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誰でも分かる!法律学の超絶真理ウルトラスーパーハチャメチャ本質概念:類型化vs例外化、またの名をゴミvsカス!

1.はじめに-何故誰も提唱しないのか


※面白いけどここは本題ではないので読み飛ばして2章に行っていただいて構わない、面白いけど
あと、この記事は法律知識がなくとも一般的な読解力の日本人であれば読める部分が大半であるように書かせてもらった。でも2章と5章はちょい難しいし知識も必要だったりするから無理だったら飛ばしてくれ

類型化vs例外化。

タイトルにもある通り、この二項対立が法律学の本質であることは疑いようがない!にも関わらず!この概念はなぜか私以外に主張している人が全くもって散見されないー私はこれがあまりに不思議で不思議でたまらない!確かに、私のこの二項対立に近い、そのエッセンスのようなものを含む概念はチラホラ散見される。しかし、ならばこそ!なぜそこまで思い至っているのに!それらを統合的統一的に説明可能なこの概念対立に誰も至っていないのか!繰り返すが不思議でしかない!ー私がここで「法律学の」という表現を"わざわざ"していることには留意してほしい。例えば、これは法律学を学んでいない人は置いてきぼりになってしまう話になるが民法において広く通底する二項対立として静的安全と動的安全が挙げられるし、刑法なら自由保障機能と法的保護機能という対立が挙げられるだろう。そのどれも確かに素晴らしい対立であるが、やはりそれぞれの法分野にのみ適用できる本質概念であると言える。しかしここで提唱されている、今から私が成す概念の説明はおよそ法というものであれば分野を問わずまず!確実に問題となる対立であろうことは疑いようがない。私はそう確信している。そう確信している?おいおい、胡散臭いぞという読者の声が聞こえてくるようである。大いに結構。ああ、確かに怪しい口ぶりだろう。なんせ、ここまでのビックマウスを叩いたこの私(わたくし)は未だ法学を本格的に勉強した期間は1・2年程度のペーペーであり、尚且つまだ予備試験さえ受けていない。そんな何の権威性も実績も持ち合わせない予備校通い非法学部アマチュア法学徒……そのような者が、紀元前より続く「法律学」において、何千年にも及ぶ歴史において、数々の賢人でさえ未だ気づかず明確に言語化されていないような概念……でありなおかつ!間違いなく法律学全体に通底し、全体に対して体系的な説明を与える本質概念に気づいただって?
そんなことはあるわけがない!
そのような声が聞こえてくるようである。
俺もそう思う。
三度繰り返すが、私自身不思議でならないのだ。
この対立ー類型化vs例外化は、私からすると法学部の一年でまず前提として教えられているようなーいわば英語で言うところの「5文型」のようなイメージだろうかー概念であるべきだと思う。
だからこそ、繰り返すがそんなに本質的なら、数多の学者が思いついていないのに、お前が初めて思いつくだなんて、そんなことあるわけがない!そう思うだろう。……結構結構。むしろそう思って欲しい。ムカついて、俺のことをディレッタントなただの衒学者であると馬鹿にしようとして欲しい。何故か?
そう思えばこそ、この対立が如何に下らなく、さまざまな法学的現象にこれまでなかった体系的な説明を与える法律学の本質などではないのかーを証明する必要があるだろう。そのためには、まずあなたはこのブログを読むしかない。読まないことには否定もできないからだ。
そして、読んでさえくれれば内容には絶対の自信がある。カニンガムの法則ではないが、それに近いような効果を期待してここまで挑発的な口ぶりをしている。上記数々のビックマウス・ステートメントはそれが目的なわけだ。勿論そんな政治的な意図とは独立の単なる自信の表れでもあるが。
もしくは、「もう提唱されている人いますよバーカ」という指摘によって俺をバカにするのも考えられる。それも大歓迎だ。これは上とは違いまさしくカニンガム。俺はこの概念対立が既に法律学において共通認識として存在していない=この話が当然のものとして通じないことに強いフラストレーションを感じているから、既存概念で近い語彙がないか探したものだ。しかし上記の通り見当たらなかった。勿論、存在しないということは提唱者としての名誉-Dignity-が得られると言う点で嬉しいことではある。しかしこの概念対立を当然のものとして法学の議論ができることも同じぐらいかそれ以上かに嬉しい。だから上記「バーカ」は嬉しい指摘なわけだ。もっとも、「俺が提唱者かつ、この概念対立が有名になって当然のものとして法学の議論ができる」と言うのが最善ではある!それは勿論そうだ……それを願ってこのブログを書いているわけだし。もっとも、文章の流れとして綺麗だから-Dignity-とかほざいただけで、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」冒頭文よろしく、これらが既に考えられているか否か等は実は私からしたらぶっちゃけどうでもいいのだが。
手を替え品を替え誇張表現でお気持ちを表明するのはやめにして、本題に移ろうと思う。

2.概観-法律は極限においてゴミかカスになる他ない

まずは類型化と例外化それぞれの意味の概観として、以下の表、箇条書きで性質を示すこととする。この内容を現時点で理解する必要は全くないので、ほーんって感じで見ていただきたい。
あーあと、流石に法学徒向けに書いてある部分もあるし、なんなら他分野の人に向けて近い概念を紹介してる項目もある。だから「現時点」に限らず、全てを理解する必要はない。あくまで方向性を掴んでいただきたいだけだ。なおかつ5章で一部を解説するもののこの表の全てについて解説する気はないのでそこは留意していただきたい。このブログを読み終わった後にこの表を見返すと良い復習となるだろう。

類型化
・法適用の予測可能性を重視する、即ち「法は明確であればあるほど良い」
・刑法における行為無価値論と親和性あり
・国会の法律制定権、法律の根拠が国民主権に基づくことを重視
・(判例と対比的な意味においての)教科書事例、言語(即ち、現実の事例という無限の情報と結び付いていない)による定義故の「AならばB」の徹底
・即ち、理論の明確化、要件と効果の明確化の方向
・「一つとして同じ事件などないが、我々はそれを同一性のうちで理解する他ない」
・抽象的違憲審査制と親和性あり
・法を現実に一方的に適用するモデル、フィードバックは無し
・法学を全く知らない一般人は法律学を類型化だけやる学問と考えがち
・七法の中で最も類型化的なのは刑法と言える
・コンスタティブな言語使用と言える
・哲学で言うところの内包重視
・マジで邪魔、ゴミ

