ける。

 ショルダーバックに財布とスマホを入れようとしたら、スマホがいつもの場所に見当たらない。スマホゲームをした葉が、私のスマホを使ったまま放置したのだろう。太一のスマホを、本人に確認もせず手に取る。

 子どもと私の誕生日が組み合わさった数字でロックを解除して、私の電話を鳴らす。ソファのクッションとクッションの間からブーンとバイブする音が聞こえた。

 太一のスマホを元の位置に戻そうとしたとき、誰かからSlackのメッセージが届いた。

 触るつもりはなかった。指で押してしまったのは反射だ。ダイレクトメールで、「もう、会いたいです」とあった。

 目を見開く。画面に釘付けになる。文字が歪む。

 太一は、室内用のサッカーボールで葉とパス練習をしている。こちらに意識が向いていないことを確認してから、太一から送った内容に目を走らせた。二日前に食べログの、とある店のリンク先が送ってある。

 これを経ての「もう、会いたい」だと推測できた。ドドドドドと全身が血管になったような気になる。

 パートナーの携帯をうっかり見たら浮気発覚、なんてドラマで何度も出てくる古典的パターンだ。「知っているとできるでは、天と地との差があるものです」。いつかのビジネス書で読んだ一行を、この状況で思い出す。

 宛先には、兵藤沙夜子とあった。

 太一が担当している作家だ。二日前の太一の予定を思い返す。夜は家にいた。日中は会社に行くからと不在だったから、昼間にでも会ったのだろう。

 もう、会いたいですーー。

 仕事や友人関係で、この表現を使う状況は想像し難い。昼間に会って、何をしたのか? 不信と疑念からのネガティブな妄想は、いくらでもできた。

 『どういうこと?』

 この場ですぐに太一を問い詰めるのは、どうだろう。聞けば、誤解はすぐ解けるのかもしれない。

 ただ、そうではなかった場合にそこから始まるやりとりを想像したら、新幹線の出発時間が気になった。

 家を出なければ間に合わない。

 この土日の太一は、子どもの世話で身動きができない。保留を胸中で決め、太一のスマホを元あった位置に戻した。

 外は、雨がますます激しくなっている。

 それぞれ傘を差した太一たちが、マンションの外まで見送りに出てくれた。「危ないよ!」マンション前の道路に飛び出した銀に声をかけ、すぐさま追いかけて抱きしめる。マンション前の道は車通りが多く、雨でもスピードを出していた。子育ては、本当に気が抜けない。

 傘と荷物で手をいっぱいにしながら、行ってくるね、と葉と銀それぞれの頭をなでる。周囲に人がいないことを確認する。傘に隠れながら、太一とはいつも通り軽くキスをした。


つづく

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