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邂逅 _『リファ』#20【小説】

◀︎1話から読む


 祖父と祖母が眠る墓は、京都府宇治市の黄檗宗大本山・萬福寺にある。

 実家のある嵯峨野から南へ、母の運転する軽のワンボックスカーを走らせた。

 京都市内の道路の幅は、そう広くはない。ただ、市内全域が五重塔以上の、およそ六十メートル以上の建物は建てられないという厳格に定められた建築規制のおかげで、空の領域は果てしない。その余白の多さは車窓からも感じられる。なんとものんびりとした心持ちになった。 

 墓に向かう途中、お供え用の花をスーパーで選んだ。百合の入った一番値段のはるものにする。レジに並んでいたら、母が「ええよ、ええよ」と花の束を私の手から引き取り、代金を払った。花は、ふたつ合わせて六百円程度だった。

 実家にくると、母は私に一切の支払いをさせない。とっくに家を出て、もういい中年なのにな、と少し照れる。私は、親でありながら、まだ子どもでもあった。

 親といると、確かにあった“娘としての部分”が引き出され、自然とそのような振る舞いをしていることにハッとすることがある。昨日の昼に、わざと不満を塊のまま母にぶつけていたように。

 確固たる自分なんてない。他者との関係ごとにある複数の自分、それらすべてが私なのだと思う。

 宇治川を越えて、目的地に近づいてきた。墓地は山の頂にある。かなりの高台だ。

 祖父は実際に亡くなる数年前から、この場所に墓地から墓石まで一式を用意していた。母たちの住まいからは一時間かかるし、伯父夫婦の住まいや孫家族の自宅からは二時間かかる。祖父母が暮らしていた家からも、近くはなかった。

 祖父が永眠する場として選んだのは、利便性ではない。祖父は、墓から見渡せる景色をいたく気に入り、ここしかないと選んだ。そう本人から聞いた。

 墓地の手前にある駐車場に、車を停めた。砂利石を敷き詰めただけの更地に、母の白い軽自動車だけがぽつんと座る。入り口にいる管理人とおぼしき初老男性に、あいさつをした。

 すぐ近くまで来ている夏を感じる青空の下、見晴らしのいい丘に整然と並ぶ墓石たちは現代アートを思わせる。私はバケツに水を汲んで花を入れ、母は線香とろうそくの入ったカバンをぶら下げて、祖父たちのいるところまで一列になって歩いた。

 墓石の前に立つ。誰かが定期的に参ってくれているのか、墓石はつやつやとして、汚れていない。手を合わせてから、周辺に生える雑草を抜き取る。墓石に水をかけ、持ってきていたぞうきんで拭いた。
 
 祖父が喉頭がんで亡くなったのは、私が仕事で爪痕を残そうと必死だった二十代後半だった。がんと判ってから半年足らずで、祖母より先に逝ってしまった。

 あっけないほどの速さで、いなくなった。まだ先だろうと入院中に見舞いに行かなかったことを、今も悔やんでいる。

 祖父のことが大好きだった。

 幼いころから私は、母や叔母たちに混じって料理の手伝いをするよりも、兄たちの中で野球やサッカーをしたり、腕相撲をするほうが楽しかった。叔父や叔母たちは、「梨華は、男に生まれたらよかったのにな」とビール瓶片手に笑った。おしとやかさから程遠く、料理の手伝いには身が入らず、叔父たちにお酌もしない。母は、祖母から説教をされていた。

 祖父だけは、違った。「その調子。ありたい梨華でいたらええんや」と男に生まれればよかったと笑った大人たちとはまったく別の朗らかな笑顔で、声をかけてくれた。そうやって孫娘を認めることを、祖母から叱られながら。

 祖父とよく、公園で短距離走の対決をした。毎朝五キロのランニングを、ガンが発病するまで欠かさなかった祖父は、じじいのくせして速かった。こちらも部活で毎日走る日々を経て、中学三年の時にやっと勝てた。

 新製品を試すのが趣味で、遊びにいくと新製品のレビューを聞かされた。電動歯ブラシが出たばかりの時は大興奮で、そのお陰か、祖父に入れ歯は一本もない。

 難しそうな本をいつも読んでいた。減ることのない好奇心から、学生だった私や兄を質問攻めにしていたことは鮮明に思い出せる。

 白い歯を上下に見せて屈託なく笑う祖父に今、会いたい。

 墓石を拭いていたら、ふたつの名前が並んでいるのが目に入った。昭和二十年八月二十七日、昭和二十年九月二十五日とある。

 「え? 誰?」

 誰に言うでもなく、呆けた言葉が口から出た。母がああ、という顔で言う。

 「お母さんの、お兄さんふたりやで。お母さんが生まれる前に、兄は六歳で、次の兄は四歳で亡くなってる。腸チフスっていう感染症でやったかな」

 そうだ。母の上にはもう二人兄がいたと聞いたことはあった。ぼんやりしていた情報が、墓石に刻まれた戒名と日付によって実体を伴う。

 終戦したばかりの時期だから、当時の衛生環境ならば珍しいことではなかったのだろう。だからって。よくあることだからという理由で、喪われたわが子の命への悲しみが和らぐことは絶対にない。葉や銀がいなくなる世界を想像するだけで、鋭い傷みが走る。

 それを祖父も祖母も、二十代で経験した。埋まらない大きな喪失を抱えながら過ごした。祖父母たちが生き抜いた戦前戦後の一端を前にすると、こうやってうじうじともがき、前に進めずにいる自分など鼻息で吹き飛ばされそうだ。

 「じいちゃんは、桃を食べさせたことが感染した原因だと悔やんでいて、一切桃を食べなかった。でも、ばあちゃんは平気で桃を食べてた。そのことで、夫婦げんかをしていたわ」

 母は、両親との思い出を懐かしむように語った。

 一方の私は、わが子を亡くした事実を生々しく受け取ったばかりだった。祖父の微笑みの内側にあった悲しみに思いを馳せると、胸のあたりがきゅっと縮んだ。



つづく

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