例外化
・法解釈の裁量の幅を広くとっておくことを重視する、即ち「法は不明確であればあるほど良い」
・刑法における結果無価値論と親和性あり
・裁判官の法解釈の裁量を重視
・(教科書事例と対比的な意味においての)判例、現実(即ち、言葉では捉えきれない無限の情報をもつもの)による判断故の「AならばB」の撤回、"このような差異があるからA/Bではない"と常に言えること
・即ち、法適用の結果が非自明・非直感的だった際に、なんとかその結論を回避できるよう、後述する公共の福祉や信義則、あるいは憲法全般のような適用結果を事例ごとに判断するために「逸脱事例処理項目」を置いておいたり、そもそも法自体に解釈の幅を持たせておくこと
・「本当は、一つとして同じ事件などない」
・付随的違憲審査制と親和性あり
・曖昧な法が、当該適用事例における妥当性を元に再帰的に意味が定義されると言うモデル。
・法適用の専門家たる裁判官がめっちゃこれやりがち。例えば変な事件において法解釈の結果だけ述べてその根拠を示さないとか……
(↑そんなん許されるの!?と思うかもだが、これは例外化の表れであり、一定の合理性があるのである。)
・基本七法の中で最も例外化的なのは憲法と言える
・パフォーマティブな言語使用と言える
・哲学でいうところの外延重視
・約束を守らないカス
※見れば分かると思うが、それぞれの項目がそれぞれの位置で対比になっている

勿論上のをザーッと見ただけで確かに!!!!!!となる人もいるだろう。そういう人にのみ向ける話をするが、そう!そうなのである!この考え方の枠組みさえあれば、何故行政法における客観訴訟が認められないがちなのか?そもそも裁判所の審判対象を原則「法律上の争訟」に限るとする裁判所法3条の根拠は何なのか?(答え:類型度が高くなりすぎる。一般的抽象的な法規範の段階では処分性が認められず、具体的な処分にのみ抗告訴訟が認められるのもこれで説明できる。前者の段階で判断させるのは類型度が高くなりすぎるのだ)何故最高裁は大阪南港事件において相当因果関係説に立たずなんか曖昧な規範でお茶を濁したのか?(答え:相当因果関係説を形式的に適用すると非直感的な結果になっちゃうから適用したくない!でもそんなこと真正面から言えないよ〜〜)そもそも何故憲法などというものがあるのか、そして、何故あそこまで抽象的で、相互矛盾さえ認められるような不合理な構造をしているのか(答え:憲法は上記逸脱事例処理項目の最終審級的立ち位置だから。曖昧であればあるほど柔軟に事例ごとに違う結論を出せて良い。そして矛盾について、これは形式論理の話ではないのでソーカル事件だろうが、イメージとして話す。爆発律によって、矛盾からは何でも導ける!憲法的なものが欲しい性質そのものだ!(参考になる俺の素晴らしきツイート:https://x.com/posssssesssss/status/1688063142826582016?s=46)
最高裁がまともに規範/根拠を定立せず結論/結果だけ述べたりする理由なども!(これはもう、お分かりですね笑)
その他諸々、さまざまな概念がクリアに!明快に!説明可能なのである。そして一つ断っておくと、確かにこの理論、この二項対立には反証可能性がなく、故に何らかの客観的基準を持ってこれが本質だと証明することは難しい。少なくとも科学的な概念ではない。そう言う領域の知である。
でもお前らの顔見ればわかる。
法学徒ならばキラキラとした目で「確かに!!!!!!」となっているのが俺には手に取るように分かる。今まさに法学徒の眼球が俺の手の中でコロコロ転がっている。本当のところはヌチャヌチャしていて気持ち悪いがそれは言わないでおいてやる。繰り返すが、これが統合失調症の戯言と区別をつける方法がないような類の説明であるとしても、そんなことはどうでも良い。
昔作った動画でも述べたが、バカと天才の区別がつかないラインに、この理論はある。

結局のところ、どこまで明確にして、どこまで不明確にしておくのが一番バランス的に良いのか。
と言う話なのだ。法律という強制力が通用する根拠は国民主権=即ち国民自ら決めたルールだからだ!あまり予め決めすぎると窮屈だ。非直感的な結論も当然出る。全て完璧に決めることなんてできない。しかし何も決めておかないでは全てが裁判官の匙加減になってしまう!この二つの間で揺れ動き続けるのが法律学の本質である!
そして驚くべきことに、明確にするの=類型化も、不明確にするの=例外化も、両方突き詰めるとゴミかカスになる!そして、法は類型化か例外化をする他ない!要するに法はゴミかカスになる他ない!
(これまたカニンガム・チャンスである。物議を醸すような表現をどんどんしていきたい。そもそもカニンガムの法則とは絶妙に違う場面な気もする。でもそのことこそが再帰的にカニンガムの法則を機能させているな!!!フハハハハ!!!)それでは順番に説明していこう!

3.類型化、縮めてゴミ

類型化とは、要するに理論の明確化、要件と効果の明確化の方向であり、ゴミである。
明確化がゴミだなんてそんなことあるか?そう思うのも無理はない。
何故ゴミであるか。貴方は下の文章を読んでいる内に知らず知らずのうちに納得しているだろうことをここに予言する。
例えば以下のような条文について考えてみよう。

刑法百九十九条
人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

なるほどなるほど、そしてこの条文は、まあ一応、一応断っておくが死刑または無期というのが5年以上の懲役より重いというのは前提とした上で……この条文は、人を殺したものは、最低でも5年以上の罪を課す
という条文だと理解できる。
(情状酌量などの細かい話は省くし、この後に続く文章を読んでもなおそれらが問題となると感じる場合はっきり言って筋が悪い。ここで述べるような対立の問題がいわばそのままスライドされるだけだからだ。鋳型を一つ示せば十分なのである。といいつつ、後に情状酌量を問題にもする。は?と思うかもだが一旦受け入れて欲しい。)
なるほど、確かに人を殺した場合5年以上ぐらいは少なくとも課していいだろう、と直感的には感じるかもしれない。しかし!しかしだ。
本当にそうだろうか?
考えてもみて欲しい。「人を殺したものは」と一口に言っても、その態様は無限である。
確かに5年以上なんて当然だ!5年以上は勿論のこと、むしろ死刑にしてしまえ!と誰もが思うような事件だってある。そのような場合はこれは問題にはならないだろう。しかし、あまりにも情状酌量の余地しかないような殺人、これにも5年以上の罪が課されるというのはあまりに酷ではないだろうか?(勿論、殺人でも情状酌量による減刑により執行猶予の要件を満たし執行猶予になる例があることや、そのような"酷"な例は正当防衛などの違法性阻却事由や責任阻却事由としてそれこそ「類型化」されておりと言う話はあるが、その点は後述するので、一旦そこは脇に置いて聞いて欲しい。結論を先に述べておくと、そのようになっていることそのものがここで主張したい、類型化がゴミであることの証左となる。あえて擁護しているフェーズとでも言おうか。)
いやいや、5年以上だぞ?人を殺しておいて5年以下で済ませるような場面がありえるか?と思うかもしれないし、確かにこれは程度問題だと言える。しかし程度問題では片がつけられないような問題をいとも簡単に構成できる。このような例だ。繰り返すが、情状酌量+執行猶予コンボが可能って話は脇に置いてほしい。

