ぼくのために書く

盆休みが明け一週間ぶりの勤務日。ここ一か月、仕事が楽しくないことを裏付けるためにインターネットで学校改革派が記事ばかり見ている。自分と近しい意見ばかり集められて、それで安心できるるのはネットの良さの一つだと思う。ネットの良さは同時に悪さでもあるのだけれど。朝起きたときから学校へ向かわねばならにことの不快。でも出勤途中に三日ぶりのタバコが吸えることを思うと、少しだけ前向きになれた。カッターシャツのボタンを留めるのが億劫だったから、くたびれているのが気にはなったけれど、2年前に買った白いポロシャツにした。職員室に入ってからで構わないと思い、シャツは出したままにしておく。

靴を履いて玄関を開けた後、寝室へ戻って、まだ寝ている妻に「愛しているよ。」と告げる。少し反応があった、あったと思う。口に出せて良かった。ここ一年ほど、彼女が笑う声を本当に聞かなくなった。それはきっと私のせいなのだけれど、その弁解の機会をことごとく逃してきたのは、ここぞというときの私の勇気のなさに起因しており、その結果繰り返される無言の夜の時間を思うたび、朝の職場へ向かう足取りは軽快さを失っていった。しかし私は妻を愛している、深く、深く。

空の澄み切った高さは、誰にでも見える反面、そこへ足を踏み入れるためには引力に逆らうだけの研鑽と蓄えと強運が求められる。人間の目は前を向いており、障害物さえなければ、地球の丸さゆえに焦点は地平線へと注がれ、陽が落ちた後はギリシア神話が彩る星座の煌めき、瞬き。
視線をちょっぴり下へ向けて進んでいけば海。光の届かない深さの冷たさや水圧、沈殿する死骸のそばでうごめく生物、宇宙にはない限界地点としての海底を備えているやさしさ。母なる海は暗く、冷たいゆえに、平等なのだ。愛は空よりも、海に近い。高くは愛せないが、深くは愛せる。月並みだが、中学生が好みそうな恋と愛のちがいについての一つの解答の形式になりうるかもしれない。恋は高まっていくもの。希望、キラメキ。愛はもっと凄まじい。映画『タイタニック』では、海は豪華客船を飲み込み、ディカプリオ扮するジャックの命を奪う。筏から手を放し海底へ沈んでゆくシーンに日本中が涙した1997年。海が青いのはきっとディカプリオの瞳が青いから。クリスチャン・ラッセンのジグソーパズルの青はイカレている。

午前は研修でつぶれた。休み明けの出勤に、研修という強制力があることに感謝した。研修がなければ、適当に理由をつけて休んでいたに違いないから。分科会でぼくのグループの司会を担当していた年配の教師が、議題を無視して終始「夏休みの思い出」を喋らせていたのが良かった。各校の取り組みの交流は最後の一分だけやって、うまいこと飾りをつけて発表してくれた。僕も他のグループの発表は聞いていなかったから、きっとみんなもそう。みんな頑張って「頑張っているふり」をしている。ぼくも上手にお道化てここまでやってきた。でもそれは悪いことではない。ちゃんとお道化るためには、ちゃんとした信念がいるのだ(ちゃんとしていない信念だって、ある)。

もう夏休みが終わってしまうから、
二学期が始まればぼくはまた道に迷ってしまうから、
何度も窒息させ、沈めて、忘れてきた「こころ」たちに贈る贖罪。
ビールの酔いに手伝わせてでも、記録しておきたい夜を迎えられて嬉しいんだ。インターネットは所詮宇宙の代わり、海にはなれない。
明日の朝、いつものように最悪の気分で目が覚めたら、ポロシャツはやめてカッターシャツを着る。半分寝ている君の髪をなで、愛しているよと囁きたい。
今はそう思っている。

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