「学習」「指導」からの脱却

結局、日本の英語教育がうまくいかない、つまりいくら「教えて」も「英語が使える」人間が育たないってのは、生徒側から見ると「学習」から抜けられない、教える側からみると「指導」から抜けられない、ってことなんだろうね。

Paul Nationさんという学者は、

(1) meaning-focused input 
(2) meaning-focused output
(3) language-focused learning
(4) fluency development

の4つを均等、つまり25%やるのがいいと言っています。この論が学術的に正しいかどうかは知らんし研究する気もないけど、まぁ実感としてはわかる。

日本の英語教育においては(3)language-focused learningがほぼ100%であって、要するに言葉を言葉として使う機会をほとんど与えていないということ。それじゃね、使えるようになるわけない。日本の英語教育って、スポーツに例えると、戦術理論や個々の技術の練習だけして、試合をすることも見ることもないって感じだな。

有名な英語の先生のワークショップや本でも、「発音指導」「語彙指導」「辞書指導」「作文指導」「文法指導」とかばっかで、言葉を使うこと、つまり「言語活動(※)」がすっげー少ないと思う。

(※「言語活動」というと会話活動みたいに思われることが多いけど、例えば好きな本を読んだり、動画を見たりというのも言語活動)

これは自分の英語力とスペイン語力の成長過程を考えても納得できる。オレは他の多くの日本人と同様、知らない単語は辞書を調べ、常に文法に注意して英語もスペイン語も「学習」してきた。でも、大学の外国語学部・スペイン語学科を卒業した時点では英語もスペイン語も使えなかった。

で、英語に関しては最初の勤務校(島)で、教員住宅でまさに「1つ屋根の下」で暮らして、スピーキングに不自由しなくなり、その後、この本を読んで目からウロコが落ちて、辞書を使わずに「多読」をするようになって、リーディング力と語彙力が劇的に上がった実感がある。

周りの英語の先生を見回しても英語の「学習」はしていても、英語を日常的に「使っている」という先生はほとんど見たことがない。触れる英語は教科書と参考書・問題集のみという人がほとんどなんじゃないかね。

なので、まず先生自身がまず「学習」から脱皮することが必要だと思う。

ところで、前述のFour Strandsの検索かけたらこんなページ出てきた。

「僕が言いたいのは、上述の4つの活動時間を 25% ずつに配分するという考えには研究に基づく根拠がないということです」

「SLA の研究成果に基づいた提案であるならば、The Four Strands のバランスは少なくとも (1) meaning-focused input を他の3つ、特に (2) meaning-focused output よりもずっと重くする必要があるでしょう」

「日本の英語教育では、インプット量が絶対的に不足していることが繰り返し指摘されています。だからこそ僕は機会があるたびにインプットの量を増やす必要性を訴え、理解可能なインプットをどうやったら教師が提供できるかについても考えてきましたし、提案もしてきました」

これ、俺の実感とめっちゃ合う。多くの先生は「言語活動」というと、すぐに「スピーキング」「ライティング」つまりアウトプットをやる。その方が周りから「すげー、生徒たちがペラペラだ!」と驚かれるしね(笑)。

だけど、足りないのはmeaning-focused input! さらに言えば「理解可能(comprehensible)」なインプット!

今や死語になってしまった感のある「英語の授業は英語で」「All Englishの授業」というのも、そもそもはこのmeaning-focused input / comprehensible inputを確保するという主旨だったはず(→「英語に関する各科目については,その特質にかんがみ,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを
基本とする。その際,生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする」高等学校学習指導要領解説・外国語/英語より)

で、一番かんたんにそれを確保できるのが「多読」ということ。

「〇〇指導」を削って多読の時間を確保しましょう。

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