・とあるAがいて、Aさんは殺人者であった。
しかし、Aさんはあまりにも可哀想な境遇の末の、なかば殺さざるを得ない状況による殺人者であった。しかも既存の違法性阻却事由などにも該当せず、やむを得ず下限である5年の懲役が課された。(何度でも言おう、情状酌量によりさらに減刑できると言う話は一旦置いておいてくれ。)
しかし、その後Bさんが現れた。Bさんは殺人者であり、なんと、Aさんよりも明らかに可哀想な境遇の殺さざるを得ない状況による殺人者であった。しかし殺人罪の法定刑は5年が下限である。よってBさんには5年の罪が課され、AB間の量刑は不均衡なものとなった。

このような例が不合理なのは言うまでもない。ここまでいとも簡単に類型化の不合理性は指摘できてしまうのである。
では5年ピッタリは使わないという向きもありえるかもしれないが、それは単に「上げ底」を作るだけだと言うのは秒で理解できるだろう。
というかだ!そもそも!「人を殺した」という無限の態様がありえる行為につき、事例を一切見ることなく最低限一緒くたの効果を発生させるなんて、そんなバカげたことはないと言えないだろうか!事実は小説より奇なり、我々には想像もつかないような態様の殺人行為は今後何度も起きるだろうし、原理的に可能世界にそのようなクソキモ事件が無数に存在する!絶対に!
なのに、こんな馬鹿げたことを予めしておく必要がいったいどこにあろう?事例を見て、その都度妥当な判断をすればいいだけではないか!

結論、繰り返すが法は不合理である!類型化とは意味を為さない自縄自縛にすぎないのだ!

ここで、皆さんはそろそろイライラしている頃だろうと思う。というかイライラしていれば狙い通りなのだが……何にイライラしてるかって?この話は情状酌量などについて一旦無視しろってことを何回も何回もしつこく言いすぎという点にイライラしないだろうか?というか、上の結論もそれを前提としてるし……
「でも情状酌量があるんだから別に不合理じゃないじゃん」と言いたいのだろう。分かる。だからこんな話をしても無駄なのである。
要するに、貴方がたは類型化はゴミであるという感覚に至ったということである。

だってそうだろう。情状酌量なんて要するに実質的には「何でもあり」と書いてあるのと大差ない、だって最終的に執行猶予にまでありつけるのだから……後述するがこれ=情状酌量は例外化を示す言葉である。類型化とは要件と効果の明確化であり、今回の事例でいうところの「人を殺したならば5年以上の懲役」というのがその明確化にあたる。しかしそれを徹底した結果こんなにキモいことになり、あなたは、いや情状酌量で解決するだからいいじゃん、となった。
繰り返そう。要するに貴方は類型化をゴミだと思ったわけだ。こんな意味わかんねー情状酌量は一旦脇に置く=要件と効果の発動を徹底させるとかいうのをやってんのがそもそもバカなだけじゃん。と思ったはずだ。思っていて欲しい。そして今から思うことだってできるだろう。思えば上の予言成就である。
結局五年以下にもできんならそんなん書いておく必要ある?じゃあ初めから「人を殺したものは、執行猶予もしくは有期懲役もしくは〜(以下全ての刑事罰を重い順に並べる、最後に死刑)」って書いておけば良くない?という話だ。類型化、息してるぅ〜?wwww案件なのである。
そうなのだ。類型化には端的に言って意味がない。

これは衝撃的なことではないだろうか。衝撃的でない場合少し考えて衝撃的になって欲しい。

どんな事件が起こるかわからないのに、要件と効果を決めておく必要は、端的に言って、無い。全く無い。
要件と結果を明確にすると言うのは、その要件を形式的には満たす非直感的/不合理な適用結果を"わざわざ"作ることと同一なのである。
(上のAさんとBさんのような。殺人罪の要件を二人とも形式的には満たすが、適用結果は非直感的/不合理である。そして、一応断っておくが、これは殺人罪に限った話ではなく、全てにおいて言える。)
類型化は、出したい結論が出せる可能性を自ら狭める、ただのゴミでしかない。そんなことはせず、「人を殺したものは、その都度審議し、それに相応しい罪を課す」と書いておけば良いのだ。
(罪を課さない場合についても言及する場合さらに例外化的だね!)

そして、そんなことは法律においても露骨に現れている。類型化なんてカスは基本的には骨抜きにされている。心当たりがあるだろう?心当たり?私たちはそれを見たじゃないか。情状酌量という類型化=要件と結果の明確性を無に帰すウルトラCを。
五年以上?うるせえ!黙れ!
そしてこのような言葉は無数にある。信義則、公共の福祉、権利濫用、期待可能性、全体としての法秩序……一つぐらいは聞いたことがあるであろうこのような言葉には枚挙にいとまがない。
裁判所はいざという時はこのようなマジックワードを駆使してゴニョゴニョ言ってこの類型化というゴミを片付けられるのである。
そしてその最終審級が「違憲無効」なるものであることは法学徒ならもう、お分かりですね笑
類型化はマジでゴミである。
例外化最高!出せる結論は多い方がいいに決まってる⭐︎決めたルールとかもう、何が何だか分かんなくなっちゃって、もう、嬉しくて感動で……

4.例外化、またの名をカス

例外化とは即ち、法適用の結果が非自明・非直感的だった際に、なんとかその結論を回避できるよう、上記のような公共の福祉や情状酌量などのマジックワード確保をしておくないし、そもそも法律自体を曖昧に、後からなんとでも言えるように表記しておいて解釈の幅を広げておくことである。

おい!!!カスじゃねえか!!!!ふざけんな!!!!!!!!!!!!!

