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第3:発信するに至る

葱です。

先日パソコンを新しく買い替えました。
シンプル快適、驚きのサクサクサクサク…。

noteを書くときはキーボードを使うと、やはりしっくりきます。
というか、スマホで書こうと思うと、一本の指にかかる負荷が大きすぎテ。
将来の指の健康が、危ぶまれます。
単に依存症か。


:こんにちは

葱としては、数ヶ月ぶりに記事を書いています。
考えたことのメモは続けていましたが、
やはり記事に起こすのは、書き方が違いますね。
自分の考えに向き合うと同時に、発信相手がいると想定して書く…
はあ、楽しいです。
書いていると、詰めて考えていなかった部分が出てきたり。
始めて良かった。


:今回。

まず発信について、一つ新たな考えができました。
それについて今回は書きます。


:発信するに至る

自分は好きだけど、比較的マイナーである漫画・音楽などを見つけたとき。


…他人に教えたくないな、と思います。

同様に、
ふと自分の中に浮かんだ考え、も
「世界の"まだ誰も気づいていない真理"を見つけてしまった」
ような気がして、
これもまた、自分の中に留めておこう、と思うんです。

『これを広めたら、価値が低くなってしまう』
という気持ちがどこかにある。

大勢が知る
それはつまり、
それを見つけた自分の苦労や努力は薄れ、
それを見つけ出した自分のこの感性は、
なんら少数派でも、特別なものでもない
ということの示しなのではないか、
と。
(少ないって、なんだか特別な感じがします。
オートクチュール・一点もの・宝石・精鋭部隊・才能のある一部の人々…
そういうものって少ないから貴重。)



そんな風に思うのです。
そしてそれが、なんだか怖くある。



しかし第一、
この漫画・音楽は自分が見つけはしたものの、
それをこの世に生み出したのは、自分ではない。
(当たり前なんですけど、いつの間にか
その境目が自分の中で消える時があります)

つまりその価値とは、
自分を「飾るもの」としての価値。
自分の「感性を他人に示すもの」としての価値。
飾り。



そこに果たして自分の価値が示されるのかどうか。

そうじゃない、と最近思いました。



それぞれの制作者の真意は分かりませんが、
しかしこれらは、受取手の価値を計るものとして
生み出されるものでは、きっとない。

自分の中から生み出されるものこそ、
自分の真の価値なのではないかと
考えています。

だからこそ、
その点で自分の価値が下がるような
気持ち・恐れを抱くのは、
勿体無いな、とも思いました。

それらは価値を計る物差しではない。
留めていることで、価値が上がるものでもない。


それにこれは、
目的と手段を取り違えている一例かもしれません。

感性を養う”糧”(手段)になるけど、
それが自分の感性"そのもの”(目的)
ではない。

なぜなら、
あくまでも生み出し手は、
自分ではないから。
それ自体が全て自分の価値を体現するに、至らない。
(自分が好きなものであることに変わりはありませんが)

それに自分の価値を委ねてしまっている状態。
自分の価値の大部分を外側に委ねると、
苦しくなるのだと思います。

もっと内側から生み出される唯一無二が
そこにあるはずなのに。


やっぱり、何においても循環というのは大事なんだと
つくづく思うんです。
循環が世界の土台であり、
だからこそ循環なしでは何事もあり得ない。

循環とはつまり環・円。
(「環」は私の中で、どんな時も忘れたくない言葉です。)

だからここで誰かに共有した時、
そこで終わらず、
環に沿って、
むしろいい形で自分に返ってくるんじゃないか
と思います。
(損得の物差しで考えているかもしれませんが)

共感が得られた時や、同じ感覚を持った人と出会えた時、
単純な好きから発展していったり。

最近は、いいなと思ったものを留めず、
流すようにしています。

これもその一つです。
世界の真理ではないですが、
自分にしっくりきた考えをこれから留めずに発信します。


ブログは道端に転がしておくようなものだと思うので、
拾うも、拾わないも、また置くも、誰かに見せるも
受け取り手の判断に委ねられるところがあるので、
いいツールですね。強制がない。


:終わりに

という話でした。
いかがでしたでしょうか。
なんだか決意表明みたいになりましたネ。

また近々更新する気でいます。
では、葱でした。

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