第三話 タクチカン入室

「ええと、皆さん。ちょっとすいません・・・」
 その日、お昼ご飯が済んでしばらくすると美濃先生が病室に来て、改まった口調でそう言った。その声に、みんながいっせいに美濃先生の顔を見た。見られた美濃先生は照れくさそうに咳払いすると、「あの、明日の午前にですね。・・・おそらく、十時くらいだと思うんですが、その、・・・ええ、もうお一人入室されます・・・、が・・・」と言った。
 そして、美濃先生はまた咳払いすると、天井を見やった。
「みのぉ~ちゃん、もったいぶらぁんで、はよ~話しんさいよ。」
 波田さんはいつも、若い美濃先生を呼ぶとき、「みのぉ~ちゃん」と呼ぶ。時々美濃先生の彼女がどうとか、夜がどうとか、結婚がどうとか大声で話している。だから美濃先生は波田さんが苦手だ、と思う。でも、かわいそうに・・・美濃先生はきっと波田さんに好かれている。
「いやぁ、あのですね、それが、その・・・その患者さんなんですが・・・」
「男とか?」
 波田さんの声に美濃先生がむせた。
「やっ!あ、あの、まぁ、・・・じ、実はそうなんです。」
「えぇ~。何、ホントに?」
「はぁ、いや、本当に申し訳ございません。あの、大学の方からどうしても、と・・・。何度も、断わろうとは、したのですが・・・。むこうの方も、び、病床数がヒッパクしております関係上、どうしてもウチで受け入れるしか・・・。いや、しかしですね、あの、患者さんは八十三歳とご高齢の方ですので、あの、そ、その点はご安心を・・・」
「どの〝点〟よ、みのぉ~ちゃん。何が言いたいのぉ?」
 波田さんがニヤニヤしながら言うと、美濃先生はしきりに額を拭きながら、「はぁ、いや、あの、決してそんな、・・・いや、ご安心を、と・・・」ブツブツつぶやくように言った。それを聞いた波田さんがふき出した。
「いやっ、あ、あのっ!奥様がいつも付いておいでの方でですので!」
「くっ、くっ、くっ。もういいわよぉ、みのぉ~ちゃん。わかった、わかった。私たちは構わんよ、襲われても。なぁ、園崎さん、増田さん?」
「いやぁ、そういう・・・」
「ええ。」
 増田さんが微笑みながら言った。おばあちゃんは相変わらずぼぉっとしている。
「あ、ありがとうございます。・・・あの、本当に申し訳ございません。」
「その代わり入院費、まけなさいよ。」
「ははぁ~、いやぁ、それはですねぇ、いやぁ、それは・・・」
「あははは、冗談よぉ。もう、だからあたし、みのぉ~ちゃん、大好きよぉ。」
 美濃先生がまたむせた。

「あらぁっ?そういえば昨日、みのぉ~ちゃんに今日入ってくる人の名前とか聞くのすっかり忘れちゃってたわあ。」
 朝ご飯の後、波田さんがふと呟いた。といっても波田さんの呟きは病室全部に響き渡るものだからもう呟きではない。
 朝の十一時を過ぎても新しい人はまだやって来なかった。
 日曜ということもあって増田さんの旦那さんは十時頃やって来ていた。ぼんやりと窓から外を見ている増田さんの横で、いつものようにせわしなく新聞を読んでいる。病室に入ってきてから新聞を広げるまでの動作が、相変わらずロボットみたいでカッコイイ。
 僕はといえば、不意にやって来た波田さんの息子さん二人に紹介されていた。ほっとしたことに、僕と同じ歳だという子は友達と遊びに出かけた、ということで目の前の二人は僕よりずっと年上で、高校生だった。
「まあ、いいわ・・・。でね、リョウタ、ケイ。この子が信二君。五年生なのにおばあちゃんの面倒、ずぅっと見とるんだから!えらいでしょう?」
 波田さんの前で固まっている僕に、それから一時間、波田さんは僕がいかにおばあちゃん孝行であるかを一つ一つの例を挙げながら得々と息子二人に話して聞かせた。プラスチックの箱で黒板をおもいっきりキィーッとされてる感じだ。
 お昼ご飯が来て、僕はようやく波田さんから解放された。鳥肌疲れで、全身がグンニャリと溶けだしている。
 波田さんの一日も早い退院を僕は切に願った。