類型化みたいに「え〜?これのどこがゴミなの〜?」とかなんねえよカスが。恥を知れ。
そもそも、そもそもさあ……類型化ってなんだっけ?類型化って確かに明確化って意味でもあるけどさあ、もはやおおよそ「文章を予めちゃんと書いておくこと」とかそう言うレベルなわけよ……
例外化って語彙になってるから少しばかりマトモに見えるけど、要するにこれって「何も書いて/決めておかないこと」ないし「書いた/決めたとしても、それを後から反故に出来るような予防線を貼っておくこと」じゃんか。うん、カス。
そんなんでいいわけない。
そもそもこの例外化の流れは刑法における「罪刑法定主義」などと真っ当から対立する考え方になってしまう。
罪刑法定主義とは要するに、「何が犯罪となり、何が犯罪とならないのかは予め明文で定められてないとならない」という原則であり、類型化のスローガンであることは一秒で理解できるだろう。これがないと何が犯罪となり、何が犯罪とならないかが明確に分からず、事が起きた後で裁判官に「ん〜wお前のやってる事別にそういうルールないけどなんか悪いし、ダメw!」とか言われてしまう可能性もある。現代において人間は基本的に自由が保障されている(これがフィクションだとかそうでないかとかは今回の議論に無関係な話だ)以上、やはり自由を制約する為にはそれ相応の根拠が必要である。その根拠こそ国会の立法権独占である。中高レベルの公民でやる常識だから必要ない気もするが一応説明すると、国会は国民の代表たるメンバーで構成され、その国会のみが法律を決める事ができる。要するに実質的には「国民自分たちで決めたルール」という評価が可能なわけだ。(これがフィクション云々も今回とは無関係な話だ)強制だろうと刑事罰という暴力だろうと自分たちで決めたルールなのだからその範囲でならいいだろ!と言うわけだ。「その範囲で」ならね!要するにこの考え方を徹底すると類型化は推し進めるべき事柄であり、裁判官による例外的な処理を認めるべきではないのだ。

しかし例外化を成す裁判官はこう言う※言ってない
「法適用根拠は国民が決めたルールだから?うるせえ!流石に今回のこの事件から公共の福祉的信義則の観点における全体としてのの法秩序から権利濫用といえ期待可能性がないから例外なんだよ!!!!!!!!!!!!!!!」
※言ってない

そもそも何も決めておかないと言う流れ=例外化は、公権力=裁判官に無限の裁量を認めるという盲目的信頼に他ならない!あまりに判断が属人的になりすぎて、法の平等な適用などは全く期待できなくなるだろう。裁判官の判断がある程度画一的になるのは法という制約あってこそのものであり、全くもって法という機序を介さずに自由に量刑を判断していいということになると、どの裁判官に担当してもらうかによって罪が大きく変わることになりかねない。というかなるだろう。
そんな籤引きのような法適用は理不尽他ならないし、刑法に限った話にはなるが……犯罪の一般予防という目的もマトモに機能しなくなること請け合いだろう。(ワンチャンあの裁判官が担当してくれればいける!的思考が生まれることは言うまでもない。)
他にも挙げようと思えば例外化の不合理性をいくらでも挙げられる。

結局のところ類型化はゴミで例外化はカスであるということがお分かりいただけただろうか。

類型化は文章=ゴミを増やしていくことで目的を達成していこうとするだろう。いや確かにそのような向きはありえる。上では述べていなかったが、類型化には類型化で不合理を回避する手段がある、何か?例えば上のAさんBさんのような非直感的な例が出てきた場合は、その都度「例外」として、そのようなルールを制定すれば良い。まあ、「例外」って言い方は少し不適切かもしれない。「その都度全部書く」のみである。どんどんどんどんルールが増えて窮屈になるだろうが、何でもアリにするため何も書かないよりはマシではないだろうか?しかし、やはり限界がある。書いてない事件が出るたびに条文を増やしていてはキリがないし、別に事件が起きてない状態で概念として分けられる事件に条文を対応させるという作業にもキリがない。文字通り無限にできる。(例えば、一度刺して人を殺したものは〜の罪を課す、二度刺して、三度刺して……n度刺して……というだけでもう無限になる。まあこれはもっとうまくやる方法を容易に思いつくが)そもそもそんな事が簡単にできるようでは法律というものが変化しまくる水ものであることが民衆にまで露呈するのもよくない。(もっとわかりやすく言うと、解釈によって変化しまくるのが現状の法である。しかしそれはおそらくあまり知られていない。民衆は法に興味がない。しかし条文が増えるってやり方で例外が日々増えまくるってなると流石に法律って……となること請け合いだろう。あんまよくないよね。うん)というかそんなんしてたら条文数増えすぎて誰にも手に負えなくなる。し、極めつけには、一つとして同じ事件などないのだから、この全部書くという方面での類型化の極限は新しい事件が起こるたびにそれに対応する罪状を書き加えるということにもなりかねない。上で述べた「書いてない事件」なるものは、厳密には全ての事件である。(一つとして同じ事件などないのだから。)勿論包含関係(即ち、既存の殺人罪のような)のレベルで今回の事件は「(既に)書いてある事件」であるなどと言うことは可能なのだが、そのような広すぎる条文では問題が起こる(上のAさんBさんのような)から細かくしていくべき、ってのが元々のこの話のモチベーションだったはずだ。そしてそのようにどれだけ増やしてルールの網目を細かく類型化したところで「現実」の無限の態様にはまるで届きはしないのだ。
それならば、やはりそもそも書くことに意味などないのだ!結局のところ本質的には、類型化明文化されたルールなんて事例判断の指針程度にしかなっていない!そんなものに国を挙げて取り組む意味がどこにある?法律家は「その都度妥当な判断をせよ」だけ書かれた1ページの六法全書だけ持ち歩けばいいのだ。いいわけがない。
六法全書を無限に厚くしてしまうのか、無限に薄くしてしまうのか。そのどちらも不合理である。
書きすぎてはいけない。書かなさすぎてもいけない。

