省略した話④李徴(りちょう)

 亡くなった弟の部屋を片付けていたある日、突然
「〇〇(弟)は李徴だったんだ」
という考えが私の頭に浮かんできた。
 李徴とは中島敦の『山月記』に出てくる虎になってしまった人物のことである。1日のうち必ず数時間は還ってくる人間の心が虎となってしまった李徴を苦しめる。その場面と弟自身が重なり、
「ああ、〇〇(弟)は完全な虎になる前に命を絶ったのだな」
という思いが私の心にストンと落ちた。

 弟の死後に読み返した『山月記』にはこのような描写がある。


「その人間の心で、虎としての己(おのれ)の残虐な行(おこない)のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情けなく、恐しく、憤(いきどお)ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己(おれ)はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己(おれ)の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋(うも)れて消えてしまうだろう。」

(岩波書店,1994,p.115)

 李徴が心身ともに虎である時、つまり虎として猛々しく振舞う姿は、双極性障害を患う弟にとっての「躁状態」。クレジットカードでどんどん高価な新しい製品を買い、お気に入りのライバーに合計30万円近く投げ銭していた。
 李徴に人間の心が還る時は、弟にとっての「うつ状態」。躁状態の時にしていた自分の行いを悔い、自身を責め続けていた。

 「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損(そこな)い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかうの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。」

(岩波書店,1994,p.118)

 李徴は虎のままその生涯を閉じるのだろう。弟は虎にならず、人間のまま自身の生涯を閉じた。どちらが幸せかは分からない。

 私は、弟に会いたい。虎でも何でもいいから。


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 お読みくださり、ありがとうございました。
 この話は、書きたい、でも書けない……を繰り返し、「文字にできれば十分だ」との思いで、ここnoteに書きました。近日中に予定しているお墓参りの前に書き終えてることができ、安堵しております。

 これで省略した話は終わりです。
 お付き合いくださいまして、本当にありがとうございます。
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