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日本人にとって、信仰とは何か?(4)

日本人の信仰を問うシリーズ、第4回(最終回)です。前回分はこちら↓

前回までの検討で、「無宗教」の人は必ずしも神や超越的な力を否定しないし、神や仏を拝んだり祈ったりもするということ、一方で何らかの宗教を信仰している人の間で、「信仰心・信心がある」と答えるのは半分程度、ということが見えてきた。日本人の大半は宗教的な世界観を持っているのに、自己認識を問われると「無宗教」が6割を占めるのはなぜなのだろうか?

そこで今回検討してみたいのは、日本人の宗教に対する認識(あるいは偏見)、いわば「宗教観」である。というのも、ここまでの検討を踏まえても、日本人の宗教に対する感情はネガティブなものではないのか?という疑問が生じてくるからだ。

日本人の宗教観

宗教の役割は?

まずは宗教について、人々が求める役割、ないし「効用」を見ていきたい。

グラフ14 宗教の「効用」。「(どちらかといえば)そうは思わない」が多い順に並べている

もしも「クラブ・サークル・同好会などは友人を作るのに役立つか」と問えば、大半が賛成だったと思うのだが、主語が「宗教」になると否定的な意見が半分以上になっている。「宗教」というものは、「クラブ・サークル・同好会」などとは全然別の意味合いがあるということだろう。
一方で奇妙なのは、「人と人との絆を深める」に関しては、「友人を作る」とは違って賛成派が反対派を上回っていることだ。「絆」というのは「友人」よりももう少し広い概念なのかもしれない。

「貧しい人々を救う」は宗教の慈善事業としての性格を問うているが、これは否定的な意見の方が多い。一方で「困難や悲しみを癒やす」や「道徳意識」といった個人の問題については賛成派が1/3ほど占めている。この5つの項目を見ていて思うのは、宗教の社会的な役割よりも個人的な役割を重視するような見解が背後にあるのではないか、ということだ。

そこで、宗教と社会の関わりについて考えさせられるような質問項目について、回答者の賛否を見てみよう。

宗教と社会の関係

8項目と多めだが、どちらかというとマクロな視点で見た「宗教」についての意見を見てみたい。

グラフ15 宗教と社会の関係について「わからない」人が多い

どの項目にも共通しているのは、「どちらともいえない」と「わからない」を合わせると4割~6割と多いことだ。それほど宗教を身近に感じていないだけに、知識や自分の意見をあまり持っていないのではないだろうか。

一方、賛成派と反対派に着目すると、とりわけ差が大きいのが前半4つの項目だろう。科学の過信により信仰が不足していると考えるのは1割で、半数近くは否定的だ。
2つ目からは、世界的に宗教は争いの元となることが多い、と考える人が多数派(4割強)であることがわかる。イスラム原理主義者によるテロ活動などが影響しているではないかと想像されるが、日本人のイスラム教に対する印象についてはNHK放送文化研究所のレポートで詳しく検討されている。
信仰心が強いとそうでない人に不寛容となる、という意見については、賛成が反対を上回っている。面白いのは、何らかの宗教を信仰している人について限ってみても、賛成派が多数を占めることだ(グラフ16参照)。第1回で見たように、宗教を信仰している人の間でも、信仰心・信心が「とてもある」「かなりある」と答えた人が16%しかいなかった(グラフ4参照)のは、信仰に対する警戒感があるからなのかもしれない。

グラフ16 信心深いと不寛容になるか?

以上から、4割程度の人は、宗教は「争い」や「不寛容」と結びつきうるものとして捉えているのではないか思われる。こうしたことは、日本人が自己を「宗教」や「信仰」と結びつけることをためらわせる一つの要因になっていると思われる。

信仰とは何か?―私なりの結論

以上、様々な角度から日本人の宗教に関する見解を探ってきた。ここまでの検討で分かったことを以下にまとめてみよう。

  • 日本人の6割が「無宗教」と答えるのは、決して日本人が非宗教的な人々であることを意味しない

  • 宗教を信奉しているか否かに関わらず、日本人の多くは宗教的な世界観を少しは持っている

  • 日本人の8割は年に数回以上、神や仏を拝んだり祈ったりしており、宗教的な文化が廃れているとは言い難い

一方で、日本人が「無宗教」と答える構造的な背景については、十分な検討に至らなかったように思う。このアンケート結果だけでは、その点について実証的な主張をするのは難しかったというのが筆者の本音である。

代わりと言っては何であるが、この点で大変に参考になり、説得力のある記述を紹介することとしたい。

現代では、仏教はすっかり葬式仏教化し、新宗教もひところほどの勢いはなく、むしろオウム真理教のようにカルト化する教団も目立つようになり、「宗教」と呼ばれるもの自体が人々の関心を引きつけなくなってきた。それでいてパワースポットめぐりが盛んであり、靖国神社はしばしば強い政治的・宗教的情念を呼び起こし、日本には今なお、さまざまに変形した形で宗教的意欲がみなぎっているのである。(中略)
 今日の日本人は宗教的情念をもちつつも、それをみながすっきりと納得のいくような形、公共的でしかも国際的にもオープンな形で公言することができずにいるかのようだ。もともと多様で微妙な柔構造をもつ信仰形態であったのだが、何事も明確な自己主張が求められる現代社会では、そうした柔構造はなかなかそれ固有のものとして認知されにくい。
 こういう状況に比して、キリスト教やイスラム教などの建前は明確であるように見えるので、日本人は自らの生き方を「無宗教」と名づけずにはいられないわけだ。現代の日本人は、「宗教」の表出をめぐってジレンマを抱えているのである。

中村圭志(2014)『教養としての宗教入門』中公新書, pp. 241-242

日本人にとって信仰とは何か?それは、決して仏教や神道など特定の宗教を信奉するといった限定的なものではない。墓参りや初詣に行ったり、神や仏、何らかの超自然的な力をなんとはなしに信じたりといった、日本人が普段は特に意識することのない日本の宗教的文化そのものなのである。

最後に、この記事には欠けている視点、ないし今後の研究課題を列挙しておきたい。

  1. 国際的な視座。日本の事情は日本だけを見ていても十分には分からない。他の国々と比較することによって分かることもあるはずだ

  2. 歴史的な視座。宗教が人々の間で果たしてきた役割は、歴史とともに変遷してきた。過去を知ることで、現状が相対化され、未来への展望も開けるのではないか

  3. 宗教学的な視座。「宗教」と一口に言っても、その内実は様々だろう。それぞれの宗教の歴史・教義・儀礼・文化などをマクロな視点で捉えることで、国や地域ごとの違いも理解できるようになるのではないか

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