5.上の表の一部を詳しく解説

※この章に関しては少し難しいため、わからないところは飛ばしていただいて構わない

類型化:刑法における行為無価値論と親和性ありvs例外化:刑法における結果無価値論と親和性あり
これは法学知ってる人だけに向けた説明。
行為無価値論は事前判断で予め与えられた行為規範に対する違反を違法性の本質とするから、予測可能性とかを重視する類型化の考え方と馴染みやすい。
結果無価値論は事後判断で悪い結果が生じた際にそれを違法とするから、今回の事例の特殊性を以て例外的な処理をするという例外化と馴染みやすい。
上の話の流れは、形式的には罪になるけど罪にしたくない時もあるじゃん!って話の流れで例外化を記述しているけど、その関係が逆転していて、予め定められてはないけど悪いことは悪いから違法にしたいじゃん!って方面にも例外化が使えるという側面が浮き彫りになっているね。
でもごめん、ぶっちゃけ行為無価値と結果無価値論は理解が曖昧だから的外れなこと言ってるかも。でもそんな既存の語義の用法と一致してるかなんてどうでもいいこととは別に、この対立は本質的にあるよ。こういうことを理解してない奴が多すぎる。(俺のファンなら分かるだろうが、俺は手を替え品を替えこの話を百万回はしている。)

類型化:(判例と対比的な意味においての)教科書事例、言語(即ち、現実の事例という無限の情報と結び付いていない)による定義故の「AならばB」の徹底vs ・例外化:(教科書事例と対比的な意味においての)判例、現実(即ち、言葉では捉えきれない無限の情報をもつもの)による判断故の「AならばB」の撤回、"このような差異があるからA/Bではない"と常に言えること

これに関してはかなり語ることがある。
突然何の話だと思うかもだが聞いて欲しい。永井均という哲学者の本にこのような記述がある。

「現実に存在する東京タワー」と「可能世界に存在する東京タワー」には、意味的な差異が全くない。

よく覚えてないから原文ママではないけど

「可能世界に存在する」の意味が分からなかったら「空想上の」ないし「想像上の」と読み替えてもらって差し支えない。
あなたの想像上の東京タワーと現実に存在する東京タワー、これらに言葉の上で区別を設けることは不可能なのである。もしあなたの友達が東京タワーの話をしているとして、それが現実に存在する東京タワーの話なのか、空想上の東京タワーの話なのかは原理的に区別がつかない。そのどちらも赤く、高さは同じで、東京にある。いかなる性質を持って区別しようとしても同じであることが分かるだろう。いや、「現実に存在する」というただ一点のみが異なるではないか、と思うかも知れない。しかしそれもうまくいかない。何故ならば、「現実に存在する」というのもまた一つの意味内容として捉えられるからだ。だとすると、
「現実に存在する空想上の東京タワー」との区別がつけられなくなる(現実に存在する空想上の東京タワーという概念はそもそも不可能だという向きはあるかも知れないが、後に普通にこのような言語使用が意味を持つ例が出てくる。読んでればわかる。)そうなると、いやこれは「「現実に」現実に」存在する東京タワーだから……という話になっていき、無限のいたちごっこが始まる。
そしてここで言われる教科書事例というのが後者、すなわち可能世界における事件であり、判例というのが現実に存在する事件と言える。
教科書事例とは何か簡単に説明すると、例えばこのようなものがある。

死刑執行人Aが殺人犯Cの執行ボタンを押そうとしたところ、Cに息子を殺された父親BがAを押しのけて執行ボタンを押した場合、Bが押さなくても、Aが押していたのであるから、Bの行為には条件関係が認められないのではないか。

これは刑法の条件関係という分野の説明をする際に用いられる「教科書事例」である。ちなみにこの場合「条件関係は認められる」という結論だとされているが、条件関係って何やねんとか何故認められるのかとかは本題とは関係ないので語らない。では何が本題なのか、それはこれが、「実際には起きていない事件」だということだ。
どういうことか。これはあくまで条件関係という刑法の概念がこのように適用されるということを法律の教科書においてわかりやすく説明する為に作られた空想上の例であるに過ぎず、実際にこのような事件が起こり、実際に条件関係を認めるとした判例がある訳ではない。ということだ。
もう察しのいい方ならお気づきだろう。上の話によく似ている。
即ち、上の教科書事例が教科書事例でなく、「実際に起きた事件」であるとしたらどうだろう?これらの間にー同内容の教科書事例と判例、これらの間に、何か差異はあるだろうか?
あるだろう。
というのがとりあえず結論である。では何が違うのか。
この二つの例を考えてみよう。
1.上の教科書事例あり、その後同じ事件が起きた
2.上の判例あり、その後同じ事件が起きた
1の場合、後に起きた同じ事件においても、条件関係を認めざるを得ないだろう。
しかし2の場合、後に起きた同じ事件において条件関係を認めないという途がありえると私は考える。
何故か?
教科書事例によって「死刑執行人Aが殺人犯Cの執行ボタン〜Bの行為には条件関係が認められないのではないか。→認められる」ということが定められている場合、これは現実において同じことが起きてもそう判断します=条件関係を認めますよ、という意味としか解釈できない。それ以外の解釈は意味不明である。
しかし判例によって「死刑執行人Aが殺人犯Cの執行ボタン〜Bの行為には条件関係が認められないのではないか。→認められる」という判断がなされた場合はそうではない。何故ならば、これは少しズルい議論の持っていき方だが……「一つとして同じ事件など存在しない」からである。これがズルいのは「同じ事件が起きた」と私自身が先に言っている点にある。何が言いたいか。
まず、1の例における「同じ事件が起きた」というのは即ち二つの事件が「その文章が定義するレベルでは共通」という意味であり、二つの事件のその「すべてが同じ」という意味では絶対にあり得ない。何故か、例えば教科書事例の方の父親の名前は?と聞かれたら何と答えられるだろう?答えられるわけがない。それは未定義で、正解が存在しない。ではその後本当に起きた事件の父親の名前は?と聞かれたら簡単に答えられるだろう。実際に起きた事件なのであるから。(上記"現実に存在する空想の何かしら"というのが何らかの妥当な意味を持ちうるかという疑問はここで回収)
要するに、教科書事例と実際の事例がその意味で完全に一致することはあり得ない。これは至極、当たり前の話だろう。そして、「すべて同じじゃないんだから違う事件で、この教科書事例の論理はこの実際に起きた事件には適用できない」なんて事にも当然ならない。これも当たり前だ。父親の名前を聞いて「未定義です」なんて事件は起こる訳なく、「その文章が定義するレベルでは同一」というのはそういう意味である。
では2の場合はどうだろう?これらもちろん「すべて同じ」ことが要求されるわけがない。父親の名前は殆どの確率で異なるだろうし、そもそも同じ時間に同じ座標で二つのことが行われるわけがない。うん。だから結果として、「その文章が定義するレベルでは同一」となるのであろうが……
判例における、「その文章が定義するレベルでは同一」とは、どのようなことを指すのか?これがイマイチ確定しない。そもそも裁判官の行う判断はありとあらゆるその事件の性質を基にした総合衡量であり、裁判官の判断の根拠となった事柄全てが判例に現れる訳ではない。現実の事例に対する判断である以上、その事例の一回性と切り離して考えることはできず、常に「現実という余剰」が判例の場合には存在する。要するに、判例→同じ事件発生の場合、「今回の事件と前回の判例は、確かに"死刑執行人Aが殺人犯Cの執行ボタン〜Bの行為には条件関係が認められないのではないか。"というレベルでは同一ではあるが、"このような点において前回の事件とは異なる事件である。故に、今回においては条件関係を否定する」ということが、原理的には(断っておくが、あくまで原理的には、である)常にできるのだ。反面教科書事例→同じ事件発生にはこのような「現実」由来の「余剰」が無いから、そのようにして類型化から逃れることは出来ない。ここから逆説的に、教科書事例になっているような理論は類型度が死ぬほど高くなってもいいぐらい誰にとっても異論がない理論、ということが導ける。上で原理的にはという言葉を強調したのは、判例である以上確かに上のような余剰を利用した条件関係の否定は"可能ではある"が、まずその否定は、何かしらの妥当な論筋によるものには極めてなりにくいだろう。というニュアンスだ。繰り返すがそういったものしか教科書事例にはならないし、ならないべきなのである。