 そして、昼の二時。
 波田さんの息子さん二人が帰っていったのと入れ違いに、病室に美濃先生が入ってきた。美濃先生に続いて、僕のおばあちゃんよりもおばあちゃんなおばあちゃんが、そしてそのおばあちゃんの後ろから、看護士さんに車椅子を押されたおじいさんが入ってきた。
「多口完さんと、奥様の郁江さんです。」
 美濃先生に紹介されて、多口郁江さんがすっと頭を下げた。
 ところで・・・
 世の中には怒っているところを絶対に見たくない人たちがいる。例えば僕の空手の師範。一つの家くらいある大きな筋肉の塊をバチバチ叩いて人間の形にしたような人で、でも、僕ら小学生の指導のときには、その岩みたいな顔をいつもニコニコさせている。その師範の車に一度、乗せてもらったことがある。僕がこの町にお母さんと越してきて一ヶ月くらい経ったときのことだ。
 青信号でスタートの遅かった師範の車が、すぐ後ろのトラックからクラクションを鳴らされた。師範はニコニコしながら車を降りると、後ろのトラックに向かって歩いていった。信号は青に変わったばかりで、トラックの後ろにも車が列をつくっているのに、だ。
 どんな話を師範がトラックの運転手にしたかは知らない。ただ、帰ってくる師範に向かってトラックの運転手が何度も頭を下げているのがドアミラーから良く見えた。
 また、師範のような、暴力に服を着せたような人達とは違った種類の怖さを持っている人達もいる。見た目はか弱そうでも、目の光の強さが普通ではない人達だ。そういう人達はトラックにクラクションを鳴らされても、決して車を飛び出したりなんかしない。法廷速度をきちんと守り、ゆっくりと走る。トラックの前をいつまでもいつまでも・・・
「田口郁江と申します。今回のことは、皆様にはさぞご迷惑だと思います。主人は私が責任を持って世話いたしますので、どうぞしばらくのあいだご辛抱のほど、宜しくお願い申し上げます。」
 郁江さんはそう言って、頭を下げた。
 まっすぐな姿勢。皺一つない着物。真っ白な髪が一本の例外もなく、きっちりと後ろに束ねられていて大理石のように光っている。前に組まれた両手の指の一本一本が定規ではかったようにきっちりと揃っている。
 頭を上げた郁江さんがやさしく微笑んでいる。細面の顔で色が白い。皴も白い。その白い皴に埋もれるようにして目があって、その目の光の鋭さが尋常でない。よく言えば、蛇だ。そう、郁江さんのような人の怖さは筋肉の怖さを上回る。
 あの波田さんが、「いえいえ、とんでもございません」とか何とかモゴモゴ口にしながらしきりに頭を下げている。増田さんはいつものようににっこり笑いながらのんびりと、「どうぞ宜しくお願いいたします」と言い、その横で旦那さんがすごい速さで頭をヘコヘコしている。僕のおばあちゃんは相変わらずぼぉーっとしている。
「さ、あなた。ご挨拶してください。」
 郁江さんが後ろの車椅子のおじいさんに言った。柔らかな声だ。
 ビルの屋上で、郁江さんにじっと見つめられて、同じ声で「さ、あなた。飛び降りてください」と言われて断れる人はきっといない。
 郁江さんにそう言われて、看護士さんに車椅子を押されたおじいさんが前に出てきた。
 びっくりするくらいに痩せたおじいさんだった。骨にペラペラの皮膚が貼り付いてる。病院の着物がおじいさんのあちこちでダボダボ余っている。
 肌がおそろしく黒い。日焼けなのか、病気のせいなのかわからないけど、焦げたように黒い。はだけた着物から見える、あばら骨の浮き出た胸元も、きれいに禿げた頭も、黒い。眉毛があるかどうかさえわからないくらい真っ黒なその顔に、ギョロリと開いた目が付いている。黒焦げになったメザシみたいな人だ。
 僕はこのおじいさんが病室に入ってきた瞬間から僕を見ていることに気付いていた。じっと見てるんじゃなくて、チラチラと盗み見るような感じ。それでいて僕と目が合うと、僕が視線を逸らすまで絶対に視線を逸らせない。僕はすぐに視線を逸らせるのでおじいさんが僕のことをどれだけ見ているのか知らない。知りたくもない。
 郁江さんに紹介されて、おじいさんのシワだらけの口がパカリと開いた。一瞬の間があり、タクチカンが始まった。
「タクチカンといいますっ!いまっ!この瞬間もダイトウアカイホウのため、トーナンカクショトーにおきまして、ワガテイコク数万のセイエイはベイコクのヤボウをソシし、これをセンメツせんとハチクの勢いでゼンシンしておるところであります!そのっ!サイゼンセンでのコンナンコック、想像を絶するぅっことでありっ!ナイチに置かれたままのこの身っ!じ、実にカ、カッカソウヨウ!堪え、堪え、えませんっ!シンシュウイチメイをかけたこの重大な局面、たかが足の骨一本で入院を余儀なくされ、ヘイカに対し、ま、まったく恥ずかしい限りであります!一日、一刻でも早く回復し!ケトウ共に一矢でもぉっ!二矢でもぉっ、多く突きたててっ!ワガテイコクのお役に立つっ!つもりでぇあります!」

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 病室の中にタクチカンの錆びた鉄棒をこすり合わせたような怒鳴り声と、唾と、そして?が飛び交った。波田さんも増田さんも旦那さんも、みんな口をぽかんと開けている。
 一方、タクチカンは目を閉じて口をモゴモゴさせながら、満足そうに顔を天井に向けた。
「や・・・、あ、あの、ま、まぁ、まずはお荷物を置かれて・・・」
 度肝を抜かれた美濃先生が汗を拭き拭きようやく言うと、看護士さんたちも夢から覚めたように動き出した。
「あらあら、どうもすみません。では、その二つの鞄はベッドの向こう側に、そちらの大きな鞄だけこちらに置いてもらえますか?」
 郁江さんがやさしく、しかしテキパキと指示を出している。
 その間、タクチカンは同じ姿勢のまま、口をモゴモゴさせている・・・。

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