類型化:抽象的違憲審査制と親和性ありvs例外化:付随的違憲審査性と親和性あり

抽象的違憲審査制とは、即ち違憲審査において、現実に存在しない事件も対象とすることができるという立場。付随的違憲審査制とは違憲審査は現実に存在する事件に付随する形のみで行うものとする立場。
あとはもう、お分かりですね笑
要するに抽象的違憲審査をすることは上の教科書事例を作ることと同じで、類型化に寄る
付随的な判断しかしないでおけば「現実の余剰」から例外化が可能になる
上にも述べたとおり憲法というのは例外化の最終審級であるから、いざって時のためにどんな結論も出せるようにしとたい!ってのが基本的な流れになるから付随的違憲審査の方が直感的な気はするねえ。まあ付随的違憲審査最終審級においては有無を言わせない完全な無敵の人により近づくって意味でもあるから勿論一長一短だけど……


類型化:法を現実に一方的に適用するモデル、フィードバックは無しvs 例外化:曖昧な法が、当該適用事例における妥当性を元に再帰的に意味が定義されると言うモデル。

以下の図を示しておく。これを書いていた手がかじかんでおり字が汚いがご愛嬌だ。

いつもはめっちゃ字綺麗なんだからな!!!😡


類型化:七法の中で最も類型化的なのは刑法と言えるvs例外化:七法の中で最も例外化的なのは憲法と言える

要するに、刑法は国家による暴力を肯定する法律である故、適用にはかなり慎重にならなくてはならない。故に要件と効果の明確性は重視される。上にも述べた通り刑法には「罪刑法定主義」というThe類型化みたいな原理まである。とはいっても予測可能性とかは曖昧な言葉であり類型度が低い。だがしかし、犯人にとって有利な例外化(要するに、犯罪が形式的には成立するけど、成立させたくないから成立させない!)は基本的に許されるが、犯人にとって不利な例外化(要するに、犯罪が形式的には成立しないけど、あまりに成立させたいから成立とする!)は許されないみたいな風潮はある。罪刑法定主義の趣旨からも前者なら許されるのはまあ納得だろう。これは不利益変更の原則のいうものとほとんど同じことを行っているが、厳密には少しスケールの違う話になる。
しかし、後述する大阪南港事件はこの場合の後者、犯人にとって不利な例外化にあたると言えるかもしれない……お楽しみに。

6.実践編-尊属殺違憲判決について&相当因果関係→危険の現実化への変遷について


1.尊属殺違憲判決


では現実の事件を類型化/例外化を元に分析してみよう。尊属殺違憲判決をご存知だろうか。お手元に六法がある方はーなくとも今時スマホで調べれば一発なわけだが、まあ気が向いたら刑法200条を調べてみて欲しい。まあ調べたところで大して面白いことはなく、そこには「削除」と書かれているのみである。
では元々そこにはどんな条文があったのか。

「尊属殺」である。

刑法二百条(現在は廃止)
自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は、死刑又は、無期懲役に処す

直系尊属とは即ち親とか、親の親とか、親の親の親以下略とかである。
そしてこれを一目見ればもうこのブログをこれまで読んでくださった方ならこう言いたくなると思う!そうだよな!じゃあ行くぞ、せーーーの!

類型度高すぎ!!!!!!!!!ゴミが!!!!!!!!!

マジで頭悪い。死刑又は無期て。
こんなんそのうち類型度高すぎて無効になるってもう直感的に分かるよね〜こう言う風にさまざまな事例がバラバラじゃなく統一的な視座で説明できるようになるのがこの概念対立を理解することのうまみのひとつだぜ!
まあ放火とかで死刑か無期になんのはまあ分かるよ。でも尊属殺でこれって……普通に死刑又は無期にするのはあまりに酷な親殺しだって絶対あるだろ、ガキでも1秒もあれば想像できるだろ、アホすぎる。まあ仕方ないか アホに悪気ないしな

いやにしてもアホすぎる。
んで案の定めちゃくちゃ犯人が可哀想な親殺しが実際に起きてこの法律は憲法違反ってことで無効になった。アホすぎる。

ヒガナ(563337283826年〜79606624793246935年)

正直、そんな具体的な事件が起きるまでもなくとっとと違憲無効にすりゃよかったと思うんだけど、上にも述べた通り付随的違憲審査制(一応言っておくと日本は付随的違憲審査制です)だと具体的事件が起きた後にしか違憲審査出来ないから日本だとそういうの無理なんだよね。上で例外化の最終審級である以上付随的な方がいいんじゃねとか言ったけどやっぱ一長一短だわ。
んで、じゃあ違憲判決で無効になったはいいけど、どんな論筋で違憲になったのかを一応解説すると、憲法14条の"平等条項"違反ってことで違憲無効になったのね。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

はあ、って感じだよね。この曖昧さ加減見れば憲法知らない人でも憲法が例外化、即ち逸脱事例処理の最終審級として運用されるってのは理解できるでしょ?あまりにも曖昧すぎる。そもそも平等など存在しないからね。平等って曖昧なキーワードを元手に倫理的な結論出すためのスローガンでしかないんだわ。
要するに憲法が問題になる裁判ってのは全部が全部じゃないけど、"明確なルールが先にあって、それを適用する"っていう上の図の類型化的法世界観では説明つかない現象であることが多いんだわ、だってさ、繰り返すけど平等って何よ?こんな曖昧で抽象的な条文、具体的な事例にどう適用するかなんて予め論理的に決まってるわけないでしょ?類型度殆どゼロなんよ。今回の事件に対して出したい結論によって平等の意味ってのはいくらでも変わるって構造をしてるわけよ。
要するに"どうにかしたい現実が先にあって、そのために曖昧なルールを具体化した"、っていう例外化的法世界観による解釈が妥当なわけね。
「元々そういう意味である14条を適用した」
じゃなくて
「14条は、元々そう言う意味であるという風に後からなった」ってアクロバティックな時制がここでは成立してるわけ。分かる?
要するに、親もそれ以外も平等だから罪に差を設けることは許されない、故に違憲って結論に持って行ったわけだけど、こんなことが「実質的には」根拠になっているわけがないんだよね
繰り返すけど、そう書いてあるから、平等に扱われるって書いてあるから自明にこう言う結論になります、ってことが起きてるわけじゃないのよこれは。流石に今回の事件に死刑又は無期は可哀想だからありえないって結論が先にあって、だから何(なに)でその結論を回避しようかなーってなって数ある逸脱事例処理項目である憲法から一番それっぽい体裁を醸し出せると判断されたのが14条だったってだけなんよ。だから実は別に14条である必要すらないわけ。
手を替え品を替え繰り返すけどサア!
「今回の事例で死刑または無期にするのは流石に酷」ってだけなんだよ!論理的に平等条項からこの結論が自明に出てくるとかそんなことでは決してない。あくまで今回の結論をどうにかしたかっただけ、でも表向きはこういう風に「一般的な法解釈の理論の一例です」みたいな顔して規範打ち立てて解決するしかないわけね。そういう構造になってるわけだ。例外化は、「さも類型化ですよみたいな顔して」やってくるんだよね。実質的にはその事件にしか適用できない超法規的な判断をしてるくせに。(もっとも、今回においてはたまたま尊属殺無効って結論の、類型的な部分にも結構な妥当性があるから話がわかりにくくなっているがね)
一応断っておくとこの俺のその子を助けたかっただけ、みたいな口ぶりからお前倫理的だなあ案外道徳派なんだなあみたいなニュアンスを感じたやつは何もわかってないね、前そんなことを言われたことがあるから一応断っておく。俺が実際にそういう奴かどうかは別の話だとして、今回の事例においてはその子を助けたかっただけと解釈しないのが単に「メチャクチャ不合理で意味不明」なだけだから。だってそうじゃない場合、結論ありきじゃない場合って、「憲法14条からの演繹の結果、自明に今回の結論が出てくる」ってことでしょ。それ主張する方が人道派気取るよりよっぽど胡散臭いってわかるよね?

2.相当因果関係説から危険の現実化説への変遷、大阪南港事件

大阪南港事件って事件がある。
Aって人がいて、そいつはBさんの頭部を革バンドとかで意識不明になるまで叩き続けた。
その後AはBを車に乗せ、人気のないところにまで運んでいきそのまま放置。そんでBは暴行による出血多量で死亡。
このままだったら普通にAが殺人罪で終わり!閉廷!以上!だったんだけど、捜査が進むにつれてBが死に至るまでに正体不明のC(これはAである可能性もある)がさらに暴行を加えており、それにより若干死期が早まった(ここは重要なので断っておくが、死期が早まったのみで、Cの暴行がなくとも元々放置すれば死ぬレベルの暴行であった)とのことが判明した。って事件。

法律をよく知らない人からすると「で?別に殺人罪で良くない?」って思うと思うんだけど、当時の理論だと少々問題があった。
少し専門的な話になるが、別に難しくはないので安心して欲しい。そもそも殺人罪に限った話ではなく、犯罪が成立するためには複数の一般的な要件があるんだが、その要件の中に「客観的構成要件」ってのがあって、それはさらに「実行行為」「構成要件的結果」「因果関係」に分解できる。
なんか因果関係以外知らん言葉出たぞって思うかもだけど、マジで全然難しくない。実行行為ってのは今回でいうところの革バンドとかで殴る行為で、構成要件的結果っての死亡結果のこと。簡単だね。んで因果関係!因果関係ってのは要するに「実行行為があったから、構成要件的結果が発生した。」といえる関係のことで、例えば今回の事例でいうと、Aさんが革バンドでBさんを殴って放置してそのあと死んだけど、そのあと死んだのは全く無関係な持病の悪化(まあ、それだけ殴っておいて全く無関係には悪化しないと思うけど……)で死んだ場合、因果関係が否定されて、犯罪不成立になるってわけだ。
んで今回問題になったのはこの因果関係なわけだが、先ほどと同様、え?別に問題なくない?と思うのがまあ自然な一般人の反応だと思う。
しかし当時主に因果関係の理論として用いられていた理論、これを相当因果関係説というんだけど、こいつを適用すると、ちと困った結果になってしまったんだよね。

相当因果関係説って何?ってなるだろうから説明すると、まあ主観説客観説折衷説等細やかな違いはあるけれど、今回は主流の折衷説のみ解説する。
要するに相当因果関係説は因果関係というものを、条件関係+相当因果関係がある際に肯定する。条件関係は上でも飛ばしたしここでも飛ばす。気になる人は自分で調べてね。
んで相当因果関係ってのは、
犯行の時点において、①一般人が認識し、予見できた事情及び②犯人が特に認識し、予見できた特別の事情を基に、構成要件的結果発生が予測できたといえる場合、因果関係を肯定する
というもの。これだけじゃ難しいだろうから具体例で説明する。

・俺が貴方をいたずらの意図で驚かしたとする。貴方は心臓に疾患をもっていて、びっくりさせられたことにより心臓に強い負担がかかり死亡。

この場合相当因果関係が認められるか?順に考えていこう。
まず、犯行の時点において、①一般人が認識し、予見できた事情〜を基に、構成要件的結果発生が予測できたといえる場合か、というの簡単にいうと、普通の人でも「それやったら死ぬよね」と分かるようなことをやってるか?ってこと。
それでいうと、単に驚かすって行為で死んでしまうってこの状況は、一般人からしたら予想できない。よって×。でもこれだけではまだ因果関係不成立とはいえない。②がまだあるからね。
次に、犯人が特に認識し、予見できた特別の事情を基に、構成要件的結果発生が予測できたといえる場合というのは、要するに、確かに一般人はそれで死ぬって思わないけど、お前がこいつ心臓病だから驚かしたら死にうるって知ってたらダメだからな!ってことなわけだ。
俺が初めてこの「相当因果関係説」を理解した時、よく出来てるなあと思ったのを思い出す。やるやん。って感じだったし、皆さんもなんとなくこの基準で因果関係を認定すればうまくいきそう!と思わないだろうか。俺もそう思った。し、裁判官もそう思い続けてきたのだろう。だからこそ相当因果関係説は主流"だった"わけなのだから。
なぜ過去形なのか。それはまさにこの大阪南港事件のせいである。

では、大阪南港事件に相当因果関係説を当てはめてみよう。実行行為は革バンドなどによる殴打、構成要件的結果はB死亡である。とは言ってもこの死亡は、正体不明のCによって若干早められた死亡である。
そうなるとどうなるか、
そんな死亡結果、一般人も犯人も予測できるか!
ってなるわけだ。
そもそもそのBとかいうやつ嫌われすぎだろ。まあ上記の通りC=Aって可能性もあるらしいけど、とにかく一般人だろうと犯人だろうと通常そんなこと想像できるわけがない。(とは言ってもそんな「正体不明のCによって若干早められた死亡」なんて切り取り方をするからいけないんじゃないか?というのは極めて直感的な解決方法として確かにある。がしかし、その話は沼すぎるので省く!(気になった方は法学の沼においで!)でも流石にこの事例で因果関係否定!よって殺人罪否定!は流石にヤバすぎる。
だって正体不明のCが介入したってだけで、どっちにしろ死んでたのだから!
でも、これまでの考え方を形式的に適用すると因果関係が肯定できない!まずい!
どうしよう!

そして最高裁の下した判旨はこうだ。

「犯人の暴行により被害者の死因となった障害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係を肯定することができ、本件において傷害致死罪の成立を認めた現判断は正当である。」

最決平2・11・20

これが上の表にもある
・法適用の専門家たる裁判官がめっちゃこれやりがち。例えば変な事件において法解釈の結果だけ述べてその根拠を示さないとか……
の超超ド典型の例である。確かに気持ちはわかる!こんな言葉遊びみたいなあれこれで殺人罪否定ってのはありえない!でも流石にこれはどうなの?とも言いたくなる。根拠もクソもなしに、これまで採用していた相当因果関係説にも触れず、ただ「因果関係、肯定できます!!!」と言っているだけなのだ。「理論的説明はうまくできないけど、因果関係、肯定したいです!!!」と趣旨はほとんど同じかも知れない。ゴリ押ししているだけなのだ。相当因果関係説?……知らない子ですね……え、前まで使ってましたよね?ハ、ハハ……←こういう感じのことが本当に起きているのである。

そして相当因果関係説、うまく説明できない事例あんじゃん!!ってなって色々あった結果、現在では因果関係は危険の現実化説という理論で処理するのが主流となった。
そしてその危険の現実化説とはどのようなものか?(話をわかりやすくするため行為後の介在事情云々の話は省かせてもらいます)

・因果関係の有無は、条件関係の存在を前提に、全ての客観的事情を基礎として、行為に含まれる危険が結果へと現実化したといえるかで判断する。

なるほどね?条件関係を前提とするところまでは同じで、全ての客観的事情、まあ要するに主観的にどうこうとかじゃないと、んで…………

行為に含まれる危険が結果へと現実化したといえるか……?

もうこのブログをこれまで読んでくださった方ならこう言いたくなると思う!そうだよな!じゃあ行くぞ、せーーーの!

類型度、ひっくーーーーー!!!!!!


7.終わりに


ここまで読んでくださりありがとうございました!
改めまして、サウル(@posssssesssss)と申します!
今回は、法学徒であり巨乳派である私が、自分なりに法律の本質を語ってみました!
ここまでお読みいただき、本質は大体つかめましたでしょうか?
一般的には知られていない法律学の本質や素顔、年収、裏の顔などについても書かせていただきました!

余談ですが、大阪南港事件による相当因果関係から危険の現実化説への変遷から、残念なことに「類型度の高い内容のある理論は、病的な事件によってどんどんマジックワード的に、例外化っぽい理論に成り変わっていく」という推測ができます……

というわけで調べてみたのですが

今の所、大阪南港事件よりも綺麗に当てはまる事件はあまり見つかりませんでした!

まだ今後最高裁がこのような判旨を出すかもしれないので、活躍には目が離せませんね!

法律学の炎上、裏では例外化をしまくっていた!?

普段は論理的ですみたいな顔して日々判決を下している最高裁、

ですが、噂によると裏の顔はアドホックな判断に後付けで説明を付与しているだけとのこと!

なので私もおそるおそる調べてみました!

噂どおり!?自衛隊の合憲性について、かなり無理のある説明をしています!

一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは……とありますが、フムフム、いったいどのような場合がこれに該当するのでしょうか?

まあ、とはいっても違憲になってしまっては、今更自衛隊全解体みたいな話になってしまいますから、流石にそれは……ともなりますよね!

判決主文にもあるとおり、この事件には高度の政治性が絡むので、仕方がないことでもあると思います!

しかし、高度の政治性とはなんでしょうか?気になったので、調べてみました!

高度の政治性って?その基準、定義、判例について調べてみました!

私なりに調べてみました!

が、結論から言うと、あまりはっきりとした内容はわかりませんでした

やはり類型度が低い方がいいとのことなのでしょうか?

具体的内容を持つということは、その具体的内容に対する反証が可能になる、文字通り反証可能性を持つってことですからね!

虚無を否定するのはかえって難しいということになるのでしょう ズルい気もしますが😓

ということで、はっきりとはわかりませんでしたが、今後に期待ですね!


まとめ

いかがでしたか?


今回は、巨乳派であり法学徒であるサウルが徹底的に法律学の本質を解説してみました!

やはり反証可能性の欠如が規範を安定させるだけあって、謎の多い学問ですね!

しかし、謎が多いほど調べがいがあるというもの!
今後も法律学から目が離せそうにはありませんね!

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!



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